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きみを守るのは、ぼくの知られない戦争  作者: 最後に残った形


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第4章 第1話:禁じ手の前夜


 越えてはいけない線というものは、たいてい越える前から見えている。


 見えているから迷う。

 見えているから、まだ戻れる気がする。

 けれど本当に厄介なのは、その線の向こうに守りたいものがある時だ。


 そうなると人は、正しさより先に手を伸ばしてしまう。


 相模第七防衛区画の深夜は、静かというより薄い。


 人の声が減り、端末の駆動音と空調の低い唸りだけが残る。戦術支援管制室の照明は昼と変わらず白いままだが、その白さの中で動いている人間はもう少ない。夜勤帯の解析員、通信監視、最低限の戦況追跡。誰もが必要なことしか喋らない。


 榊冬真は、その白い光の下で端末を見つめていた。


 壁面モニタには明日の大規模殲滅作戦の戦域図。

 自席の画面には、同じ作戦の分岐シミュレーション。

 赤い損耗予測線、青い中継網、黄色で強調された突破軸。

 その中心に、いつものように暁式参号の識別コードがある。


 天城澪。

 先鋒観測兼突破軸。

 局地危険度、高。


 その表示を見ただけで、胸の奥が静かに硬くなる。


「まだやってるのか」


 隣から瀬名の声がした。

 見ると、紙コップ片手にこちらを覗き込んでいる。徹夜明けが近い顔だったが、冬真も似たようなものだろう。


「確認だ」

 冬真が返す。

「何回目の確認」

「分からない」

「怖いから数えてくれ」


 冬真は返事をしない。

 代わりに、また条件を一つ変えてシミュレーションを回す。


 突破軸、現行案。

 敵側収束速度、想定上限。

 味方中継遅延、〇・六秒。

 補助制御、現行値。


 計算結果が出る。

 局地突破成功率、低下。

 暁式参号生存率、規定値ぎりぎり。

 敵側追尾収束、想定より早い。


 足りない。


 冬真は次の条件を重ねる。


 補助制御、一段強化。

 補助中継、裏層経由。

 敵指揮同期観測、深度上昇。


 再計算。

 暁式参号生存率、上昇。

 ただし検出痕、増大。


「ほらな」

 瀬名が言う。

「またそこだ」

「何が」

「天城少尉だけ数字詰めてる」

「突破軸だからだ」

「便利な理屈だな」


 瀬名は冬真の端末へ手を伸ばし、ログの比較表を呼び出す。

 他の前線機の支援条件、暁式参号の支援条件、補助制御の更新頻度、優先処理の重み。

 全部並ぶと、嫌でも分かる。


 偏っている。


「……ほんとにそのまま出るな」

 瀬名が低く言う。

「何が」

「お前の優先順位」

「合理だ」

「違う」

 瀬名は即答した。

「もうその言い訳、数字が許してない」


 冬真は目を細める。

 だが画面から目を逸らさない。


「合法範囲だけで間に合うならそうしてる」

「間に合わないからこうしてるんだろ」

「ああ」

「で、非公式まで乗せると生存率が跳ねる」

「……」

「でも痕跡が残る」


 その通りだった。


 画面の下段には、冬真がまだ誰にも見せていない試算が残っている。

 正式な支援のみ。

 暁式参号生存率、五二。

 非公式回線併用。

 六四。

 敵同期直接干渉、限定使用。

 七三。


 七三。

 数字だけ見れば十分ではない。

 だが、やらなければ落ちる可能性が一気に現実味を持つ数字だった。


「榊」

 瀬名が声を落とす。

「次はほんとにバレるぞ」

「……」

「今までみたいに“やりすぎの後方支援”では済まない。“誰がやったか”まで掘られる」

「分かってる」

「分かってて、そこまで組んでる顔してる」


 冬真はそこでようやく椅子にもたれた。

 疲労がないわけじゃない。

 ただそれ以上に、頭の中の計算が止まらない。


 合法の範囲では足りない。

 補助制御の現行値でも足りない。

 敵はもうこちらの優先順位を読んでいる。

 次の作戦では澪を餌にして、自分を出すつもりで来る。


 それでも、足りないならやるしかない。


「非公式プログラム、改修したのか」

 瀬名が訊く。

「……ああ」

「どこまで」

「敵指揮同期の深層までは触れない」

「それはまだ良心ある言い方か?」

「表層揺らしと、予備中継の強制再配分。それと」

「それと?」

「補助制御の臨界応答を一段外す」


 瀬名が露骨に嫌そうな顔をした。


「うわ」

「何だ」

「それ、暁式参号の挙動ほぼ専用じゃねえか」

「そうだ」

「隠す気薄れてきてない?」

「……必要だからだ」

「出たよ、その言葉」


 必要。

 便利で、薄くて、でも今の冬真にとってはそれ以外に言いようがない言葉だ。


 澪が死なないために必要。

 それだけのために、自分はここまで来ている。


「お前さ」

 瀬名が紙コップを置く。

「もう止まれないのは分かる。でも、次は本当に戻れないかもしれないぞ」

「戻る場所がどこだ」

「少なくとも“ただの後方支援”って顔」

「……」

「もう半分なくなってるけどな」


 軽口の形をしていても、その言葉は重かった。


 冬真は再び端末へ向き直り、深層メニューを開く。

 承認外領域。

 非公式プログラム。

 敵同期揺らし、予備中継強制接続、補助制御連動。


 今までより一段深い。

 明らかに一線を越えた改修だった。


 必要にならないなら、それが一番いい。

 だが必要になる未来のほうが、今はずっと鮮明だった。


 そのとき、個人回線に短い通知が入る。


 送信者:天城澪


 冬真の指先が止まる。

 瀬名がそれを見て、わざとらしく息をついた。


「ほら来た」

「見るな」

「見てない。でも今ので十分分かる」


 冬真は通知を開く。


 ――起きてる?


 たったそれだけの文面。

 それだけなのに、さっきまでただの数字だった画面が急に現実味を増す。


 冬真は少し考えてから返す。


 ――起きてる

 ――お前こそ寝ろ


 すぐに返信が来る。


 ――眠れない

 ――少しだけ話せる?


 胸の奥がわずかに重くなる。


 作戦前夜。

 怖いと言っていた澪。

 今のこの時間に連絡してくる意味を、考えないふりはできなかった。


「行けよ」

 瀬名が言う。

「……」

「今の天城少尉を放置して、ここで数字眺めてても顔もっと悪くなるぞ」

「お前な」

「事実だろ」


 冬真は短く返す。


 ――どこだ


 返答はすぐだった。


 ――格納デッキ脇の観測通路

 ――白い機体が見えるところ


「分かりやすいな」

 瀬名が呟く。

「うるさい」

「で、行くんだろ」

「ああ」

「なら一個だけ」


 冬真が立ち上がると、瀬名が珍しく真面目な声で続けた。


「明日、お前が越えるのは“戦術支援の線”だけじゃないかもしれない」

「……」

「そこも、覚悟しとけ」


 冬真はそれに答えず、管制室を出た。


 格納デッキ脇の観測通路は、夜になるとひどく広く見える。

 整備灯が落ちたあとの白い機体群、遠くで点く補助灯、金属床へ落ちる静かな光。昼間は人と機械の動きで埋まる場所なのに、今は空気そのものが空いているみたいだった。


 白い機体が見えるところ。

 澪が言った通り、暁式参号の固定台が遠くに見える位置に、彼女は立っていた。


 ジャケットの前を閉じ、腕を組むでもなく、ただ手すりへ軽く指をかけている。後ろ姿だけで、眠れていないことが分かる。肩に少しだけ余計な力が入っていた。


「来た」

 澪が振り向く。

「ああ」

「来ると思った」

「呼ばれたからな」


 澪は少しだけ笑う。

 でもその笑みは浅い。


「眠れないのか」

 冬真が訊く。

「うん」

「目、閉じろ」

「雑」

「事実だ」

「それで眠れたら苦労しない」


 冬真は澪の少し離れた位置へ立つ。

 窓越しに白い暁式参号が見える。その機体の中に、自分が仕込んだ補助制御が眠っていると思うと、呼吸が浅くなった。


「明日」

 澪が先に言う。

「かなり危ないんでしょ」

「……」

「その顔で黙ると、答え合わせなんだよね」

「危ない」

 冬真は正直に言う。

「でも、お前だけじゃない」

「うん」

「ただ、お前のところはもっと危ない」

「うん」


 澪は否定しない。

 やはり分かっている。


「怖い?」

 冬真が訊く。

「怖い」

 澪は静かに答える。

「ちゃんと怖い」


 その返事に、冬真は少しだけ目を伏せる。


「でも行く」

 澪が続ける。

「行くんだろうな」

「うん。たぶん、そうしないと私じゃなくなるから」


 それはひどく澪らしい言葉だった。


 前へ立つことが役割だからではない。

 自分でそれを選ぶ人間だから、行く。

 そういうところが、冬真にはずっとまぶしくて、ずっと危うい。


「冬真」

「なんだ」

「明日、また見てて」

「見てる」

「それだけじゃなくて」

 澪が少しだけ言葉を止める。

「……戻れなさそうになったら、ちゃんと引っ張って」


 その言葉で、冬真の胸の奥が静かに痛む。


 頼られている。

 それも、かなり深いところで。

 そして自分は、その期待に応えるために禁じ手を使おうとしている。


「重いな」

 冬真が言う。

「うん」

 澪が少し笑う。

「今さらだけど」

「そうだな」

「でも、冬真にしか言えない」


 またそれだ。

 逃げ道がなくなる言葉を、澪はこんな時だけひどく自然に置いていく。


「……分かった」

 冬真は低く返す。

「何を」

「引っ張る」

「うん」

「だからお前は、戻ることだけ考えろ」

「うん」


 そこで澪は少しだけ顔を上げ、手すり越しに白い暁式参号を見た。


「私さ」

「なんだ」

「冬真が見てると、戻れる気がする」

「……」

「でも、それに甘えすぎるのも怖い」


 その言葉は、これまでの澪の言葉の中でもとくに重かった。


 守られることに甘えたくない。

 でも、守られていることを支えにしている。

 その矛盾を、澪自身ももうちゃんと分かっているのだ。


「甘えるな」

 冬真が言う。

「ひどい」

「でも、頼れ」

「どっち」

「両方だ」

 澪は少しだけ笑った。

「雑なくせに難しいんだよね、冬真の言うこと」


 その笑顔が少しだけ自然になる。

 それだけで、ここへ来た意味はあったのかもしれないと思う。


「ねえ」

 澪が小さく言う。

「明日、もし戻れたら」

「戻る」

「うん。戻る前提で言う」

 澪は一拍置いてから続ける。

「今の続き、ちゃんと話そう」

「……」

「近いのに遠いってやつ」

「ああ」

「もう少し、ちゃんと近くなりたい」


 その一言で、冬真は喉の奥が少し詰まる。


 それは告白ではない。

 でも、ただの幼馴染の会話でもない。

 たぶん二人とも、その中間でずっと息をしている。


「難しいな」

 冬真が正直に言う。

「知ってる」

 澪が頷く。

「でも、難しいままで終わるのも嫌」


 その気持ちは、きっと冬真も同じだった。


 守るだけでは届かない。

 見ているだけでも足りない。

 でもどう届けばいいのかは分からない。


 その答えを出す前に、まず明日を越えなければならない。


 遠くで端末の呼び出し音が鳴る。

 今度は澪のものだった。

 前線待機への最終呼び出しだろう。


「来た」

 澪が言う。

「ああ」

「行かなきゃ」

「そうだな」


 通路に落ちる光が、ほんの少しだけ冷たく感じる。

 現実が、また二人をそれぞれの位置へ引き戻す。


 澪は手すりから指を離し、一歩だけ冬真に近づいた。

 触れるほどではない。

 でも、今までよりは近い。


「冬真」

「なんだ」

「明日、無茶するでしょ」

「お前もだ」

「私はする」

「俺もする」

「知ってた」


 澪は少しだけ笑う。

 その笑みには不安もある。

 でも、その不安を隠しきらないまま笑えるのは、たぶん今ここだけだ。


「おやすみ」

 澪が言う。

「……寝るのか」

「努力はする」

「しないだろ」

「冬真もね」


 最後にそう言って、澪は踵を返した。

 数歩進んでから、振り返らずに言う。


「ちゃんと届いてね」

「……何が」

「今は、まだ分かんなくていい」


 そのまま澪は通路の向こうへ消えていく。


 残された冬真は、しばらくその場に立ち尽くしていた。

 白い機体。

 明日の作戦。

 改修した非公式プログラム。

 そして“ちゃんと近くなりたい”と言った澪の声。


 守るだけでは、もう届かない。

 だからこそ、明日また自分は禁じ手を使う。

 それはたぶん、守るためでもあり、届きたいからでもある。


 その時点で、もう昔の自分には戻れないのだと、冬真ははっきり理解していた。


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