第3章 第11話:届かないまま近い
近さと距離は、同じものの裏表ではない。
心が近づいたからといって、立場の差が消えるわけじゃない。
名前を呼べる距離にいるからといって、隣に立てるわけでもない。
むしろ人は、近づけば近づくほど、届かないものの形をはっきり知ってしまう。
それでも手を伸ばさずにはいられない時点で、もう引き返す道はだいぶ細い。
相模第七防衛区画の夜は、明日の作戦を知っている人間から順に重くなる。
中央区画の通路を歩く兵士たちの声は少なく、整備区画では必要以上の雑談が消えていた。戦術支援管制室でも、普段なら軽口を叩く瀬名すら、今夜は机に向かう時間が長い。誰もが明日の大規模殲滅作戦の危うさを理解している。理解して、それでも止められないから黙っている。
榊冬真は、自席の端末を閉じたまま動かなかった。
澪の生存率を示す数値は、さっき見た時から変わっていない。
補助制御の現行値では足りない。
合法範囲の支援だけでは足りない。
そして、その“足りなさ”を自分がどこまで埋めようとしているのか、もう誤魔化しようがない。
「行かないのか」
瀬名が隣から言った。
椅子に半分もたれたまま、缶コーヒーを指先で回している。
「どこに」
冬真が返す。
「その顔でまだ言うか。天城少尉のとこだよ」
「……」
「さっきから通知見てるだろ」
端末の端に、個人回線の未読表示が小さく灯っていた。
送信者は天城澪。
冬真はそれを見ないふりで数分やり過ごしたが、瀬名には全部ばれているらしい。
「見てない」
「うわ、嘘下手」
「うるさい」
「見ろよ。どうせ行くんだろ」
「……」
冬真はようやく通知を開いた。
――少しだけ、話せる?
短い。
それだけなのに、昼の会議室脇での澪の顔がまた浮かぶ。
怖い、と言った声。
それでも行く、と決めていた目。
冬真は短く返した。
――どこだ
すぐに返信が来る。
――防壁寄りの観測通路
――人が少ないところ
「ほら」
瀬名が言う。
「行き先まで決まってる」
「お前、ほんと最悪だな」
「知ってる。で、行け」
「命令か」
「忠告だ。行かないで後悔する顔はもっと面倒だから」
冬真はそれに返事をせず、管制室を出た。
防壁寄りの観測通路は、基地の中でもとくに夜が濃い場所だ。
窓の向こうには暗い街の輪郭と、防壁上を巡る警戒灯の赤が見える。蛍光灯は必要最低限しか点いておらず、床へ落ちる光も薄い。ここは好きでも嫌いでもない。ただ、話したいことがある人間が人目を避けるにはちょうどいい。
通路の端、窓際に澪は立っていた。
前線用の簡易制服の上にジャケットを羽織り、手には何も持っていない。壁にもたれず、ただ外を見ている。その横顔は静かだった。昼間に見た“前へ立つ顔”でもなく、広報で作る笑顔でもない。疲れていて、でも張っている、今の澪そのものの顔。
「来た」
澪が振り向かずに言う。
「呼ばれたからな」
冬真が答える。
「うん」
「何の話だ」
澪はすぐには答えない。
窓の向こう、防壁上の光をしばらく見たまま、小さく息を吐いた。
「明日のこと」
やがて言う。
「だろうな」
「あと、私たちのこと」
「……」
その後半が、思っていたより静かに刺さる。
冬真は澪の隣まで行かず、少し離れた位置で立ち止まった。
近づけば何かを越えそうで、けれど遠すぎるのも違う。そんな曖昧な距離ばかりを最近は選んでいる気がする。
「会議のあとからずっと考えてた」
澪が言う。
「何を」
「近いのに、遠いなって」
冬真は何も返せない。
近いのに遠い。
それはたぶん、今の二人をいちばん正確に言い表す言葉だった。
秘密を抱えたままでも、澪は冬真へ弱さを見せる。
冬真もまた、澪にだけ隠しきれない本音を零し始めている。
心の距離は、たしかに前より近い。
それなのに、現実の立ち位置はむしろ遠い。
澪は英雄で、
冬真は無名の後方支援で、
表では並べない。
「昔はもっと簡単だった気がする」
澪が続ける。
「ただ会って、話して、くだらないことで笑って、それで終わりだった」
「昔は戦場じゃなかった」
「うん」
澪は頷く。
「でも、戦場になったからって、こんなに遠くなると思ってなかった」
その言葉に、冬真の指先がわずかに握られる。
「遠くしたのは、半分は俺だ」
低く言う。
「うん」
澪はすぐに否定しない。
「分かってる」
「なら」
「でも、半分は私だよ」
澪がようやくこちらを向く。
「前に出ること、やめなかったし。たぶん、これからもやめない」
「……」
「それで冬真が引くのも、少しは分かる」
責めない。
責めないから余計に苦しい。
もし澪が怒ってくれれば、まだ楽だったかもしれない。
でも澪は、いつも“分かろうとする”。
それが今の冬真には一番きつい。
「引いてるつもりはない」
「じゃあ」
澪が少しだけ首を傾げる。
「何してるの」
「……守ってる」
気づけば、そのまま出ていた。
澪の目が、わずかに揺れる。
けれど驚いた顔ではない。
むしろ、ずっと前から知っていた答えを、ようやく言葉で受け取ったような表情だった。
「うん」
澪が小さく頷く。
「知ってる」
「……」
「全部じゃないよ。何をどうしてるかまでは分かんない」
「……」
「でも、守ろうとしてるのは分かる」
冬真は視線を逸らしたくなる。
逸らさなかった。
ここで逸らしたら、たぶん今夜はもう終わる。
「それでも」
澪が言う。
「近いのに、遠い」
冬真はようやく澪を見る。
窓の向こうの赤い警戒灯が、一定の間隔で澪の頬に薄い色を乗せる。
その顔は静かで、少し疲れていて、少しだけ心細く見えた。
「……ああ」
冬真は認めるしかない。
「そうだな」
澪はその返事を聞いて、ほんの少しだけ目を閉じた。
やっと同じ場所に言葉が落ちた、という顔だった。
「私さ」
「なんだ」
「最近、冬真がいると怖さがちょっと薄れる」
「……」
「それって、たぶんすごく重いことなんだろうなって思う」
重い。
その通りだ。
でも、その重さを嫌だと思えない自分がいるから余計に厄介だった。
「重いな」
冬真が言う。
「うん」
「かなり」
「うん」
「でも、お前がそうやって言うから、余計に離れられなくなる」
そこまで言ってから、また少しだけ本音が出すぎたと思う。
澪は静かに笑う。
嬉しそうでも、からかっているわけでもなく、ただその言葉を受け止める笑い方だった。
「じゃあ、おあいこかも」
「何が」
「私も、冬真がいると離れにくい」
その返しに、冬真は答えられなかった。
窓の外では、防壁の向こうに広がる暗い街が何も答えない。
戦争がそこにあることだけは、警戒灯の赤が教えてくれる。
「でも」
澪がまた言う。
「それでも届かない感じするんだよね」
「……」
「冬真は近くにいるのに、言わないことが多すぎるし」
「お前もだろ」
「私はけっこう言ってる」
「怖いとかか」
「それも」
澪は少し笑う。
「それに、いないと困る、とか」
冬真の喉が、少しだけ詰まる。
たしかに澪は前より多くを言う。
頼ってくる。
弱さも、本音も、少しずつこちらへ渡してくる。
だからこそ、自分だけが肝心なところで言えないままなのが痛い。
「冬真」
澪が静かに呼ぶ。
「なんだ」
「いないと困る」
「……」
「それ、たぶん前よりずっと本当」
その一言で、冬真はまっすぐ澪を見てしまう。
澪も目を逸らさない。
そこにあるのは甘い雰囲気というより、切実さに近い。
英雄の顔でも、幼馴染の気安さでもなく、ただ一人の人間として言っている顔だ。
「私、明日また前に出る」
澪が言う。
「分かってる」
「怖い」
「分かってる」
「でも行く」
「ああ」
「それでも、冬真がいるならたぶん戻れる」
冬真は目を閉じたい衝動をこらえる。
守るだけでは足りない。
ここまで来て、はっきりそう思ってしまう。
戦場で死なせないことだけが全部ではない。
こうして押し潰されそうな顔をしている澪を、本当の意味で救えているのかと問われれば、答えに詰まる。
見ている。
守っている。
支えている。
でも、それだけで届いているのか。
届いていない。
少なくとも、自分の中ではそう感じ始めていた。
「……澪」
冬真が低く呼ぶ。
「うん」
「守るだけじゃ、たぶん足りない」
「え」
澪の目が少しだけ揺れる。
「それ、どういう」
「分からない」
冬真は正直に言う。
「でも、今のままじゃ足りない気がしてる」
澪はしばらく黙っていた。
その沈黙は怖かったが、目を逸らす気にはなれなかった。
「そっか」
やがて澪が言う。
「私も、ちょっと似たこと考えてた」
「何を」
「見ててくれるだけでも嬉しい」
「……」
「でも、見てるだけじゃ苦しいなって思う時がある」
胸の奥が静かに痛む。
同じ場所へ来てしまっている。
同じ“足りなさ”に触れ始めている。
「近いのに」
澪がぽつりと言う。
「遠いよね」
「ああ」
「でも、いないと困る」
「……ああ」
それ以上の言葉が、今は出てこない。
言えたら何かが変わるのかもしれない。
でも明日の作戦前夜に、それを口にするのはあまりにも危うかった。
変えたいのに、変えられない。
その半端さが、今はたまらなく苦しい。
遠くから、短い呼び出し音が鳴る。
今度は冬真の端末だった。
戦術支援卓への帰還要請。最終調整の時間らしい。
「来た」
澪が言う。
「ああ」
「戻らなきゃ」
「そうだな」
現実が、容赦なく会話を切る。
それが戦争なのだと思う。
澪は一歩だけ後ろへ下がる。
でもすぐには去らない。
「冬真」
「なんだ」
「明日、たぶんまた無茶する」
「知ってる」
「怒る?」
「怒る」
「そっか」
澪は少しだけ笑う。
「でも、見てて」
「見てる」
「……うん」
その頷きは、約束を受け取るような静かさだった。
「帰ってきたら」
澪が続ける。
「今の続きを、ちゃんと話そう」
「……」
「逃げないで」
「難しいな」
「知ってる」
「でも」
冬真はそこで一度だけ息を吐く。
「逃げないようにはする」
「それでいい」
澪はやわらかく笑った。
「今は」
今は。
その言葉が、次章の扉みたいに重く聞こえる。
澪は最後にほんの少しだけ視線を落とし、それからまた顔を上げた。
もう“前に立つ顔”に戻りかけている。
明日へ向かうための顔だ。
「じゃあ、おやすみ」
「ああ」
「ちゃんと戻るから」
「死ぬな」
冬真は低く言う。
「うん」
澪は頷き、そのまま通路の向こうへ歩いていく。
冬真はしばらくその背中を見送った。
近いのに遠い背中。
届きそうで届かない距離。
それでも、いないと困ると互いに言ってしまった距離。
戦術支援管制室へ戻る途中、基地中央の大型スクリーンにはまた澪の名前が映っていた。
英雄、希望、先鋒。
いつも通りの言葉たち。
だが冬真の中では、もうそれだけでは済まない何かが静かに形になり始めている。
守るだけでは、もう届かない。
その感覚を胸に抱えたまま、
冬真は次の戦場へ向かうための白い光の下へ戻っていった。




