第2章 第9話:危険任務
危険は、だいたい“必要”という顔をしてやってくる。
誰かが行かなければならない。
誰かならできる。
他の手段では間に合わない。
そうやって理屈を積み上げれば、危険な任務ほど正しく見える。
正しく見えるからこそ、引き受ける人間が出る。
そして引き受ける人間は、たいてい最初から決まっている。
相模第七防衛区画、第一作戦室。
壁面いっぱいに北部戦線の戦域図が投影されていた。敵指揮ノードの推定位置、通信中継の死角、進入可能な前進ルート、撤退予測線。地図の上に並ぶそれらは、机上では美しく見える。問題は、その線の一本一本の先に、生きた人間が乗ることだった。
榊冬真は後方支援席からその投影を見上げていた。
横では瀬名が腕を組み、あからさまに嫌そうな顔をしている。
「来るな」
瀬名が小さく呟く。
「ああ」
冬真が答える。
「一番嫌なやつだ」
「分かってる」
司令卓に立つ上官が、指示棒で戦域中央の赤い点を示す。
『敵指揮ノードの活動域が、前回より明確になった』
『完全な位置特定には至っていないが、北西残骸区画に限定可能と判断する』
『本作戦の目的は、先鋒による前進観測および敵指揮ノードの露出誘発』
前進観測。
露出誘発。
言葉だけを選べば綺麗だ。
要するに、危険域へ一機を差し込み、敵に反応させる任務だった。
司令卓が次のスライドを出す。
候補機体一覧。
高機動型、応答性、現地判断能力、撤退成功率。
その一番上に、当然のように天城澪の名があった。
天城澪/暁式参号
先鋒候補・最適
喉の奥が、静かに冷える。
「ほら来た」
瀬名が歯の隙間から言う。
「英雄様を囮にする気だ」
「囮じゃない、観測だ」
冬真が低く返す。
「お前がその言い方するとき、たいてい一番怒ってるな」
自覚はあった。
合理だとは分かっている。
澪の操縦技量、判断力、撤退成功率。すべてこの任務に合っている。合っているから候補に挙がる。誰も感情で決めているわけじゃない。
だからこそ腹が立つ。
英雄であることも、
強いことも、
帰ってこられる可能性が高いことも、
全部まとめて“使いやすい”理由になるからだ。
『他に意見は』
司令卓からそう問われた瞬間、冬真は立っていた。
「戦術支援三番、榊」
『発言を許可する』
作戦室の視線が一瞬だけこちらへ集まる。
澪も前列で振り返った。ほんの一瞬だけ目が合う。すぐに視線を戻したが、それだけで自分の鼓動が妙にうるさく感じる。
「前進観測は敵の狙いと合致しすぎています」
冬真はできるだけ平坦に言う。
「現状、敵は先鋒機への重点観測を継続している。そこへ天城少尉機を投入すれば、敵指揮ノードの露出より先に、こちらの支援構造を深く読まれる可能性が高い」
空気が少しだけ変わる。
単に“危険だ”と言うだけでは通らない。
感情に見えた瞬間に終わる。
だから数字と構造で話すしかない。
『代案は』
司令卓が訊く。
「囮軸を分散すべきです」
冬真は続ける。
「高機動機一機を単独で押し込むのではなく、無人観測機と後列中継ノードを先に薄く展開し、敵側の追尾優先順位を散らす。そのうえで先鋒を一段遅らせれば、露出誘発の成功率は維持したまま、重点観測の集中率を下げられます」
司令卓の横で何人かがデータを見直す。
完全な否定はされていない。
まだ届いている。
だが、次の返答でそれは崩れた。
『理論上は妥当だが、再編成に時間がかかる』
『敵活動域は流動的であり、即応性を優先する』
『現行案で進める』
切られた。
予想通りだった。
それでも腹の底の温度は下がらない。
「榊、座れ」
瀬名が小声で言う。
「顔に出てる」
「……」
「今そのまま睨むと全部バレるぞ」
冬真はようやく息を整え、席へ戻った。
前列の澪は、もう振り返らない。
ただ前を向いたまま、静かに説明を聞いている。
決まりだ、と冬真は思う。
澪はこの任務を受ける。
迷わない。
それができる人間だと知っているから、余計に止めたくなる。
ブリーフィング終了後、作戦室の人が散り始める。
冬真は席を立ちかけたが、その前に前列から澪がこちらへ歩いてきた。
「さっき」
澪が言う。
「止めようとしてくれた?」
「構造の話をしただけだ」
「それでも、止めようとしてくれたんでしょ」
いつもなら言葉を濁すところだった。
だが今は、そんな余裕がない。
「他にもやり方はある」
冬真は低く言う。
「私が行くのが、一番早い」
澪は静かに返した。
まっすぐすぎる答えだった。
「早いのと正しいのは違う」
「でも、今の状況なら近いと思う」
「……」
「冬真」
名前を呼ばれて、冬真は口を閉ざす。
澪は怒っていない。
むしろ、少しだけ困ったような顔をしていた。
「心配してくれるのは嬉しい」
「心配じゃない」
「嘘」
「……」
「でも、行けるなら私が行くよ。それが一番、被害が少ないなら」
その言葉に、冬真の中で何かが軋む。
分かっている。
それは澪の正しさだ。
誰かの代わりに前へ出ることで、全体の損害が減るなら、自分が行くと本気で思っている。そういう人間だと知っている。
だから嫌だ。
その正しさごと壊されそうで。
「お前を便利に使うな」
気づけば、そんな言葉が出ていた。
澪の目がわずかに開く。
自分でも言いすぎたと分かったが、遅かった。
「便利って」
「……悪い」
「ううん」
澪は少しだけ視線を落とし、それから小さく笑った。
笑ったが、その笑いは明るくない。
「たぶん、そう見えることもあるんだろうね」
「……」
「でも、自分で選んでるよ。少なくとも私は」
その返しがいちばん痛い。
使われているだけじゃない。
澪自身がその役目を引き受けている。
だから止める言葉が余計に弱くなる。
「冬真」
澪が静かに続ける。
「怖くないわけじゃないよ」
「……」
「でも、見ててくれるなら行ける」
また、それを言う。
ずるい、と冬真は思う。
そうやって自分を支えに含めるから、
守らないという選択肢がまた消える。
「簡単に言うな」
「簡単じゃない」
澪は即座に返した。
「簡単じゃないから言ってる」
返す言葉がない。
その沈黙の隙を狙うように、横から瀬名が割って入ってきた。
「おーい、英雄様」
やけに明るい声だった。
「そろそろ前線ブロック戻らないと、上官が探しますよ」
「あ、うん。ごめん」
澪が振り向く。
「あと榊はこういう顔してるとき、だいたい役に立たないんで」
「瀬名」
「事実だろ」
余計な一言だったが、助かったのも事実だった。
これ以上ここで話せば、本当に何かを零しかねなかった。
澪は少しだけ迷うような顔をしたが、やがて小さく頷く。
「……分かった。行ってくる」
「まだ行くと決まったわけじゃない」
「決まるよ」
澪は静かに言う。
「たぶん、もう」
その言い方で、冬真にも分かった。
澪ももう、自分が選ばれることを受け入れている。
「帰ってきたら」
澪が続ける。
「また、ちゃんと話そう」
「……ああ」
「今度は逃げないで」
「お前も無茶するな」
「それは約束できない」
「最低だな」
「知ってる」
そこでようやく、少しだけいつもの笑い方をした。
その笑顔があるから、余計に危うい。
澪が去ったあと、瀬名が大きくため息をつく。
「危なかったな」
「何が」
「お前が感情で全部喋りかけてた」
「喋ってない」
「喋ってなくても顔が喋ってるんだよ」
冬真は反論しなかった。
自分でも分かっていたからだ。
「その顔で司令卓行くなよ」
瀬名が言う。
「今なら“戦術支援の意見”じゃなくて“天城少尉を前に出すな”って本音ごと出る」
「……」
「ほんとに分かりやすいな、お前」
分かりやすくなっている自覚はあった。
前ならもっと隠せた。
もっと平気な顔ができた。
今は澪が前に立つ話になるだけで、理屈の下にある感情がすぐ浮いてくる。
それがいちばん危ない。
戦術支援管制室へ戻る途中、冬真は一度だけ立ち止まり、壁面の狭い観測窓から外を見た。防壁の向こう、灰色の空の下に壊れた街が広がっている。明日か明後日か、そのどちらかにはまたあそこへ澪が出る。
危険任務。
敵の露出誘発。
前進観測。
どんな名前を付けても、危ないことには変わりない。
「榊」
後ろから瀬名が呼ぶ。
「何だ」
「お前、怒ってるだろ」
「……」
「分かりやすすぎるって」
「怒ってない」
「じゃあその目は何だよ」
「……他にもやり方がある」
「うん」
「あるのに、一番危ない手を選ぶ」
「うん」
「しかも、あいつはそれを受ける」
そこまで言って、自分の声が少し低くなっていることに気づく。
怒りだ。
上層部に対してだけじゃない。
敵に対してだけでもない。
澪が当然みたいに前へ出ることに対しても、腹が立っている。
それは理不尽な怒りだと分かっている。
澪は間違っていない。
それでも、奪われる側になる未来を勝手に引き受けられることが耐え難い。
「そういう顔だ」
瀬名が静かに言う。
「守りたいだけじゃなくなってきたな」
「……」
「奪われるのが嫌なんだろ」
冬真は答えなかった。
だが、その沈黙だけで十分だった。
戦術支援管制室へ戻ると、次作戦の準備ログがもう走っていた。敵指揮ノード観測ルート、危険域予測、撤退条件。壁面モニタにはまた、天城澪の名前が先鋒候補として表示されている。
誰も悪意で決めていない。
誰も間違っていない。
だから余計に救いがない。
冬真は自席へ座り、端末を開く。
合法の範囲でできる支援を洗い出す。
予備中継。
負荷分散。
敵同期の観測。
そして、必要になればまた越えてしまうかもしれない、その先の準備まで。
感情で動くな。
瀬名の言葉は正しい。
けれどすでに、感情が動いていないふりをするのが一番難しくなっていた。
危険任務はまだ始まっていない。
それなのに冬真の中ではもう、何かがじわじわと臨界へ近づいていた。




