第3章 第8話:二人だけの温度
人は、誰といる時に自分へ戻れるのかで、その相手の意味を知る。
戦場の顔をしている時。
英雄として笑っている時。
誰かの希望でいなければならない時。
そういう時間の外側で、何も背負わなくていい相手が一人でもいるなら、それはたぶん、ただの知り合いではない。
相模第七防衛区画の夜は、ようやく少しだけ静かだった。
昼の説明会や広報対応、前線との調整会議が一通り終わり、中央区画を行き交う人も減っている。戦術支援管制室では夜間監視の当番が残っているが、昼間ほど空気は張っていない。整備区画も応急処置を終えた機体が多く、駆動音は遠くでときどき響く程度だった。
榊冬真は管制室を出たあと、観測通路を歩いていた。
明確な用事はない。
今日の処理は瀬名に引き継いでいる。
自室に戻るべき時間だ。
それでも足が向いたのは、整備区画に近いほうだった。
最近はそういうことが多い。
理由をつけられない動きが増えた。
それが澪に関係していることくらい、自分でも分かっている。
「お前、最近ほんとに分かりやすくなったな」
管制室を出る直前、瀬名にそう言われた。
冬真は無視した。
無視したが、否定もしなかった。
観測通路の先、整備区画の脇を抜けたあたりで、細い話し声が聞こえた。
澪の声だと分かった。
反射的に足が止まる。
声は機材搬入路の向こう、補助灯だけが点いている小さな作業スペースのほうからしていた。もう一人、整備主任らしき女性の声もする。
「じゃあ、今日はもうほんとに休んでくださいね」
「休むつもりだって」
「その台詞、この前も聞きました」
「今回はほんと」
「信用できません」
「ひどいなあ」
少しだけ笑ったあと、整備主任の足音が遠ざかる。
それと入れ替わるように、澪の気配だけが残る。
冬真は行くべきか迷った。
声をかければ、また“偶然通りかかった仕事帰り”くらいには見せられる。
でも、そうやって理由を作って近づく自分に、そろそろ嫌気も差していた。
「いるんでしょ」
不意に澪の声が飛んだ。
冬真の肩がわずかに揺れる。
「……」
「冬真」
「なんで分かる」
諦めて姿を見せると、澪がこちらを向いた。
作業用の軽いジャケットを羽織っていて、髪は下ろしている。昼の“似合う並び”の中にいた時よりずっと柔らかい。整備スペースの補助灯は白すぎるはずなのに、その下の澪は妙に生身だった。
「気配」
澪が言う。
「便利な言葉だな」
「冬真もよく使うじゃん」
「俺は使ってない」
「使ってる」
そのやり取りだけで、少しだけ息が楽になる。
こういう何でもない返しは、最近の二人にはむしろ貴重だった。
「何してる」
冬真が訊く。
「機体の最終確認終わったとこ」
「休め」
「またそれ」
「事実だ」
「知ってる」
澪は小さく笑って、壁際の薄いスチール箱へ腰を下ろした。
その仕草には、もう“希望の顔”の緊張がない。
本当に今日の役目を一度脱いだのだと分かる。
「冬真も座れば?」
「いい」
「そういうとこ」
「何だ」
「距離の取り方が露骨」
図星だった。
冬真は少し黙ってから、澪の正面ではなく、斜め脇に積まれた空コンテナへ腰を下ろした。近すぎず、遠すぎない位置。最近は、その半端な距離ばかり選んでいる気がする。
澪はそれを見て、何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を細めた。
「今日はどうだった」
冬真が先に聞く。
「何が」
「全部だ」
「雑だなあ」
でも澪はちゃんと考えてから答えた。
「疲れた」
「うん」
「でも、昨日までよりはまし」
「何で」
「昼のあと、冬真と話せたから」
まっすぐだった。
冬真は返事に詰まる。
「そういうの、軽く言うな」
「軽くないよ」
澪が静かに返す。
「ほんとにそう思ってる」
夜の整備区画は静かだ。
遠くでアームが一つ動くたび、金属音が薄く響いて、また消える。
その静けさの中で澪の声だけが妙にはっきり聞こえた。
「私ね」
澪が足元を見ながら言う。
「今日、ああいう場にいるのしんどかったのは本当なんだけど」
「……」
「終わったあと、冬真がちゃんと嫌そうな顔してくれたの、ちょっと救われた」
冬真は思わず顔をしかめる。
「最悪の慰め方だな」
「うん。でも、たぶん私には必要だった」
「何で」
「だって、みんなは“似合う”って言うから」
その一言で、昼のホールの光景がまた胸に戻る。
似合う並び。
理想的な配置。
安心する構図。
それらは全部、外側から見た言葉だ。
でも冬真が見ていたのは、その構図の中で澪がどれだけ自分を削っていたかだった。
「冬真は、ああいう私見て、たぶん少し嫌なんでしょ」
澪が言う。
「……」
「図星だ」
「そういう聞き方するな」
「じゃあ違う?」
「……違わない」
結局、認めるしかなかった。
澪は小さく息を吐く。
責めるわけでも喜ぶわけでもない、ただ受け止めるみたいな息だった。
「そっか」
「何だ」
「それでいい」
「よくない」
「私は、ちょっといい」
冬真は返せない。
自分の嫉妬や居心地の悪さが、澪にとって“ちゃんと見られている証拠”になるなんて、気分のいい話ではない。
でも澪の言い方は、たしかにそういう温度を持っていた。
「ねえ」
澪が少しだけ笑う。
「昔の話していい?」
「急だな」
「今じゃないと、また戦場の話になるから」
冬真は少しだけ肩をすくめる。
澪がこういう話題を振るのは珍しい。珍しいが、嫌ではなかった。
「覚えてる?」
澪が言う。
「中学の時、私が自転車で坂道突っ込みすぎて転んだやつ」
「覚えてる」
「冬真、すごい怒ったよね」
「当たり前だ」
「でも、怒りながら膝の手当てしてくれた」
「だから何だ」
「なんか、今も変わんないなって」
澪は少しだけ目を細める。
「前より遠いし、言わないことも増えたけど」
「……」
「そういうとこは、変わってない」
冬真は言葉に困る。
変わった。
自分はずいぶん変わったと思っている。
昔みたいに何も考えず隣に立てないし、怒る資格も、止める権利も、簡単には口にできない。
それでも澪は、変わっていない部分を見つけてしまう。
「昔みたいではない」
冬真が言う。
「うん」
澪は素直に頷く。
「でも、全部は変わってない」
そう返されると、もう何も言えない。
少しの沈黙。
それは気まずいものではなく、むしろ息を合わせ直すみたいな静けさだった。
「こうしてると」
澪がぽつりと言う。
「まだ昔のままみたい」
「……」
「私が誰かの希望とか、英雄とか、そういうのじゃなくて」
「うん」
「ただの天城澪でいられる感じする」
その言葉を聞いて、冬真は視線を逸らした。
嬉しい。
でも、その嬉しさは危うい。
なぜなら、自分もまたこの時間に救われているからだ。
誰にも見られない整備区画の隅で、
何でもない会話をして、
澪が少しだけ肩の力を抜いているのを見る。
それだけで、この戦争の中にまだ“普通”が残っているような気がしてしまう。
「冬真」
「なんだ」
「今、また難しい顔した」
「してない」
「してる」
澪はくすっと笑う。
「そういうとこまで昔と同じ」
冬真は軽く息を吐いた。
隠せていない。
たぶん、もうかなり前から。
「……こういう時間があると」
冬真が低く言う。
「あると?」
「余計に困る」
「何が」
「戻らなきゃいけないのが」
そこまで言って、自分で少し驚く。
本音だった。
澪も一瞬だけ目を丸くした。
それから、声を立てずに笑う。
「そっか」
「笑うな」
「だって、冬真がそういうこと言うの珍しい」
「言わされたんだろ」
「私が?」
「お前以外に誰がいる」
澪は笑いながら、少しだけ体を壁へ預け直した。
その肩が、冬真のほうへほんの少しだけ近づく。
触れるほどじゃない。
でも意識すれば十分近い距離だった。
「私も」
澪が言う。
「戻らなきゃいけないの、最近すごく嫌」
「……」
「こういう時のあとほど、余計に」
冬真は何も返さなかった。
返せば、もっと近づきそうだったからだ。
澪も、それ以上は言わない。
ただ、静かに夜の整備区画の音を聞いている。
このままずっといられればいいのに、と一瞬だけ思う。
もちろん無理だ。
そんなことは二人とも分かっている。
でも、分かっていても思ってしまうくらいには、今の空気は心地よかった。
「ねえ」
澪がまた声を落とす。
「なんだ」
「私、今たぶん、冬真といる時が一番普通」
「……」
「それって、変かな」
「変じゃない」
反射みたいに答えていた。
澪はその返事を受け取って、少しだけ目を細める。
「そっか」
「何だ」
「じゃあ、よかった」
その“よかった”がまた、胸のどこかへ静かに沈む。
不意に、通路の向こうで呼び出し音が鳴った。
短い軍用端末の通知音。
澪の端末だった。
澪が画面を見る。
表情が少しだけ現実へ戻る。
「……呼ばれた?」
冬真が訊く。
「うん。明日の前線再調整」
「そうか」
「ほんと、タイミング悪いね」
澪は苦笑した。
冬真も小さく息を吐く。
やっぱり終わる。
こういう時間は長く続かない。
戦争がちゃんと、それを奪いにくる。
澪は立ち上がる。
ジャケットの裾を整え、少しだけ深呼吸する。その動作だけで、また“戻る準備”をしているのが分かった。
「行かなきゃ」
「ああ」
「……また、こういう時間作れるかな」
「分からない」
冬真は正直に答える。
「そっか」
「でも」
「でも?」
「作らないと、たぶん持たない」
言ってから、自分でもかなり危ないことを口にしたと分かった。
だが、澪は驚くより先に、少しだけ嬉しそうに笑った。
「うん」
「何だ」
「私もそう思ってた」
その答えに、冬真はもう何も言えなかった。
澪は一歩だけ近づく。
触れそうなほどではない。
でも、いつもより近い。
「じゃあ、約束」
「何を」
「また、普通に戻る時間つくる」
「……」
「返事は?」
「命令か」
「お願い」
「……善処する」
「それ、逃げる時の言い方」
「知ってる」
澪は少し笑って、それから今度こそ踵を返した。
数歩進んでから、振り返らずに小さく手を振る。
「おやすみ、冬真」
「ああ」
「今夜のこと、忘れないで」
「忘れない」
思ったよりすぐに言葉が出た。
それが本音だからだ。
澪はその返事に、ほんの少しだけ足を止めた気配を見せた。
でも振り返らず、そのまま通路の向こうへ消えていく。
残された整備区画には、また静かな機械音だけが戻った。
冬真はコンテナから立ち上がれないまま、しばらくその場に座っていた。
二人だけの温度。
それはたしかにあった。
戦場でもなく、広報でもなく、希望の顔でもない場所でだけ生まれる、少しだけ昔に近い温度。
だからこそ、それが壊れる時のことを考えると怖い。
守るだけでは足りない気がする。
でも、じゃあ何をすれば届くのかは分からない。
その答えのないまま、
冬真はしばらく、澪が消えた通路の先を見つめていた。




