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きみを守るのは、ぼくの知られない戦争  作者: 最後に残った形


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第3章 第5話:崩れかけた声


 人は、本当に弱っているときほど上手く笑えなくなる。


 泣くわけでもなく、

 怒るわけでもなく、

 ただ、普段なら自然に持ち上がるはずの口元が少しだけ遅れる。


 そういう小さな綻びは、たいてい誰にも気づかれない。

 気づかれても、疲れているだけだろうと流される。

 でも、たまにそれを見逃せない人間がいる。


 榊冬真にとって、天城澪はそういう相手だった。


 相模第七防衛区画の夜は短い。


 短い、というより、休息の形をしているだけで実際には次の準備時間にすぎない。格納デッキでは損傷機の修理が続き、戦術支援管制室では新しい敵探索波形の分析が回り続け、前線要員はその合間を縫うように眠る。誰も完全には休んでいない。


 その夜も、管制室の空調は乾いていて、壁面モニタの光はやけに白かった。


「今日は上がれ」

 瀬名が自席から言った。

「何だ」

 冬真が返す。

「顔。限界の二歩手前」

「まだ平気だ」

「それ、平気じゃないやつしか言わない」


 冬真は端末に表示されたシミュレーション結果へ視線を落としたまま、小さく息を吐く。敵指揮ノードの再配置予測、次作戦での先鋒機収束率、澪機の生存分岐。数字は冷たい。だから見ていられる。人の顔より、数字のほうがまだ楽だった。


「お前さ」

 瀬名が缶コーヒーを机の上で転がしながら言う。

「最近、数字見てる時のほうが感情出てるぞ」

「意味が分からない」

「分かりたくないだけだろ」

「……」


 否定しなかった。

 否定できるほど余裕がなかった。


 昼間から続いた処理がようやくひと区切りついた頃、冬真は席を立った。管制室を出る理由はない。急ぎの仕事も、今はもう瀬名たちに引き継げる。なのに、そのまま自室へ戻る気にもなれなかった。


「どこ行く」

 瀬名が訊く。

「少し歩く」

「便利だな、その言い方」

「うるさい」

「まあ、行ってこい。で、変な顔したまま誰かに見つかるなよ」


 誰か、の意味は説明されなくても分かった。


 夜の基地は、人が少ないぶん音がはっきりしている。搬送台車の車輪、整備アームの稼働音、遠くの防壁から響く低い警戒振動。冬真は観測通路を抜け、格納デッキ脇の整備区画へ続く細い通路を歩いた。


 理由はない。

 少なくとも、そういうことにしていた。


 ただ、足は自然にそちらへ向いていた。

 澪がいるかもしれないと思ったのか、

 それとも逆に、いない場所で少し頭を冷やしたかったのか、自分でもよく分からなかった。


 整備区画の脇にある仮設休憩スペースは、夜になるとほとんど人がいない。簡易ベンチと自販機、補助灯、壁際に積まれた交換部品のコンテナ。無機質で、落ち着く場所ではない。それでも、誰にも見られず少しだけ立ち止まるにはちょうどいい場所だった。


 冬真がその角を曲がったとき、先に人影を見つけた。


 澪だった。


 ベンチの端に座り、壁へ背を預けている。簡易制服の上着は脱いで横に置かれ、髪は少し乱れていた。両手で紙コップを持っているが、飲んでいる様子はない。俯いているわけでもないのに、どこか、ひどく静かだった。


 冬真はとっさに足を止める。


 気づかれないなら、そのまま引くべきかもしれない。

 今の澪は、たぶん一人になりたくてここにいる。

 邪魔をする理由はない。


 そう思った瞬間、澪が顔を上げた。

 視線が合う。


「あ……」


 先に声を漏らしたのは澪のほうだった。


「冬真」

「……悪い」

 冬真は反射的に言う。

「いたの、知らなかった」

「うん。たぶん知らないほうがよかったやつ」

 澪は少し笑おうとした。

 でも、その笑みは上手く形にならなかった。


 その瞬間、冬真は胸の奥が少し冷たくなるのを感じた。


 崩れかけている。


 泣いているわけじゃない。

 今にも倒れそうなわけでもない。

 でも、いつもの澪ならもっと上手く笑う。

 それができないだけで、どれくらい削れているのか分かる。


「帰る」

 冬真が言う。

「いや」

 澪がすぐに返した。

「いて」

「……」

「お願い」


 その一言で、冬真はもう動けなかった。


 ベンチから少し離れた場所に立ったまま、数秒だけ沈黙が落ちる。整備区画の奥で何かが駆動する低い音がして、すぐにまた静かになる。


「座れば?」

 澪が小さく言う。

「いい」

「そっか」

 言いながら、澪は紙コップの縁を見つめる。

 中身はたぶんぬるくなっているだろう。


 冬真は少し迷ってから、澪の隣ではなく、斜め向かいのコンテナへ腰を下ろした。近すぎず、遠すぎない位置。それが今の自分には精一杯だった。


「何してる」

 冬真が訊く。

「休憩」

「そうは見えない」

「だよね」


 澪は苦笑した。

 今度の笑いは、さっきよりさらに弱い。


「今日、ちょっと多かった」

「何が」

「人の期待」

 澪はあっさり言った。


 冬真は何も返さない。

 言葉を挟むには、あまりにも真っ直ぐだった。


「朝から広報でしょ。午後は訓練の視察、夕方は避難区画の追加対応、そのあと作戦会議」

 澪は指を折るようでもなく、ただ淡々と並べる。

「みんな悪い人じゃないし、ちゃんと必要なのも分かるんだけど」

「……」

「どこでも“天城少尉なら大丈夫ですよね”って顔される」


 その言い方に、冬真の手が少しだけ握られる。


「大丈夫じゃないって言えないし」

 澪は続ける。

「言ったら困らせるのも分かってるし」

「言えばいい」

 冬真がすぐに返す。

「言えたらここにいないよ」

 澪は少しだけ笑った。


 その通りだった。


 言えないから、こうして誰もいない場所で紙コップを持ったまま動けなくなっている。

 言えないから、人前ではちゃんと笑えてしまう。

 言えないから、こうして冬真の前でだけ少しずつ崩れる。


「みんな、私なら平気だと思ってる」

 澪がぽつりと言う。

「……」

「もちろん、平気なときもあるよ。前に出るのも嫌いじゃないし、期待されるのも分からなくはない」

「うん」

「でも、ずっとは無理」


 その“ずっとは無理”が、やけに静かに胸へ落ちた。


 冬真はそこで初めて、澪の紙コップの中身がほとんど減っていないことに気づく。たぶん、休憩しようとしてここへ来たのに、飲む気力すらなかったのだ。


「寝てないのか」

「寝た」

「嘘だな」

「少しだけ」

「それは寝たって言わない」

「冬真は言わないけど、軍では言うんだよ」


 冗談みたいに返す声も、いつもよりずっと軽くない。


 冬真は言葉を探した。

 こういう時、自分が上手くないのは分かっている。

 励ますのも、

 慰めるのも、

 立派な言葉を返すのも苦手だ。


 それでも何か言わなければと思う。


「平気じゃなくてもいい」

 結局、出たのはそれだった。


 澪が顔を上げる。


「何それ」

「そのままだ」

「雑だなあ」

「上手い言い方を知らない」

「知ってる」


 澪はそう言ってから、ほんの少しだけ目を細めた。


「でも、それ、冬真だけが言う」

「……」

「みんなには“大丈夫です”って返しちゃうのに、冬真にそう言われると、ほんとは大丈夫じゃないって思い出す」


 その言葉は、嬉しいのに苦しかった。


 自分だけに零れる本音。

 自分だけが見てしまう綻び。

 それは特別であると同時に、同じだけ重い。


「だったら、もう少し早く言え」

 冬真が言う。

「誰に」

「……俺に」

 言ってから、自分で少し驚く。

 かなり本音だった。


 澪も目を丸くした。

 だがすぐに、柔らかく笑った。


「言えるわけないじゃん」

「何で」

「だって、冬真は私がちょっと無茶しただけでそんな顔するし」

「してない」

「するよ」


 そのやり取りが、ほんの少しだけ昔に近い。

 近いのに、今の会話の重さは昔とはまるで違う。


「ねえ」

 澪が紙コップを見つめたまま言う。

「私、たまに分かんなくなるんだ」

「何が」

「どこまでが“私がやりたいこと”で、どこからが“みんなに求められてる私”なのか」


 冬真は言葉を挟まない。


「前に出るのは嫌じゃない」

 澪が続ける。

「守りたいとも思う。戦うのも、自分で選んでる」

「うん」

「でも、最近それに拍手とか期待とかがいっぱいついてきて、だんだん重くなってきた」


 静かだった。

 泣きそうでもなく、怒ってもいない。

 ただ、限界が少しだけ声に滲んでいる。


 だからこそ、余計に痛い。


 冬真はそこでようやく、斜め向かいのコンテナから立ち上がった。逃げたくなる自分を抑えて、澪のいるベンチの端へ歩く。そして少し間を空けて隣に腰を下ろした。


 近い。

 でも、今はそのくらいでいいと思った。


 澪は何も言わなかった。

 ただ、少しだけ肩の力が落ちた。


「冬真」

「なんだ」

「今、離れなかったね」

「離れる理由がない」

「そういう言い方、ずるい」


 小さく笑う。

 その笑いに、さっきまでの張り詰め方が少しだけ抜ける。


「みんな、私なら平気だと思ってる」

 澪がもう一度言う。

「でも」

 冬真は短く答える。

「平気じゃなくてもいい」


 同じ言葉だった。

 けれど今度は、さっきより少し深く届いた気がした。


 澪は紙コップを両手で持ったまま、ゆっくりと息を吐く。


「そう言われると、ちょっとだけ泣きそうになる」

「泣けばいい」

「ここで?」

「誰も見てない」

「冬真が見るじゃん」

「……そうだな」


 その返しに、澪はまた少し笑った。

 でも今度は、ちゃんと笑えたわけではない。

 むしろ笑おうとして、途中で崩れかけた。


 冬真は横目でその表情を見た。


 澪の目元が、ほんの少しだけ赤い。

 声も少し掠れている。

 たぶん、これ以上言葉を重ねれば、本当に壊れる。


 だから冬真は、それ以上を言わなかった。

 大丈夫だとも、

 頑張れとも言わない。

 ただ隣にいる。


 そういうことしか、自分にはできない気がした。


「冬真」

 しばらくして、澪が静かに言う。

「うん」

「私、こういうの誰にも言えない」

「ああ」

「言ったら、みんな困るから」

「俺も困ってる」

「そうなの?」

「かなり」

 正直に言うと、澪は小さく笑った。

「でも、帰らないでしょ」

「帰らない」

「……そっか」


 その“そっか”は、ほとんど安堵に近かった。


 整備区画の奥で、補助アームがゆっくり動く音がした。誰かが夜勤で作業をしているのだろう。けれどここまで来る気配はない。休憩スペースだけが、小さく切り離されたみたいに静かだった。


「私、ちゃんと戻れるかな」

 澪が急に言った。

「どこに」

「いつもの顔に」

「戻らなくていい」

 冬真が即答する。

「今はな」

 少しだけ間を置いて、付け加える。

「少なくとも、ここでは」


 澪はその言葉を受け止めるみたいに、しばらく何も言わなかった。

 それから、とても小さな声で言う。


「……そういうとこ、ほんとずるい」


 冬真は意味が分からず、少しだけ眉を寄せる。


「何が」

「私が欲しい言葉、いつも雑に出すところ」

「狙ってない」

「知ってる。だから余計にずるい」


 その言い方は責めていない。

 むしろ、少しだけ甘い。


 冬真はそれにどう返せばいいか分からず、結局黙るしかなかった。


 澪はようやく紙コップの中身を少しだけ飲んだ。

 ぬるいのか、少し顔をしかめる。

 その人間らしい反応に、冬真はやっと少しだけ呼吸が楽になる。


「ありがと」

 澪が言う。

「何に」

「いてくれて」

「……」

「なんか、冬真がいると、壊れても大丈夫な気がする」


 その言葉を聞いた瞬間、冬真は胸の奥を強く掴まれたみたいな感覚になった。


 壊れても大丈夫。

 そんな場所でいたいと思う。

 でも、それを受け取るのは怖いとも思う。


 それだけ近い位置へ、自分が置かれ始めているということだからだ。


「壊れるな」

 思わず、そんな言葉が出る。

「どっち」

 澪が少し笑う。

「壊れても大丈夫って言ったのに」

「意味が違う」

「知ってる」


 また少しだけ笑う。

 その笑いは、ようやくいつもの澪に近づいてきていた。


 しばらく、二人とも黙ったまま座っていた。

 言葉がなくても、今はそれでよかった。


 やがて遠くから名前を呼ぶ声がした。

 澪宛てだ。

 次の確認か、夜間報告か、あるいはただ所在確認かもしれない。どちらにせよ、ここでの時間が終わる合図だった。


「行かなきゃ」

 澪が立ち上がる。

「そうしろ」

「うん」


 澪は上着を手に取り、それから一歩だけ踏み出して、また止まる。


「冬真」

「なんだ」

「さっきの、“平気じゃなくてもいい”ってやつ」

「……ああ」

「忘れないと思う」


 冬真は何も返さなかった。

 返せなかった。

 そんなことを言われると、また守る理由が増えてしまうからだ。


 澪はそれ以上何も言わず、ようやく歩き出す。

 数歩進んでから、振り返らずに小さく手を振った。


「おやすみ」

「ああ」

「ちゃんと寝て」

「お前もだ」

「努力する」

「しないだろ」

「ばれた」


 そのやり取りだけは、少しだけ軽かった。


 澪が去ったあと、休憩スペースにはまた機械音だけが残る。

 冬真はベンチに残ったまま、しばらく動けなかった。


 みんなが平気だと思っている。

 でも平気じゃない。

 その弱さを、澪は自分にだけ見せた。


 それが嬉しい。

 同時に、どうしようもなく怖い。


 心の距離が近づくほど、

 現実の立場の差は、かえって痛みになる気がした。


 それでも今夜だけは、

 澪が少しだけ息をつけたのなら、それでよかった。


 そう思うしかなかった。


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