第2章 第4話:英雄の値段
勝った戦いのあとほど、人は笑顔を要求する。
相模第七防衛区画の格納デッキは、作戦終了直後から妙に明るかった。整備灯の白さだけではない。戻ってきた機体の数、生還したパイロットの顔、戦果報告に滲む安堵。それらが混ざり合って、ほんのわずかに空気を軽くしている。
もちろん、そこに本当の平穏はない。
損傷機はあるし、負傷者も出ている。補給班は次の出撃に向けてすでに動いているし、壁面モニタの隅では敵再編予測が回り始めている。だがそれでも、“今日を生き延びた”という事実があるだけで、人は少しだけ息をつける。
その中心に、天城澪がいた。
「天城少尉、よく戻りました!」
「先鋒突破、映像見ました! あれはすごかったです!」
「肩、大丈夫ですか?」
「あとででいい、先に整備班通してやれ!」
声が飛ぶ。整備員、補給兵、作戦室から流れてきた連絡員。皆、自然と澪の周囲へ集まっていた。本人が望んだかどうかは関係ない。英雄が帰ってくれば、人はそこへ希望の形を見てしまう。
暁式参号の白い肩装甲には、新しい焼損痕が残っていた。冬真が一秒でずらした死線の跡だ。
ガラス越しの観測通路からその傷を見下ろしながら、榊冬真は無言のままだった。
「また派手にやったな、英雄様」
隣で瀬名が紙端末をめくる。
「戦果報告、ほぼ天城少尉の突破でまとめられてる」
「実際、突破したのはあいつだ」
「お前、そういうとこだけ妙に潔いよな」
冬真は返事をしない。
潔いわけじゃない。
事実だからそう思うだけだ。
自分がいくら戦場を一秒ずらしても、その一秒の隙間を生き延びて道に変えるのは澪だ。あの白い機体の中で、火花と警報に囲まれながら選んでいるのは澪自身だ。英雄と呼ばれる資格は、間違いなく澪にある。
ただ、その英雄の背中にどれだけ影が重なっているかを、誰も知らないだけで。
「ログ処理は?」
瀬名が訊く。
「終わった」
「“終わった”顔してない」
「敵の探索波が増えてる」
「ああ、見た。戦後処理の間も断続的に来てる」
冬真は手元の端末を開き、敵通信解析を再表示した。
戦闘中に拾われた断片音声。
同期ずれを否定する反応。
次段階、という単語。
そして戦闘終了後も、こちらの中継網表層へ薄く触れ続ける探索波形。
助けた代償は、確実に積み上がっている。
それでも視線の先では、澪が人に囲まれていた。
上官に報告し、
整備班に肩損傷を見せ、
後輩らしいパイロットに何か声をかけ、
そのたびに小さく笑っている。
疲れているはずなのに。
さっきまで死線にいたはずなのに。
それでも笑う。
たぶん、それが求められていると分かっているからだ。
「……高いな」
気づけば、冬真はそう呟いていた。
「何が?」
瀬名が横目で見る。
「英雄の値段」
「お前、たまにそういう詩人みたいなこと言うよな」
軽く流すような返しだったが、瀬名も澪のほうを見ていた。
「まあ、分からなくはない」
少ししてから、瀬名が言う。
「笑って帰ってくると、周りは安心するからな」
「ああ」
「でも、笑って帰る側が楽とは限らない」
冬真は黙って頷いた。
そのとき、下のデッキで澪がふと顔を上げた。観測通路のほうを見る。前にもあった。偶然かもしれない。けれどそのたびに、冬真は“見つかる”ような感覚を覚える。
「行くのか」
瀬名が言う。
「……何が」
「毎回その反応するのに、俺に聞き返すなよ」
冬真はすぐには答えなかった。
行く理由はある。
戦術支援担当として、機体損傷の確認。
戦闘ログのすり合わせ。
次回に向けた補助制御の再評価。
どれも嘘じゃない。
どれも本音の全部ではない。
「仕事だ」
冬真が言う。
「便利だな、その言葉」
瀬名は呆れたように笑う。
「ほら、行ってこい。でないとまた観測通路の隅で亡霊みたいな顔するだろ」
冬真は小さく舌打ちして、通路の階段を下りた。
デッキへ近づくほど、熱気と金属の匂いが強くなる。整備アームの駆動音、冷却蒸気の噴出、報告の声。いつもの格納デッキだ。いつものはずなのに、澪がいるだけでそこだけ少し密度が違って見える。
人の輪がようやく薄れた頃を見計らって、冬真は近づいた。
「肩」
第一声はそれだった。
「問題ないか」
澪が振り向く。
汗を軽く拭ったばかりなのか、額の髪が少しだけ乱れていた。
「いきなりそこなんだ」
「重要だ」
「冬真らしいけど」
澪はそう言って笑った。その笑顔はさっきまで周囲に向けていたものより、少しだけ柔らかかった。
「大丈夫。焼かれただけ。中はまだ生きてる」
「まだ、って言い方はやめろ」
「じゃあ、ちゃんと生きてる」
「そうか」
それだけで、冬真の胸の奥に張っていたものが少しだけ緩む。
澪はデッキ脇の整備箱へ軽く腰を預けた。ようやく人の輪から抜けたせいか、肩の力が少し落ちる。その変化を見てしまうと、さっきまでの笑顔の値段が余計に分かった。
「今日」
澪が言う。
「思ったより、きつかった」
「……」
「勝てたし、戻れたし、結果だけ見れば問題ないんだけどね」
問題ない。
その言葉を、前線の人間はよく使う。
問題がないのではなく、問題を飲み込んだあとの言い方だ。
「何がきつかった」
冬真はできるだけ平坦に聞いた。
「見られてる感じ」
澪は少しだけ視線を逸らす。
「敵に、ってだけじゃなくて。味方にも、市民にも、“天城少尉ならやってくれる”って思われてる感じ」
「それはお前がやってきた結果だ」
「うん。分かってる」
「……」
分かっている。
だから余計に苦しいのだろう。
澪は整備灯の白い光を見上げるようにして、小さく息を吐いた。
「期待されるの、嫌じゃないんだよ」
「だろうな」
「でも、たまに息が詰まる」
その言葉が、思ったより静かに刺さる。
誰も見ていないところでだけ零れる本音だと分かった。
英雄として囲まれているあいだは言わない。
上官にも、後輩にも、避難民にも言わない。
冬真にだけ、言う。
「無理はするな」
気づけば、口から出ていた。
「……それ、また」
「何だ」
「昔から、そればっかり」
澪は少し困ったように笑った。
「大丈夫とか、頑張ったとかじゃなくて、先に“無理するな”なんだよね」
「事実だから言ってる」
「うん。分かってる」
分かっている。
その返しに含まれる柔らかさが、余計に困る。
冬真は話を切り替えるように、暁式参号の肩部ログを表示した。
「応答遅延は軽微だが出てる。次の出撃前に見直す」
「また冬真がやるの?」
「必要なら」
「必要じゃなくてもやる顔してる」
「……気のせいだ」
「便利だね、その言葉」
このやり取りも、もう何度目か分からない。
澪は端末画面を覗き込み、肩損傷のログを見た。戦闘の生々しさはもう数字にされている。温度上昇、装甲損耗、応答遅延、機体負荷。そこへ感情は残らない。
けれど澪は、その画面よりむしろ冬真の顔を見ていた。
「ねえ」
「なんだ」
「今日も、見てた?」
「仕事だ」
「質問の答えになってない」
「見てた」
「そっか」
澪は小さく頷いた。
「それだけで、少し楽になる」
「何が」
「帰ってきたとき。見てた人がちゃんといるって思うと」
冬真は返事に詰まる。
自分はただ見ていたわけじゃない。
その一秒をずらした。
そのせいで敵に見つかりかけた。
けれど澪の言葉は、そんなことを知りもしないまま、まっすぐ届く。
見てた人がちゃんといる。
その一言に救われる資格が、自分にあるのか分からなかった。
「……冬真?」
黙り込んだ冬真を見て、澪が首を傾げる。
「なんだ」
「今、すごい複雑な顔した」
「してない」
「してるよ」
澪は少しだけ笑って、それから視線を落とした。
「でも、よかった。今日、帰ってこれて」
「ああ」
「ほんとは、ちょっと怖かった」
「……」
「途中で、またあの感じしたし」
その言葉で、冬真の呼吸がほんの少しだけ止まる。
「あの感じ?」
できるだけ自然に返した。
「うん。なんか……上手く言えないけど、死ぬはずの角度が外れるみたいな」
「戦場の錯覚だ」
「またそれ」
澪は苦笑する。
「でもさ、最近ほんとに多いんだよ。助かるたびに、偶然だけじゃないみたいな感じ」
「……考えすぎだ」
「そうかな」
そう言いながらも、澪は完全には引かなかった。
疑っているというより、確かめようとしている顔だ。
怖がっているのではなく、信じたいものの輪郭を探しているみたいな。
「誰かが見ててくれるなら」
澪がぽつりと言う。
「それだけで、少し怖くなくなるんだけどな」
冬真は答えられなかった。
それを言われるのが、いちばん困る。
隠したまま近づいてくる言葉だからだ。
「そういう言い方するな」
ようやく出た声は、思ったより低かった。
「何で?」
「……困る」
「困るんだ」
「困る」
澪はほんの少しだけ目を見開いて、それから笑った。
からかうような笑いではない。
何かを確かめたあとの、柔らかい笑い方だった。
「そっか」
「何だ」
「別に。ちゃんと困るんだなって思っただけ」
それ以上は踏み込んでこない。
その線引きが、余計に苦しい。
遠くで整備主任が澪を呼ぶ声がした。
追加の損傷確認らしい。
「行かなきゃ」
澪が整備箱から体を起こす。
「そうしろ」
「うん。でも」
澪は一歩だけ近づいて、少し声を落とした。
「冬真にだけ、言えた」
「何を」
「さっきの、息が詰まるって話」
その言葉に、冬真は一瞬だけ目を伏せた。
それは信頼だ。
たぶん、今の自分がいちばん欲しくて、いちばん受け取る資格があるのか分からないもの。
「……他で言うな」
結局、そんなことしか言えない。
「何それ」
「弱さを見せる相手は選べ」
「じゃあ、選んでるってことでしょ」
「……」
「冬真に」
そう言って澪は笑う。
英雄としての笑顔ではなく、昔の幼馴染に近い笑い方だった。
その顔を見ていると、澪が遠くなったと思うたびに、こうしてまた近い場所へ来るからずるいと思う。
「じゃ、またあとで」
「ああ」
「肩、ちゃんと見といてね」
「仕事だ」
「はいはい」
澪は軽く手を振って、整備班のほうへ戻っていく。
その背中を見送ってから、冬真はしばらくその場に立ち尽くしていた。
英雄の値段。
それはたぶん、こういうことだ。
戦場で生き残ること。
期待され続けること。
笑顔を要求されること。
弱さを見せる場所が少しずつ減っていくこと。
そしてその中で、たった一人だけに本音を零したとき、その重さまで背負わせてしまうこと。
「お帰り、亡霊」
いつの間にか戻ってきていた瀬名が、観測通路の入口にもたれていた。
「誰がだ」
「今の顔したお前だよ。だいぶ効いてるな」
「うるさい」
「で、何言われた」
「何も」
「その嘘、雑すぎるだろ」
瀬名は笑いながらも、すぐに端末画面を見せてきた。
敵通信の新しい探索波形だ。
「ほら、こっちはこっちで進んでる」
「……」
「さっきの介入、戦後解析でもまだ掘ってる」
「ああ」
「英雄様の値段は高いが、お前の“守る代償”も順調に積み上がってるな」
嫌な言い方だが、その通りだった。
冬真は画面の波形を見つめる。
敵は諦めていない。
むしろ、澪が生き延びるたびに、“なぜ生き延びるのか”への執着を強めている。
そして自分は、澪の弱音を聞いてしまったことで、さらに引けなくなっている。
守るだけでいいと思っていたはずなのに、
今はもう、支えたいとすら思い始めている。
それがいちばん危ういと、理性のほうはちゃんと知っていた。
格納デッキの向こうで、整備灯が暁式参号の白い肩を照らす。
焼け跡はまだ新しい。
そこへ今度は別の整備員たちが手を入れている。
冬真はその傷を見ながら、静かに思う。
今日の一秒は守れた。
だが次に必要になる一秒は、もっと高い代償を要求してくるかもしれない。
それでもたぶん、
澪がまたああして笑うのなら、
自分は次も手を伸ばしてしまう。
英雄の値段は高い。
その背後に立つ影の代償も、同じくらい高くなり始めていた。




