第3章 第9話:切れない視線
視線は、ときどき言葉より先に本音をさらす。
見ているつもりがなくても、
追ってはいけないと思っていても、
気づけば同じ一人を探している。
それが癖になった時点で、もう誤魔化しはきかない。
相模第七防衛区画の朝は、妙に冷えていた。
気温の問題ではない。基地全体の空気に、次の作戦が持つ重さが滲んでいる。大型殲滅作戦の草案が夜のうちに回され、前線も後方もそれを見た人間から順に顔色を悪くしていた。
戦術支援管制室の壁面モニタには、北部戦線一帯の広域マップが展開されている。
複数の敵前進拠点。
包囲形成予測。
味方主力投入ライン。
そして、犠牲を許容したまま一気に押し潰すための赤い収束線。
美しく、嫌な図だった。
「見れば見るほど、気分悪いな」
瀬名が言う。
「犠牲前提の形が綺麗すぎる」
「ああ」
冬真が答える。
榊冬真は自席で作戦草案を開いたまま、無言で読み進めていた。
何度目か分からない確認だ。
見落としがあることを期待しているのかもしれない。
だが見れば見るほど、嫌な現実だけがはっきりする。
今回の作戦は、成功率を取りに行く形ではない。
敵の集積点をまとめて潰すために、前線を複数層でぶつけ、一定の損耗を最初から織り込んでいる。合理的だ。戦力差と時間制限を考えれば、分からなくもない。
だが、その合理の中心にまた澪の隊がいる。
「先鋒観測兼突破軸」
瀬名が資料を指で叩く。
「ほんと、よくもまあ毎回毎回使うよな」
「使いやすいんだろ」
冬真の声は低かった。
「その言い方、怒ってる時のやつだぞ」
「怒ってない」
「嘘つけ」
嘘だった。
怒っている。
作戦立案そのものに。
敵に。
そして、こういう案が出れば澪が引き受けると分かっていることにも。
画面上の損耗予測を再表示する。
前線全体の平均生存率は許容範囲だ。
だが、澪の隊が担う突破軸の局地リスクだけが、嫌に高い。
それでも草案として通るのは、澪の生還率が他の誰より高いからだ。
高いから任される。
任されるからもっと危ない場所へ行く。
その循環が、冬真にはもう我慢ならなかった。
「榊」
瀬名が少し真面目な声になる。
「顔、抑えろ」
「何がだ」
「今そのまま司令卓に行ったら、“戦術上の意見”じゃなくて“天城少尉を危険な目に遭わせるな”って感情ごと出る」
「……」
「図星だろ」
図星だった。
冬真は端末を閉じ、ひとつ息を吐く。理屈を組み立てなければならない。感情のまま口を開けば終わる。そう分かっているのに、胸の奥ではずっと別の言葉ばかりが渦巻いていた。
行くな。
引き受けるな。
そこまで背負うな。
そんなことは言えない。
言う資格が自分にないことを、一番知っているからだ。
午前の作戦確認会議は、中央会議ブロックの中型室で行われた。
前線指揮、後方支援、補給、整備、通信。いつもより人が多い。誰もが今回の作戦が普通ではないと分かっているからだ。
澪も来ていた。
前列、先鋒隊の席。
簡易戦闘制服のまま、資料端末へ視線を落としている。
その横顔を見た瞬間、冬真の視線は自然に止まった。
疲れは残っている。
だが目はもう前を向いている。
二人だけの温度があった昨夜とは違う。いまの澪は、また“前へ立つ顔”に戻っていた。
それが誇らしくて、ひどく苦しい。
『今回の主目標は敵前進拠点群の同時圧迫および北部戦線の押し戻し』
司令卓の声が室内へ響く。
『先鋒観測兼突破軸は、敵の反応を引き出しつつ主力の圧着を補助する』
冬真は澪の前に投影された進路予測を見た。
嫌な角度だった。
敵が一番学習しているライン。
澪が一番“無理をしてでも通す”と読まれやすい形。
「……っ」
自分でも気づかないうちに、奥歯に力が入る。
「榊」
横から瀬名が小さく呼ぶ。
「分かってる」
「何が」
「まだ黙ってる」
「まだ、って言ったな今」
会議は淡々と進む。
補給線。
中継予備。
撤退条件。
数字だけ見れば整っている。だが整っているほど嫌だった。人を使い潰す案ほど、書類の上では綺麗になることがある。
『意見があれば』
その一言で、冬真は立っていた。
「戦術支援三番、榊」
『発言を許可する』
室内の視線が集まる。
澪も振り向きはしなかったが、少しだけ姿勢が変わったのが分かった。
「現草案では、突破軸の局地損耗が高すぎます」
冬真はできるだけ平坦に言う。
「敵側は先鋒機の観測優先順位をすでに学習している。ここで同じ軸に高機動主力を当てれば、敵指揮ノードの再収束を誘発し、突破効率より損耗率の上昇が先に来る可能性が高い」
理屈は通っている。
感情を削り、構造だけを出す。
『代案は』
「突破軸を複線化し、先鋒一極集中を避けるべきです。無人観測群の前段散布、補助中継の事前展開、陽動層を追加すれば――」
『準備時間が不足している』
司令卓が切る。
『現時点では即応性を優先する』
やはりそう来る。
「それでも、先鋒の一点負荷は――」
『榊担当官』
声が少し硬くなる。
『懸念は記録する。だが現案を基準に再計算を進める』
そこで終わりだった。
冬真は席に戻る。
戻りながら、自分の表情がどれだけ抑えられているのか分からなかった。
「危な」
瀬名が小さく言う。
「今の二言目から、かなり本音出てたぞ」
「……」
「抑えろって」
会議終了後、前線班は次の調整へ流れていく。
冬真も自席の端末を閉じ、出口へ向かいかけた。その時だった。
「冬真」
振り向く。
澪が立っていた。
人の流れの中なのに、その一言だけ妙にはっきり聞こえた。
澪は少しだけ困ったような、でも逃がさない顔をしている。
「何だ」
「ちょっとだけ」
「今?」
「今じゃないと、また誰か来る」
その言い方に、もう断れない。
会議室脇の細い通路へ移る。
昼間の喧騒から少しだけ切り離された場所。壁に沿って予備端末が並び、蛍光灯の白が少し冷たい。ここなら人通りはあるが、立ち話くらいはできる。
「さっき」
澪が先に言う。
「止めようとしてた」
「戦術上の意見だ」
「うん」
澪は頷く。
「でも、それだけじゃない」
冬真は何も言わない。
「冬真、ずっと私見てた」
澪が静かに言う。
「会議中」
「仕事だ」
「その返し、最近ほんと便利だね」
少しだけ笑う。
けれど笑いきれない。
澪ももう、それで全部は誤魔化せないと知っている。
「今回、危ない?」
澪が訊く。
「……」
「正直に」
「危ない」
今度はすぐに答えた。
「そう」
澪は目を伏せる。
「だよね。私もそう思った」
その一言で、胸の奥が少しだけ冷える。
やはり澪も分かっているのだ。
今回の作戦が、これまでより一段危ういことを。
「でも行く」
冬真が低く言う。
「行くよ」
澪は静かに返した。
「私が行けるなら、それが一番速いから」
またそれだ。
正しい。
分かっている。
だから苦しい。
「お前は」
冬真の声が少しだけ硬くなる。
「そうやって簡単に引き受けすぎる」
「簡単じゃないよ」
「ならもっと嫌がれ」
「嫌だよ」
澪はすぐに言う。
「嫌だけど、必要ならやる」
必要。
その言葉がひどく嫌だった。
必要なら、澪はまた自分を後回しにする。
そういう人間だと知っているから、なおさら。
「……見てるだけじゃ足りない」
気づけば、そう漏れていた。
自分でも驚く。
かなり深い場所の本音だった。
澪の目が、少しだけ見開かれる。
「え?」
「……」
「今、何て」
「何でもない」
「嘘」
冬真は視線を逸らす。
もう遅い。
澪は確実に聞いていた。
「見てるだけじゃ足りないって言った」
澪が静かに確認する。
「……」
「それ、どういう意味?」
どういう意味か。
自分でも、もう言葉の外側で分かっている。
支援担当としてではない。
ただの幼馴染としてでもない。
一人の人間として、澪を失いたくない。
それだけの意味だ。
だが、それを口にすることはできない。
「冬真」
澪がまた呼ぶ。
「私、怖いよ」
その一言で、冬真の思考が止まる。
澪は壁へ背を預けたまま、少しだけ視線を落とした。
「今までだって危なかった」
「……」
「でも今回は、なんか違う」
「そうだな」
「うん。ちゃんと怖い」
いつもなら、“それでも行く”で終わるはずの澪が、自分から“怖い”と口にした。
それだけで、この作戦がどれだけ澪に重いか分かる。
「でも」
澪が言う。
「怖いって言ったら、前に立てなくなる気もする」
「立たなくていい」
冬真が即座に返す。
「それは無理」
「……」
「無理なんだよ、冬真」
澪の声は静かだった。
泣きそうでも怒っているわけでもない。
ただ、自分の役目を引き受けてしまっている人間の声だった。
「ねえ」
澪が少しだけ顔を上げる。
「私が怖いの、分かる?」
その問いは、答えを求めているようでいて、実際には“分かってほしい”に近かった。
冬真はすぐには返せない。
でも沈黙するほうがたぶん逃げだ。
「分かる」
ようやく言う。
「本当に?」
「ああ」
「……そっか」
澪はほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「それだけで、ちょっと違う」
小さく言う。
「何が」
「怖さの形」
「……」
冬真はその言葉を、どう受け取ればいいのか分からない。
自分が見ていることが、支えになる。
それを何度も澪は言う。
けれど今の冬真には、それだけでは足りないという感覚のほうが強くなっていた。
作戦に出る澪を、
ただ見送って、
ただ監視して、
ただぎりぎりで支えるだけでいいのか。
足りない。
でも、何ができるのかは分からない。
そのとき、会議室側から人の気配が近づいた。
誰かが通路へ入ってくる前に、澪が一歩だけ離れる。
「行かなきゃ」
「ああ」
「……見てて、とは言わない」
澪が言う。
「何で」
「それ、今言うと重いから」
「今さらだろ」
思わずそう返すと、澪が少しだけ笑った。
「じゃあ」
澪はほんのわずかに目を細める。
「ちゃんと見てて」
結局、言う。
そういうところがずるい。
「……ああ」
冬真は低く答えるしかない。
「行ってくる」
「ああ」
「死ぬな、って言って」
澪が小さく言う。
それは冗談みたいな言い方だったのに、目だけはまったく笑っていなかった。
冬真の喉が少しだけ詰まる。
「死ぬな」
短く、はっきり言う。
「うん」
澪は頷く。
「それ、ちょっと効く」
その一言を残して、澪は通路の向こうへ戻っていく。
また“前に立つ顔”へ戻るための背中だった。
冬真はその背中を見送ったまま、しばらく動けなかった。
切れない視線。
まさにそれだと思う。
見ないでいようとしても見てしまう。
遠くなったと思っても、視線だけは切れない。
その視線の先にいる澪が、“怖い”と自分にだけ言った。
それだけで、もう後戻りは難しかった。
「おーい」
通路の入口から瀬名が顔を出す。
「終わったか」
「何が」
「そういうのもういいって。で、どうだった」
冬真は数秒黙ってから、低く答えた。
「怖いらしい」
「天城少尉が?」
「ああ」
「……そりゃ重いな」
瀬名は珍しく軽口を挟まなかった。
「で、お前は?」
しばらくしてから訊く。
「何が」
「その“見てるだけじゃ足りない”の続き」
「……」
「自分でも分かってるんだろ」
「……ああ」
「じゃあ、もう支援担当の顔だけじゃ無理だな」
冬真は否定しない。
無理だ。
もうかなり前から、たぶん。
作戦シミュレーションを見れば、澪の生存率ばかり先に目が行く。
壇上で別の誰かと並べば、胸の奥が痛む。
怖いと言われれば、それだけで自分の呼吸まで変わる。
それが何なのか、もう答えは出ている気がした。
それでも口にしないのは、口にした瞬間に壊れるものが多すぎるからだ。
通路の先では、また人の流れが動き始めている。
次の戦いが近い。
冬真は壁へ背中を預けず、ただ視線だけを澪が消えた方向へ残した。
切れない視線は、
たぶんそのまま、
もう戻れない場所まで自分を連れていくのだろう。




