第3章 第6話:英雄の隣、無名の後方
光が当たる場所には、必ず立つべき人間が選ばれる。
誰が前に出るべきか。
誰の名前を掲げれば、人が安心するか。
誰の顔を見せれば、まだ持ちこたえられると思えるか。
そういう選別は、残酷なくらい合理的だ。
その合理の外側にいる人間は、たいてい記録にも残らない。
残らないまま、必要なことだけをして消えていく。
相模第七防衛区画の中央ホールは、軍用施設にしては妙に整えられていた。
簡易演壇、整列した照明、記録用カメラ、軍のエンブレムを背にした壁。前線の戦果報告と市民向け士気維持を兼ねた小規模表彰が、そこで開かれている。大げさな式典ではない。だが“誰がこの防壁を支えているのか”を可視化するには十分な場だった。
そして、そういう場に立たされる人間も、もう決まっている。
「始まるぞ」
瀬名が壁際から小さく言う。
「……」
榊冬真は返事をしない。
後方支援要員として、彼もこの場にいる。
ただし舞台の上ではなく、演台脇のシステム卓だ。照明制御、映像同期、戦況記録の切り出し、質疑応答時の情報補助。必要な仕事ではある。間違いなく。だが、誰もそこに視線は向けない。
視線の先にいるのは、壇上へ呼ばれた人間たちだ。
『先日の北西残骸区画における前進観測任務において、顕著な成果を挙げた者をここに報告する』
司会の声がホールへ響く。
簡潔な言葉のあと、壁面スクリーンに戦果映像が流れた。赤い敵識別灯、崩れた高架、白い暁式参号の機影。冬真の胸の奥に一度沈んだ記憶が、映像に合わせてまたわずかに浮かぶ。
次の瞬間、名前が呼ばれる。
『機動戦闘中隊所属、天城澪少尉』
拍手。
控えめだが、たしかにある。
避難区画代表、後方整備班、兵士たち。皆が、その名を知っている顔で手を鳴らしていた。
澪が壇上へ上がる。
簡易正装に近い制服を着ているせいか、いつもの前線装備よりも少しだけ遠く見えた。背筋が伸びて、表情は穏やかで、疲れも不安もその顔には乗っていない。誰が見ても、今この場に最もふさわしい人間に見える。
その隣には伊吹がいた。
今回の前進観測任務の連携指揮補佐として名が挙がっているらしい。自然な位置取りだった。壇上の中央寄りに澪、その半歩隣に伊吹。周囲から見れば、何も違和感のない並び。
だからこそ、冬真にはきつかった。
「またその顔」
瀬名が小声で言う。
「何が」
「“分かってるけど納得してない”顔」
「仕事しろ」
「してる。お前の観察もついでにだ」
冬真は端末画面へ視線を落としたふりをする。
実際には、画面の隅に映る壇上から目を離せていない。
司令官が短い講評を述べる。
『天城少尉の冷静な判断と卓越した操縦は、敵指揮ノード活動域の絞り込みに大きく寄与した』
『伊吹少尉の現場指揮支援との連携も見事であり、今後の防衛再編における中核となることを期待する』
また拍手。
また、澪の名前。
また、英雄の物語。
冬真は自分でも驚くほど冷えた気分で、その光景を眺めていた。
間違っていない。
何一つ。
澪は実際にあの任務を生き抜いた。
伊吹も前線連携で役に立ったのだろう。
誰も嘘を言っていない。
それでも、この壇上の物語に自分の存在が必要ないことだけは、はっきり分かる。
自分が戦場をずらした一秒も、
白い機体に仕込んだ補助制御も、
敵同期を乱した違法すれすれの処理も、
ここでは何の意味も持たない。
持たなくていい。
持ってはいけない。
そう分かっているのに、やはり少し痛い。
「お前ってさ」
瀬名がぼそっと言う。
「こういう時だけ本当に無音になるよな」
「うるさい」
「うるさいのはお前の内心だろ」
壇上では短い受け答えが始まっていた。
司会が澪へマイクを向ける。
『天城少尉、今回の任務でとくに意識したことは』
澪は一瞬だけ呼吸を置き、答える。
「前に出ることより、戻ることを意識しました」
その声は落ち着いていた。
「観測を持ち帰れなければ意味がないので。私一人の戦果ではなく、後方支援と整備を含めて、全体で繋いだ結果だと思っています」
その一言に、冬真の指がぴくりと止まる。
後方支援と整備。
澪は、ちゃんとそう言った。
もちろん具体名は出ない。
出るはずもない。
それでも“全体で繋いだ”と口にしたことが、妙に胸へ残る。
「聞いたか」
瀬名が小さく言う。
「……」
「お前の存在、ゼロにはしてないぞ」
「名前は出てない」
「出せるわけないだろ」
正論だった。
だから返せない。
ホールの後方では、何人かの兵士が澪の発言に頷いていた。
「さすがだな」
「ちゃんと全体見てる」
「天城少尉って、ああいう返しできるの強いよな」
そうだ。
澪はこういう時、自分一人の英雄譚にしないよう気をつける。
それができる人間だ。
でも、どれだけ全体へ目を向けても、結局表に残るのは澪の名前だ。
それが英雄であることの構造なのだろう。
式が終わり、人の流れが緩み始める。
壇上の澪は、司会や上官、伊吹、記録担当に囲まれて次の段取りを説明されていた。写真撮影、内部報告、記録コメント。少しも休ませる気がない流れだ。
冬真はシステム卓の端末を閉じ、必要なデータを送信すると、そのままホールの壁際へ下がった。ここで自分にできることはもうない。
壇上の近くへ行く理由もない。
行けばただの邪魔だ。
そういうことにして、自分を納得させる。
「行かないのか」
瀬名が後ろから訊く。
「何が」
「英雄様のそば」
「必要ない」
「必要かどうかじゃなくて、行きたいんだろ」
「違う」
「はいはい」
瀬名は肩をすくめ、それ以上は言わなかった。
そのとき、壇上にいた澪がふと視線を巡らせた。
人の間を縫うように、何かを探している目だった。
そして一瞬だけ、壁際にいる冬真を見つける。
たったそれだけなのに、澪の表情がほんの少しだけ柔らかくなったのが分かった。
「……見つけたな」
瀬名が横で言う。
「何が」
「いや、分かりやすいって」
冬真は視線を逸らそうとした。
けれど澪は、囲まれているにもかかわらず、ほんのわずかに体の向きをこちらへ寄せた。今すぐ来ることはできない。そんな余裕はない。だが、ここにいると伝えたかったのかもしれない。
その小さな動作だけで、胸の奥の痛みが少しだけ形を変える。
遠い。
でも完全には離れていない。
それがかえってつらい。
澪がようやく解放されたのは、式が終わってかなり経ってからだった。
ホール脇の搬出通路で、冬真は機材確認をしているふりをしていた。そこへ、足早な気配が近づく。
「いた」
澪だった。
少し息が上がっている。
たぶん本当に急いできたのだろう。
「何してる」
冬真が言う。
「見れば分かるでしょ、抜けてきた」
「そういう意味じゃない」
「会いたかった」
即答だった。
冬真は一瞬だけ言葉を失う。
「……何で」
「何でって」
澪は少しだけ困ったように笑う。
「さっき、いないかと思ったから」
その一言が、思ったより深く入ってくる。
「いた」
「うん。見えた」
澪は小さく息をつく。
「よかった」
周囲にはまだ人の気配がある。
完全な二人きりではない。
でもこの短い通路だけは、少しだけ外の喧騒から切り離されていた。
「疲れてるな」
冬真が言う。
「顔に出てる?」
「少し」
「やだなあ」
澪は苦笑する。
「ちゃんとしてたつもりなのに」
ちゃんとしていた。
実際、ホールの誰も違和感なんて抱かなかっただろう。
でも冬真には見える。
笑顔の切れ端にある遅れ。
言葉の最後に滲む疲労。
息をつく瞬間だけ、表情が落ちること。
「……ああいうの」
澪がぽつりと言う。
「向いてる人がやるべきだと思うんだよね」
「伊吹か」
思わず出た名前に、澪が一瞬だけ目を瞬く。
「うん、まあ。伊吹少尉はうまいよ」
「そうか」
「でも今、ちょっと嫌そうだった」
「別に」
「冬真、そういうとこ分かりやすいよ」
苦笑交じりに言う。
責めてはいない。
ただ本当に気づいているだけの顔だ。
「似合うって言われるたび」
澪が少し視線を落とす。
「私、そこに収まってなきゃって感じる」
「……」
「でも、冬真が見てると、なんか違うって思い出す」
冬真は何も言えない。
それは嬉しい言葉のはずなのに、嬉しいだけでは終わらない。
澪が自分を求めるほど、自分が表には出られない事実も濃くなるからだ。
「ホールで」
澪が続ける。
「冬真のこと、ちょっと探してた」
「何で」
「いなかったら、たぶん最後までちゃんと立てなかったかも」
心臓が嫌に静かに打つ。
そんなことを言われると、
この無名の位置にいる意味がまた増えてしまう。
「……俺は何もしてない」
「ううん。してるよ」
澪は即座に言った。
「見てる」
「……」
「それだけで、全然違う」
冬真は答えに詰まる。
見ているだけでは足りないと、最近ずっと思っていた。
でも澪にとっては、その“見ている”こと自体に意味があるのだ。
「英雄様」
不意に、通路の向こうから伊吹の声がした。
軽い呼び方だったが悪意はない。
「次、記録室のほうで最終確認入ります」
澪がそちらを向く。
「今行きます!」
返事をしてから、冬真のほうへ戻る。
「行かなきゃ」
「ああ」
「……やっぱり、ああいう位置が必要なのは分かるんだけど」
「うん」
「それでも、私が探すのは冬真なんだよね」
その一言で、通路の空気が少しだけ止まった気がした。
冬真は咄嗟に何も言えない。
何かを返したら、今の距離を越えてしまう気がした。
澪はそんな冬真を見て、少しだけ笑う。
「困ってる」
「お前がそういう言い方をするからだ」
「知ってる」
またそれだ。
分かっていて、置いていく。
逃げ道のない言葉を。
「じゃあ、またあとで」
澪が一歩下がる。
「ちゃんと休んで」
「お前もだ」
「私は……善処する」
「しないだろ」
「冬真もでしょ」
少しだけ笑い合う。
ほんの数秒だけ、そこだけが昔のままだった。
澪が去ったあと、冬真は通路の壁に背を預けたくなる衝動を、どうにか押しとどめた。
英雄の隣、無名の後方。
それが自分の立ち位置だ。
変えられない。
変えるつもりもないはずだった。
でもその無名の位置に、澪のほうが意味を見つけてしまっている。
それが嬉しくて、苦しい。
「……ひどい顔してるな」
いつの間にか戻ってきていた瀬名が、通路の端からこちらを見ていた。
「聞いてたのか」
冬真が言う。
「全部じゃない」
瀬名は肩をすくめる。
「でも“探すのは冬真”くらいは聞こえた」
「最悪だな」
「お前がな」
瀬名は少しだけ笑ったあと、珍しく真面目な声になる。
「ほら見ろ」
「何が」
「天城少尉、ちゃんとお前を必要にしてる」
「……」
「でも表には出ない。だから苦しい」
「うるさい」
「図星なんだろ」
図星だった。
ホールでは自分の居場所はどこにもない。
でも澪の中にはある。
その食い違いが、いちばん苦しいのだと、ようやくはっきり分かり始めていた。
戦術支援管制室へ戻る途中、冬真は観測窓の外を見た。基地中央の大型スクリーンには、まだ先ほどの表彰の記録映像が映っている。そこには澪の名前と、壇上に立つ白い光のような姿だけが残っていた。
無名の後方にいる自分は、どこにも映らない。
それでも、
その光の中から澪が探したのは、自分だった。
その事実だけが、
また一つ、冬真の逃げ道を塞いでいく。




