第2章 第8話:問いかけ
問いかけは、答えを求めるためだけにあるわけじゃない。
相手がどこまで黙るのか。
どこで目を逸らすのか。
何を言わずに飲み込むのか。
そういうものまで含めて、人は問いかける。
相模第七防衛区画の夜は、静かになりきれない。
格納デッキの奥では整備アームがまだ動いているし、戦術支援管制室では次作戦に向けた解析が回り続けている。前線の人間が短い睡眠を取っているあいだも、後方は止まらない。止まった瞬間に、その遅れは次の誰かの死角になる。
榊冬真も、自席の端末の前にいた。
壁面モニタの光は淡い。昼間ほど人は多くないが、そのぶん空調の乾いた音がよく聞こえる。端末には今日の作戦ログが開かれたままになっていた。澪機の進路、優先処理の連続、管理AIの注意表示、敵の逆探知痕。見飽きるほど見たはずなのに、何度見ても気分の悪さが消えない。
特に最後の通路での会話が、頭から離れなかった。
――私の機体、何かしてる?
あの問いかけは、問い詰めるためのものじゃなかった。
だから余計に困る。
責められたほうがまだ楽だったかもしれない。
信じたい、と言われたほうがずっと重い。
「まだ引きずってる顔だな」
隣から瀬名が声をかけてきた。今日は珍しく、紙コップではなく缶の栄養飲料を片手にしている。さすがに胃が限界なのだろう。
「何が」
冬真が返す。
「英雄様との会話」
「関係ない」
「その返し、今日は通らないぞ」
瀬名は自席に腰を下ろし、冬真の端末画面を覗き込む。
「管理AIの注意、まだ残ってるな」
「ああ」
「敵の逆探知も増えてる」
「ああ」
「で、そこに天城少尉の問いかけまで乗った」
「……」
答えないでいると、瀬名はやれやれといった顔で缶を開けた。
「ほんと、綺麗に詰んでくな」
「まだ詰んでない」
「その言い方してる時点で半分詰んでるんだよ」
冬真は画面を閉じる。
数字と波形を見ているほうが気は楽だった。人の言葉は、数字よりよほど処理に困る。
「帰らないのか」
瀬名が訊く。
「まだ作業がある」
「作業ねえ」
「何だ」
「天城少尉から個別に呼び出し入ってるぞ」
冬真の視線が止まる。
「……何で知ってる」
「お前の端末、さっきから通知ランプ点滅してる」
言われて、ようやく気づいた。
個人メッセージの未確認表示が画面端で小さく光っている。
送信者:天城澪
胸の奥が、妙に静かに重くなる。
「見ないのか」
瀬名が訊く。
「……」
「見たくないなら俺が読むぞ」
「やめろ」
冬真は即座に画面を開いた。
短いメッセージだった。
――今、少し話せる?
たったそれだけ。
飾りもない、あまりにも澪らしい文面。
冬真は数秒見つめたあと、短く返した。
――どこで
返信は早かった。
――整備区画の奥
――白い機体のところ
白い機体のところ。
言い方だけなら業務連絡みたいなのに、その場所指定の仕方がずるいと思う。どうせ行くと分かっていて、言い訳のできる場所を選んでいる。
「行くんだろ」
瀬名が言う。
「仕事だ」
「今日何回目だその台詞」
「数えるな」
「じゃあ、せめて死にそうな顔で行くなよ」
冬真はそれには答えず、管制室を出た。
整備区画への通路は夜ほど人が少ない。床を踏む靴音が自分のものだけみたいに聞こえる。蛍光灯の白さが余計に冷たい。通路を曲がるたび、整備用の駆動音が少しずつ大きくなる。
白い機体のところ。
暁式参号は、今も整備区画の一番奥にいるはずだった。
区画へ入ると、案の定そこだけまだ灯りが落ちていなかった。整備アームは停止しているが、点検灯だけが白く機体を照らしている。暁式参号の外装は静かで、戦場にいた時の熱ももう感じない。
その脇に、澪が立っていた。
簡易ジャケットの上から腕を組んで、こちらを見るでもなく機体を見上げている。気配で気づいたのか、冬真が近づくとゆっくり振り向いた。
「来てくれた」
「呼んだのはお前だ」
「うん。来ないかなとも思った」
「来るだろ」
「そうなんだよね」
澪は少し笑う。
その笑い方が、昼の英雄のものではなく、昔に近い。
「何の話だ」
冬真が先に言った。
「聞きたいこと、あるんだろ」
「うん。ある」
澪は素直に頷いた。
「でも、答えなくてもいいとも思ってる」
「……それは質問としてずるい」
「知ってる」
そう言ってから、澪は白い暁式参号へ軽く目をやる。
「今日のさ」
「……」
「また、助かった感じしたんだ」
冬真は何も言わない。
「機体が合うとか、そういうレベルじゃなくて。もちろんそれもあるんだけど」
澪は言葉を探すように少し視線を落とす。
「戦場で、嫌な角度がずれる感じ。道がないところに、ぎりぎり通れる場所が出る感じ」
風のない整備区画なのに、空気だけがひどく張っている気がした。
「考えすぎかもしれない」
澪は続ける。
「でも、最近ずっとそう思ってる」
「……」
「で、その感覚の近くに、冬真がいる気がする」
まっすぐだった。
断定ではない。
責めてもいない。
ただ、信じたいものの輪郭を、正直に置いてくる言い方。
冬真は視線を逸らしたくなるのを抑えた。
逸らした時点で答えになると分かっていたからだ。
「機体調整はしてる」
結局、前と同じ答えしか出てこない。
「うん」
「戦術支援もしてる」
「うん」
「それ以上は、言えない」
澪はしばらく黙った。
怒るかと思った。
呆れるかと思った。
あるいは、もっと踏み込んでくるかもしれないと思った。
けれど澪は、ゆっくりと息を吐いただけだった。
「そっか」
「……」
「言えないんだ」
「ああ」
「今は?」
「今は」
その“今は”が出たことに、冬真自身が少し驚いた。
完全否定することはできなかった。
澪相手だと、それが難しくなっている。
澪はその一言を聞いて、小さく頷いた。
否定よりも、むしろ何かを受け取った顔だった。
「ねえ、冬真」
「なんだ」
「私、見られるのあんまり好きじゃないんだよ」
「……知ってる」
「前線で注目されるのは、もう仕方ないって思ってる。でも、見られてるって普通は怖いでしょ」
冬真は黙って聞く。
「でも」
澪は少しだけ笑う。
「冬真だと、嫌じゃない」
その言葉に、胸の奥で何かがひどく静かに揺れた。
「そういう言い方するな」
冬真が低く言う。
「何で?」
「困る」
「やっぱり」
澪は目を細めた。
からかっているわけではない。
それが本音だと確認しているだけの顔。
「困るのは、何で?」
「……」
「冬真」
名前を呼ばれる。
逃げ道を塞ぐみたいに。
冬真はほんの一瞬だけ目を伏せ、それから観念したように息を吐いた。
「お前がそういうふうに言うと」
「うん」
「……言えないことが増える」
澪の目が、少しだけ見開かれる。
ほんの小さな変化だったが、冬真にはそれで十分だった。
「それって」
澪が、かなり慎重に言葉を選ぶ。
「悪い意味?」
「違う」
「じゃあ、いい意味?」
「……それも言えない」
答えになっていないのに、澪はなぜか少しだけ笑った。
「前より、ちゃんと困ってくれるようになった」
「前から困ってた」
「嘘。前はもっと逃げてた」
「今も逃げてる」
「うん。でも、前より遅い」
その指摘は、あまりにも正確だった。
距離を取っているつもりだった。
隠しているつもりだった。
でも実際には、澪に対してだけ反応が遅れている。言葉を返せなくなる時間が増えている。全部、たぶん見抜かれている。
澪は暁式参号の白い肩へそっと手を当てた。
もちろん装甲の外側だ。
整備は終わっている。触れても問題はない。
「私さ」
そのまま前を向いたまま言う。
「最近、戦場でちょっとだけ怖くなくなったんだ」
「……」
「もちろん怖いよ。普通に死ぬかもしれないし」
「なら無茶するな」
「ほら、それ」
澪が少し笑う。
「でも、前より“ひとりじゃない”感じがする」
冬真の喉の奥がつまる。
「誰かが見てるって思うと」
澪は続ける。
「ちゃんと戻ろうって思える」
「……」
「そういうのって、変かな」
「変じゃない」
反射みたいに出た言葉だった。
澪がこちらを向く。
「そっか」
「ああ」
「じゃあ、変じゃないなら、信じてもいい?」
「何を」
「私がひとりじゃないってこと」
それはもう問いかけというより、祈りに近い響きだった。
冬真はすぐには答えられない。
嘘を言う気はない。
否定もできない。
肯定すれば、もう引き返せない気がした。
その沈黙を、澪は急かさなかった。
ただ待っている。
昔からそうだった。
答えを急がないときの澪は、本当に大事なことだけを聞いている。
「……信じるのは勝手だ」
ようやく出た言葉は、我ながらひどく不器用だった。
「何それ」
「それ以上は言えない」
「でも、否定しないんだ」
「……」
また黙るしかなくなる。
澪はその沈黙を見つめて、ふっと目を細めた。
「じゃあ、今はそれでいい」
「いいのか」
「うん。無理やり聞いて、冬真がもっと遠くなるの嫌だし」
「……」
「でも、ひとつだけ」
澪は一歩だけ近づいた。
ほんの少しの距離なのに、冬真にはそれがひどく近く感じる。
「見ててくれるなら」
澪が言う。
「次も、戻るから」
その言葉は、約束みたいでいて、同時に責任を預ける言い方でもあった。
危ういと思う。
重いとも思う。
そしてたぶん、それ以上に嬉しいと思ってしまう自分がいる。
「……簡単に言うな」
冬真の声は思ったより掠れていた。
「簡単じゃないよ」
澪は静かに返す。
「簡単じゃないから、冬真に言ってる」
ずるい、と思う。
そうやって自分だけに特別な言葉を置いていくから、
守る理由がまた増える。
整備区画の奥で、補助灯が一つだけ切り替わる音がした。
現実へ引き戻すような、小さな機械音だった。
澪はそこでようやく一歩引いた。
「もう遅いし、今日は終わりにする」
「……ああ」
「答え、今すぐじゃなくていい」
「そうか」
「でも、いつかちゃんと聞くから」
そう言って、澪は少しだけ笑った。
脅しでもなく、冗談でもなく、本当にそうするつもりの顔だった。
「逃げるなよ」
最後にそう付け加える。
「無茶言うな」
「無茶なのは知ってる」
澪は軽く手を振って、整備区画の出口へ向かう。
途中で一度だけ立ち止まり、振り返らずに言った。
「冬真」
「なんだ」
「見られるの、嫌じゃないって言ったの、本当だから」
それだけ残して、今度こそ去っていった。
残された冬真は、その場でしばらく動けなかった。
白い暁式参号が静かに立っている。
何も語らない機体のはずなのに、その中へ自分が隠してきたものを、澪は少しずつ拾い上げている気がした。
言えない。
でも、伝わっていないわけでもない。
その半端な距離が、いちばん危うくて、いちばん救いがない。
「……おーい」
通路の入り口から瀬名が顔を出した。
空気を読んでいたのか、少し遅れて来たらしい。
「終わったか?」
「何がだ」
「その返し、もう飽きた。で、どうだった」
冬真は数秒迷ってから、短く答えた。
「見られるのは嫌いだが、俺なら嫌じゃないらしい」
「うわ」
「何だ」
「それ、かなり重いぞ」
「知ってる」
「で、お前は?」
「困ってる」
「だろうな」
瀬名は苦笑したあと、少しだけ真面目な顔になる。
「でも、それってさ」
「何だ」
「もう向こうも、お前を信じ始めてるってことだろ」
その言葉に、冬真は返せなかった。
信じる。
澪はたしかにそう言った。
疑うのではなく、信じたいと。
それがどれだけ危ういことか、冬真はよく知っている。
敵の目も近づいている。
味方の監視も厳しくなっている。
その中で澪だけが、秘密を暴くより先に、そこにあるものを信じようとしている。
それが嬉しくて、
苦しくて、
たぶんいちばん危ない。
冬真は暁式参号の白い肩を見上げる。
この機体に入れた補助制御も、
戦場での一秒の介入も、
澪の生存率を上げるための全部も、
もうただの“隠し事”では済まなくなってきている。
問いかけは終わっていない。
たぶん、これからもっと深くなる。
それでも今夜だけは、
澪が信じたいと言ったその言葉を、
胸のどこかで何度も反芻してしまう自分がいた。




