第3章 第3話:隣に立つ人
並ぶ、ということには意味がある。
誰が前に立つか。
誰が横に並ぶか。
誰が少し後ろへ控えるか。
人はそういう配置に勝手に物語を見つける。
肩書きや言葉より先に、立ち位置だけで関係性を決めつける。
そして戦場では、その“見え方”がそのまま希望の形になることがある。
相模第七防衛区画の昼は、表向きだけなら少し穏やかだった。
前日の慰問と広報対応の映像が、今朝にはもう内部向けにも共有されている。避難区画で子どもに笑いかける澪、傷病兵の話を聞く澪、軍の広報用コメントに応じる澪。映像の中の天城澪は、誰が見ても“希望の顔”だった。
戦術支援管制室の壁面モニタにも、その切り抜きがまた表示されている。
「もう完全に定着したな」
瀬名が自席の背もたれに体を預けながら言う。
「何が」
冬真が返す。
「英雄様の顔」
「……」
「その沈黙、そろそろ便利すぎるぞ」
榊冬真は端末から目を離さない。
敵側の探索ログを追っているふりをしていたが、意識の半分は壁面モニタの端に固定されている自分を知っていた。
映像の中の澪は、今日も綺麗に切り取られている。
疲れも、間も、零しそうになった声も映っていない。
ただ、必要とされる笑顔だけが残されていた。
「午後、合同作戦説明だってよ」
瀬名が紙端末を冬真の机へ放る。
「前線指揮系統の再編に合わせて、天城少尉も出る」
「そうか」
「あと、広報用の記録も兼ねるらしい」
「そうか」
「で」
瀬名がわざとらしく間を置く。
「お前の嫌いそうな情報がもう一つ」
「何だ」
「表で天城少尉の隣に立つ役、たぶん伊吹少尉」
冬真の指先が、端末の縁で一瞬だけ止まる。
伊吹蒼士。
先月から本格的に北側戦線へ配属された若手将校だ。前線指揮のセンスがあり、表に出ることにも慣れている。声が通り、説明も上手い。顔立ちも整っているから、広報が好みそうなタイプでもあった。
「反応したな」
瀬名が即座に言う。
「してない」
「いや、今した」
「端末が重かっただけだ」
「それでその目になるなら、端末じゃなくてお前の感情が重いんだろ」
冬真は返さなかった。
伊吹に対して個人的な悪感情があるわけじゃない。
実際、能力は高いのだろう。
問題はそこではない。
“表の場で、澪の隣に自然に立てる人間”だということ。
それだけで十分、気分が悪かった。
午後。合同作戦説明は中央会議ブロックの小ホールで行われた。
軍の人間だけではなく、避難区画の代表や後方支援担当の一部も出席している。作戦の完全な中身は伏せられるが、少なくとも防壁内の人間に“まだ統制が取れている”と示すための場でもあるのだろう。
冬真は後方支援席の端に立っていた。
ここなら全体が見える。
見えるだけで、前には出ない。
ホール前方の壇上に、伊吹と澪が並んで立つ。
それを見た瞬間、胸の奥に鈍いものが沈んだ。
絵になる、と思ってしまったからだ。
伊吹は落ち着いた紺の制服に身を包み、姿勢がいい。澪は簡易戦闘制服のままでも、自然に視線を集める。前線の顔として並べば、たしかに見栄えはいい。広報が好む組み合わせだと一目で分かる。
「うわ」
横で瀬名が小さく言う。
「今の顔やばいぞ」
「何が」
「自分で言わせるなよ」
壇上では司会担当が説明を始めていた。
『本日の防衛再編に関して、まずは前線指揮の体制変更と、今後の市民防衛強化についてご説明します』
伊吹が一歩前へ出て、簡潔で聞き取りやすい声で話し始める。さすがに慣れていた。言葉に無駄がない。安心感を与える話し方も分かっている。続いて澪が短く補足をする。こちらは伊吹ほど滑らかではないが、その分だけまっすぐで、聞く側に届く。
壇下の兵士たちが頷き、避難区画の代表たちが顔を上げる。
「似合うな」
少し後ろの席で、誰かが小さく言った。
「だな。あの二人が前に立つと、まだ戦える気がする」
「英雄と若手指揮官って感じだよな」
冬真はその言葉を、聞こえないふりで飲み込む。
似合う。
その一言で、何もかも片づけられるのが嫌だった。
伊吹が悪いわけではない。
澪も悪くない。
周囲の反応だって自然だ。
でもその“自然”の中に、自分の居場所がまるでないのだと思い知らされる。
あの壇上に、自分は立てない。
立つ理由がない。
立ってはいけない。
それでも、あの隣に立ちたいと一瞬でも思ってしまう自分が、一番厄介だった。
「お前さ」
瀬名が小声で言う。
「それ、嫉妬だぞ」
「違う」
「いや、かなり分かりやすい」
「違う」
「二回言っても変わらない」
冬真は睨むように壇上を見たまま、口を閉じた。
説明が進むにつれて、伊吹と澪は自然に役割分担をしていく。伊吹が全体の構造と見通しを話し、澪が現場感覚に近い言葉でそれを支える。周囲から見れば理想的な並びだろう。
だが冬真には、澪の視線の細かな揺れが見えていた。
言葉を区切る位置。
一度だけ呼吸を深くするタイミング。
聞き手の期待に応えようとして、少しだけ無理に明るい声を作る感じ。
疲れている。
たぶん、この壇上に立っていること自体がしんどいのだ。
でも周囲は、それを“堂々としている”ように見ている。
「気づいてるの、お前だけだろうな」
瀬名がまた言う。
「……」
「それが余計にきついんだろ」
「うるさい」
図星だった。
ホール後方から見える澪は、十分すぎるほど立派だ。
遠くから見れば、きっと誰も不安を覚えない。
でも冬真にだけは、その立派さが少し痛々しく見える。
説明の最後、質疑応答に移る。
避難区画の代表が不安げに手を上げた。
「天城少尉」
初老の女性が言う。
「……これからも、私たちは持ちこたえられますか」
ホールが静まる。
誰もが澪の返答を待った。
澪は一瞬だけ言葉を探し、それから静かに答える。
「持ちこたえます」
短く、でもはっきりと。
「私たちが戦ってるのは、そのためです」
「……」
「だから、信じてください。まだ終わってません」
その言葉に、空気が少しだけ動いた。
不安が完全に消えるわけじゃない。
それでも人は、その一言で立ち直ろうとする。
希望の顔。
やはり澪は、それになってしまう。
質疑応答が終わり、ホールの空気が緩んだ頃、伊吹が澪へ何か声をかけた。聞こえない。だが澪は少し困ったように笑って頷く。伊吹は自然な距離で隣に立ち、退場の流れまで整えている。
それを見た瞬間、冬真は自分の中にある感情の名前を、はっきり意識してしまった。
嫉妬だ。
幼馴染を心配しているとか、
支援担当として気にしているとか、
そういう建前ではもう足りない。
自分が立てない場所に、別の誰かが自然に立っていることが苦しい。
その事実そのものが、息苦しい。
「認めたか?」
瀬名が呆れたように言う。
「何を」
「今の顔。完全に認めた顔してたぞ」
「……」
「言っとくけど、伊吹少尉に罪はないからな」
「分かってる」
「そこまで分かってて苦しいの、最悪だな」
「ああ」
ホールを出たあとも、しばらく胸の奥がざわついていた。
冬真は後方支援用の記録端末を持ったまま、会議ブロックの脇通路へ出る。人の流れが一時的に散り、少し静かになる場所だ。呼吸を整えるために立ち止まった、そのときだった。
「冬真」
呼ばれて振り向く。
澪だった。
さっきまで壇上にいた時の顔とは少し違う。まだ“表の空気”をまとっているが、その下に疲れが透けている。
「いた」
澪が言う。
「いたら悪いか」
「ううん。なんか、ちゃんと見てたなって思って」
その言い方に、冬真は返事が遅れる。
澪は数歩近づいてきて、通路の壁に軽く寄りかかった。
「伊吹少尉、話しやすい人だね」
澪が言う。
「そうか」
「うん。うまいよ、ああいう場」
「……」
「でも、ちょっと疲れる」
やはりそうか、と冬真は思う。
壇上の違和感は気のせいじゃなかった。
「似合ってた、って言われた」
澪が苦笑する。
「何が」
「並び。私と伊吹少尉」
「……」
その一言で、さっきまでのざわつきがまた胸に戻る。
「便利な言葉だよね、似合うって」
澪は小さく言う。
「そうか」
「うん。そう言われると、なんかもうそこに収まってなきゃいけない感じするし」
冬真は黙る。
似合う。
あの場で自分も思ってしまった言葉だ。
だから余計に痛い。
「冬真」
澪が少し首を傾げる。
「なんでそんな顔するの」
「してない」
「してるよ」
「気のせいだ」
「それ便利だね」
澪は笑った。
でもすぐにその笑みを薄くする。
「避けられてる感じ、した」
「何が」
「さっき。ホール出たあと」
「仕事がある」
「うん。でも、それだけじゃないでしょ」
返す言葉が見つからない。
自分の感情は、思っているよりずっと分かりやすく表に出ているのかもしれない。
それが今、いちばんまずい。
「……人前で並ぶのは、お前の仕事だ」
ようやく絞り出したのは、そんな言葉だった。
「それだけ?」
「それだけだ」
「嘘」
澪は即答した。
そのくせ追い詰めるような口調ではない。
ただ、静かにこちらの本音を探っているだけだ。
「冬真、分かりやすいよ」
「悪かったな」
「悪いとは言ってない」
澪は少しだけ困ったように笑った。
「でも、なんか……変な感じした」
「何が」
「私、ああいう並びの中にいると、ちゃんと立ってなきゃって思うのに」
「……」
「冬真に見られてると、ちょっとだけ苦しくなる」
冬真は息を止めた。
予想外の言葉だったからだ。
「何で」
思わずそう返す。
「分かんない」
澪は正直に言った。
「たぶん、冬真が見てるのって“英雄っぽい私”じゃないから」
「……」
「だから、ああいう場所にいる自分が、少しだけ嘘っぽく思える」
その言葉が、胸の奥に静かに落ちる。
自分はたしかに、名前や見え方ではなく澪そのものを見ている。
それが澪に伝わっているからこそ、ああいう場の彼女自身を揺らしてしまうのかもしれない。
それは嬉しいことなのか、苦しいことなのか、冬真にはもう分からなかった。
「……仕事に戻る」
冬真が言う。
「逃げるんだ」
「逃げてない」
「遠慮してる?」
「……」
「図星か」
澪はそう言って、少しだけ目を細めた。
「無理に聞かないよ」
「そうか」
「でも、冬真が思ってるより、私、ちゃんと分かるから」
その一言で、冬真は完全に言葉を失った。
分かっている。
どこまでかは分からない。
けれど少なくとも、冬真があの“似合う並び”を平気で見ていられないことくらいは、もう伝わっている。
通路の向こうから、伊吹の声がした。
澪を呼んでいるらしい。
「行かなきゃ」
澪が言う。
「ああ」
「……ごめんね」
「何が」
「なんとなく」
曖昧な謝罪だった。
でもその意味は、たぶん分かる。
あの壇上に立つこと。
そこに収まって見えること。
そして冬真が、その光景に傷つくかもしれないこと。
澪は全部を言わないまま、小さく笑った。
「またあとで」
「ああ」
「今度は、そんな顔しないで」
「無茶言うな」
「知ってる」
それだけ言って、澪は伊吹の声のしたほうへ戻っていく。
その背中を見送りながら、冬真はどうしようもなく思う。
似合う。
たしかにそう見える。
だから苦しい。
もし似合わなければ、きっとこんなに痛くない。
でも現実には澪はあの場所に立ててしまうし、周囲もそれを求める。
その中で自分だけが、影の位置から目を逸らせない。
通路の角から瀬名が顔を出した。
「終わったか?」
「何が」
「その会話」
「終わった」
「で?」
「似合う並びは便利な言葉らしい」
「うわ」
「何だ」
「だいぶ核心ついてきてるな、お前ら」
「そうか」
「しかも天城少尉、ちゃんとお前の顔読んでるだろ」
「……ああ」
冬真は短く答えた。
「悪いな」
瀬名が言う。
「何が」
「図星だろうけど、伊吹少尉みたいなのはこれからもっと増えるぞ」
「分かってる」
「英雄が前に出るほど、横に立つ“似合う人間”も増える」
「分かってる」
「で、お前は後方から見てるしかない」
「……分かってる」
その全部が正しいから、何も言い返せない。
戦術支援管制室へ戻る途中、冬真は一度だけ観測窓の前で立ち止まった。外では防壁の上に薄い曇り空が広がっている。明るくも暗くもない、曖昧な色だった。
英雄と無名。
光と影。
その差は、思っていたよりずっと具体的な形で突きつけられる。
壇上の並びとか、
似合うという言葉とか、
そういう、誰でも簡単に消費できる見え方で。
それでも目を逸らせないのは、
たぶんもう、自分の感情が“守りたい”だけでは済んでいないからだった。




