第3章 第4話:避ける理由
距離は、離れることでしか生まれないわけじゃない。
同じ場所にいて、
同じ時間を過ごして、
同じ空気を吸っていても、
ほんの少しだけ言葉を選び、目を逸らし、触れない理由を増やしていけば、人は簡単に遠くなる。
それは逃げるより、ずっと静かだ。
だから気づいた時には、もう元の位置には戻れない。
相模第七防衛区画の夜は、昼よりも音が薄い。
格納デッキの補助灯、遅番の整備アーム、遠くを走る搬送車の低い駆動音。戦争が止まるわけではないが、人の声が減るぶん、基地の輪郭は少しだけ冷たくなる。夜の通路を歩いていると、まるで自分の足音だけが浮いているみたいに思えることがあった。
榊冬真は、その浮いた足音を聞きながら観測通路を歩いていた。
戦術支援管制室の夜間処理はひと区切りついた。敵側の探索波形も、管理AIの確認要求も、今はこれ以上見たところで答えは増えない。だから休めと瀬名には言われた。実際、休むべきなのだろう。だが自室へ戻る気分にはなれなかった。
昼間のホールでの光景が、まだ胸の底に残っている。
壇上に並ぶ澪と伊吹。
似合う、という軽い言葉。
そして、その並びを見た瞬間に胸の奥で沈んだ、自分でも認めたくない感情。
嫉妬。
口にすればひどくみっともない言葉だ。
しかも相手は幼馴染で、自分はその隣に立つ資格すら持っていない。
だから冬真は、その感情に名前をつけたくなかった。
名前をつけた瞬間、それはただの献身ではなくなるからだ。
観測通路の途中、小さな自販機の前で冬真は足を止めた。買う気もないのに光っているボタンを眺める。何か別のことを考えたかった。だが、そういう時ほど人は逆に同じところへ戻る。
澪は、あの並びに自分で違和感を持っていた。
それは分かった。
でも周囲は、ああいう“似合う構図”をこれからも何度でも作るだろう。
澪が前に出るたび、隣に立つ人間は選ばれる。
自分はその外側から見るしかない。
「そんなところで固まってると、不審者だぞ」
背後から声がして、冬真は振り返る。
瀬名だった。両手をポケットに突っ込み、眠そうな顔をしている。
「何してる」
冬真が言う。
「巡回ついで」
「嘘だな」
「まあな。お前がろくでもない顔して出てったから、様子見」
瀬名は自販機の前まで来ると、勝手にボタンを押して缶コーヒーを二本買った。一本を冬真へ押しつける。
「いらない」
「今日はいる」
「苦い」
「知ってる。でも今のお前、甘いやつ飲んでも同じ顔するだろ」
冬真は無言で受け取った。
冷たい缶が手の中で少しだけ現実味をくれる。
「で」
瀬名が缶を開けながら言う。
「まだ引きずってるのか」
「何を」
「壇上の並び」
「……」
「図星」
冬真は返さなかった。
瀬名は少しだけ笑って、それ以上茶化さなかった。
「天城少尉さ」
瀬名が通路の窓越しに外を見ながら言う。
「ちゃんと分かってると思うぞ」
「何が」
「お前が避けてること」
「避けてない」
「その返し、もう無理あるって」
避けていないつもりだった。
少なくとも、逃げているつもりはない。
けれど昼間の会話を思い返せば、澪の前で自分がどれだけ言葉を削っているかは明らかだ。
近づけば、言えないことが増える。
目を合わせれば、隠したいものまで見透かされる。
だから少し距離を取る。
少しだけ冷たくする。
少しだけ、昔みたいに話さない。
その“少し”の積み重ねが、いまの距離なのだろう。
「……分からない」
珍しく、冬真は正直に言った。
「お」
瀬名が目を細める。
「何が分からないって?」
「避けてるのか、遠慮してるのか」
「ほぼ同じだろ、それ」
「違う」
「本人の中では違うんだろうな」
瀬名はそこで缶を傾け、ひと息ついてから続けた。
「でもまあ、天城少尉から見たらどっちでも同じかもな」
「……」
「近かったやつが、急に半歩引いたら、理由なんて分からなくても遠くなったって感じる」
その言葉は、妙に素直に胸へ入ってきた。
遠くなった。
たしかに澪はそう言った。
最近また少し遠い、と。
冬真が何も言えずにいると、通路の反対側から小さな足音が近づいてきた。反射的に視線を上げる。
澪だった。
前線用の簡易制服の上に薄いパーカーを羽織っている。髪はほどいていて、肩に落ちる毛先がわずかに湿っていた。シャワーのあとかもしれない。昼の“希望の顔”とも、作戦中の“先鋒”とも違う。夜の基地にだけいる、生身の澪だ。
「あ」
澪が二人に気づく。
「いた」
「おう、こんばんは英雄様」
瀬名が軽く手を上げる。
「やめてください、それ」
澪が苦笑する。
瀬名は二人の顔を見比べて、あからさまに状況を察した顔になった。
「俺、急に別件思い出したわ」
「露骨だな」
冬真が言う。
「気のせいだろ」
瀬名は肩をすくめる。
「じゃ、十分以内には戻れよ。ここ、防犯カメラあるからな」
余計なことだけ言い残して去っていく。
本当に露骨だった。
通路に残ったのは、冬真と澪だけだった。
少しだけ気まずい沈黙が落ちる。
昔なら、こんな沈黙はなかった。何でもない雑談で簡単に埋まったはずだ。けれど今は、その“何でもない”に手を伸ばすことすら難しい。
「……何しに来た」
結局、冬真が先に言った。
「それ、毎回聞くね」
澪が少し笑う。
「今日のは、半分は偶然」
「半分は」
「冬真がここにいそうだったから」
また、そういう言い方をする。
冬真は缶を持つ手に少し力を入れた。
「今日はもう広報終わったのか」
「うん。やっと」
澪は自販機の隣の壁に軽く寄りかかる。
「正直、ちょっときつかった」
その言い方があまりにも素直で、冬真の視線が自然と澪へ向く。
「昼のこと?」
「うん。ああいう並びとか、説明とか、嫌いじゃないよ。必要なのも分かってる」
「……」
「でも、ずっと“ちゃんとしてる顔”してると、自分がどこにいるか分かんなくなる時ある」
昼間に言っていたことの続きだ。
名前が先に行く。
自分が後ろで追いかける。
澪の中でその違和感は、昼間だけのものではなかったのだと分かる。
「それで」
澪が冬真を見る。
「冬真、さっき避けたでしょ」
「避けてない」
「避けたよ」
「……」
「伊吹少尉と並んでるの見たあと」
心臓が嫌な静けさで一拍する。
やっぱり分かっていた。
自分が思っている以上に、澪は見ている。
「仕事があった」
冬真は言う。
「うん。それも本当」
澪は素直に頷く。
「でも、全部じゃない」
そう言われると、否定のしようがない。
澪は少しだけ目を細める。
「怒ってた?」
「何に」
「分かんない。でも、ちょっとだけ冷たかった」
「……冷たくしてない」
「じゃあ、遠慮?」
「何を」
「私に近づくこと」
あまりにも真っ直ぐだった。
冗談みたいに軽く聞いてくるわけでもない。
責めるように問い詰めるわけでもない。
ただ、本当に知りたいから聞いている顔だ。
冬真は返答に詰まる。
「澪」
「うん」
「お前、そういう聞き方はずるい」
「知ってる」
澪は少しだけ笑う。
「でも、逃げられる聞き方だと、冬真ほんとに逃げるじゃん」
図星だった。
冬真は視線を自販機の光へ逃がす。
色の薄い蛍光灯と、冷たい金属の反射。そんなものを見ても、言葉は楽にならない。
「……遠慮してる」
ようやく出た声は低かった。
「やっぱり」
澪が言う。
「避けてるのとは違う?」
「違う」
「どう違うの」
「……」
説明できるようなものではなかった。
いや、説明してしまえばあまりにみっともない。
お前が遠くなっていくのを見るのが苦しいとか、
あの壇上で別の誰かが隣に立つのが嫌だったとか、
そんなことを言えるわけがない。
「言えない?」
澪が訊く。
「言いたくない」
「じゃあ、たぶん言えないくらいには本音だ」
「……そういうとこだぞ」
「何が?」
「分かってて追い込む」
「追い込んでるつもりないよ」
澪は少しだけ肩をすくめる。
「ただ、知りたいだけ」
通路の窓の向こうで、防壁上の警戒灯が一つゆっくり点滅している。
その赤い光が、一定の間隔で二人の横顔にかすかな色を差した。
「私ね」
澪がぽつりと言う。
「冬真に避けられるの、思ったより嫌だった」
その一言で、冬真の喉の奥がつまる。
嫌だった。
責めるよりずっと重い言い方だ。
「避けてない」
また同じ言葉しか出ない。
「うん。たぶん、避けてるだけじゃないんだと思う」
澪は言う。
「でも、遠くされてる感じがした」
「……」
「それが、けっこう寂しかった」
冬真は缶を握ったまま、どうしていいか分からなかった。
守るために距離を取っているつもりだった。
澪に余計なものを背負わせないために、少し引いているつもりだった。
でもその結果が、澪に“寂しい”と言わせているなら、それは本当に正しいのか。
「ごめん」
気づけば、そう言っていた。
澪が少しだけ目を見開く。
たぶん、冬真がこういう場面で素直に謝るのは珍しいのだろう。
「……謝るんだ」
「悪かったなら、謝る」
「そっか」
澪はそこで少しだけ笑った。
ひどく柔らかい、けれどどこか頼りない笑い方だった。
「ねえ、冬真」
「なんだ」
「私、最近いろんな場所で“ちゃんとしてる私”を求められるんだけど」
「……」
「冬真の前だと、それやりたくないんだよね」
胸の奥が静かに熱を持つ。
嬉しいとか苦しいとか、そういう単純な言葉では整理できない感情だった。
「だから」
澪は続ける。
「冬真まで遠慮すると、ほんとにひとりみたいになる」
その言葉に、冬真は目を閉じたくなった。
閉じなかった。
閉じたら、そのまま全部零れそうだったからだ。
「……近づくと」
冬真が低く言う。
「余計なことまで見える」
「うん」
「言えないことも増える」
「うん」
「だから、少し距離を取ってた」
「私に?」
「ああ」
やっとそこまで言えた。
澪は黙って聞いていた。
途中で茶化さない。
急かさない。
こういう時の澪は、昔から本当に真面目だ。
「そっか」
しばらくして、澪が言う。
「遠慮してたんだ」
「ああ」
「なんで?」
「……それは」
「まだ言えない?」
「言いたくない」
「じゃあ、今はいい」
今は。
その言葉に、冬真は少しだけ救われる。
同時に、いずれは聞くという意思も感じる。
「でも」
澪が一歩だけ近づく。
その距離はほんの少しなのに、夜の通路ではやけに近く感じた。
「遠慮されるくらいなら、ちゃんと言われたほうがいい」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないよ」
澪は静かに返す。
「でも、分かんなくなるのは嫌だから」
分かんなくなる。
たしかにそうだ。
自分でも、自分が澪にどう接するのが正しいのか分からなくなっている。
支えたいのか、守りたいのか、隣にいたいのか。
全部が混ざっていて、もうどれか一つだけではない。
「……分かった」
冬真が言う。
「何が」
「少なくとも、お前を遠くしたいわけじゃない」
そこまで言ってから、自分で少し驚く。
かなり本音に近い言葉だった。
澪は一瞬だけ黙って、それから本当に安心したみたいに息を吐いた。
「よかった」
「何が」
「それ聞けただけで、今日はいい」
そんなことでいいのか、と思う。
けれど澪の顔は嘘じゃなかった。
「冬真」
「なんだ」
「私、たぶん今までよりちゃんと見てるから」
「何を」
「冬真のこと」
「……最悪だな」
「ひどい」
「そういう意味じゃない」
「知ってる」
澪は笑う。
今度の笑いは、昼間の“希望の顔”とはまるで違った。疲れも迷いも含んだ、生身の笑い方だ。
「避けるなら、次はちゃんと理由考えといて」
「考えたくない」
「じゃあ、避けないで」
「無茶言うな」
「それ、今日二回目」
「知ってる」
短いやり取りなのに、少しだけ昔の呼吸に近かった。
そのことが嬉しくて、同時に怖い。
近づけば、そのぶん失う時の痛みも増える。
通路の向こうから、また誰かの足音が近づいてきた。
夜勤の兵士だろう。
二人だけの時間が終わる気配だった。
「そろそろ戻る」
澪が言う。
「ああ」
「冬真も、ちゃんと休んで」
「努力する」
「しないやつの言い方」
「お前もだ」
「私は……努力する」
「しないだろ」
「ばれた」
澪は少しだけ笑って、それから今度こそ一歩下がる。
「じゃあ、おやすみ」
「ああ」
「次は、そんなに遠慮しないで」
「……善処する」
「それも、しないやつの言い方だね」
最後にそう言って、澪は通路の奥へ去っていった。
残された冬真は、自販機の前でしばらく動けなかった。
手の中の缶はもうぬるくなり始めている。
避ける理由。
遠慮する理由。
近づけない理由。
全部、本当は一つのところから始まっているのかもしれない。
でもその名前をまだ口にするわけにはいかなかった。
それでも少なくとも一つだけ、はっきりしたことがある。
距離を取ることは、澪を守ることと同じではない。
むしろ時には、ひとりにするだけだ。
その事実が、思ったよりずっと重く、冬真の胸に残った。




