第2章 第1話:予兆の朝
朝は、いつもより少しだけ早く来ることがある。
それは空が明るむからではない。相模第七防衛区画の内部で、夜と朝の境目はたいてい人工灯の色では測れない。防壁の内側に差し込む陽光は薄く、厚い隔壁や通路の奥にいる人間ほど、自然の時間から遠ざかる。
だから、朝が来たと分かるのは、基地全体の空気が一段引き締まる瞬間だった。
作戦当日。
戦術支援管制室の壁面モニタには、北東戦線の広域マップがすでに展開されていた。前夜のうちに読み込まれた地形データ、敵侵攻予測、友軍の出撃ライン、中継網の負荷分散表。平面の情報が幾層にも重なり、立体的な戦場の輪郭を形作っている。
その中心を、榊冬真は黙って見つめていた。
徹夜明けだった。
眠っていない時間が長くなれば、感覚は逆に静かになる。疲労はある。目の奥も重い。だが、今の冬真にとってそれは雑音以下だった。意識の大半は、戦況分岐の中から“澪が死ぬ可能性の高い枝”を切ることに使われている。
机の上には飲みかけのコーヒー。
壁際には夜勤から継続して残っている解析員の疲れた背中。
空調は乾いていて、喉の奥が少し痛い。
それでも戦場は待ってくれない。
「まだ生きてるか」
隣から瀬名の声が飛んだ。両手に紙コップを一つずつ持っている。片方を当然のように冬真の机へ置く。
「死んでたら返事しない」
「それ言えるなら大丈夫だな」
瀬名は軽く笑ったが、目の下の隈は隠せていなかった。彼もほとんど寝ていないのだろう。今日は後方支援側も総力戦だ。前線が命を削るなら、後方は時間と判断を削る。
「最終更新、どうだ」
瀬名が訊く。
「敵指揮型の推定活動域、やっぱり広い」
「昨日と同じか、それ以上?」
「それ以上だ。観測優先の動きが増えてる」
「最悪だな」
「ああ」
冬真は新しい敵通信分析を画面へ出した。
短周期の同期信号が、前夜よりも整っている。前線制御だけを目的とするには不自然なくらい、無駄がない。しかも、こちらの中継網に対する探索波形も深くなっていた。広く撫でる段階は終わり、今は“どこを触れば何が返るか”を試している。
敵は探している。
天城澪ではなく、
天城澪へ手を伸ばすものを。
「相手、だいぶ本気で来てるな」
瀬名が低く言う。
「先鋒を落とす気もあるが、それだけじゃない」
「分かってる」
「なら、なおさらだ。今日は余計なことするなよ」
「……」
「その沈黙が信用ならないって、何回言わせる」
冬真は答えず、別ウィンドウを開いた。
端末の深層。
通常業務では触れない層。
そこには昨夜準備した非公式プログラムが、まだロック状態のまま眠っている。
予備中継回線の一時起動。
敵指揮型同期への限定ノイズ。
澪機の補助制御設定との連携。
必要になれば起動する。
必要にならなければ、それが一番いい。
そう自分に言い聞かせても、そのプログラムの存在自体が、すでに一つの答えだった。
「榊」
瀬名が珍しく真面目な声を出す。
「ほんとに必要になるまで、触るな」
「分かってる」
「今度はちょっとだけ信じる」
「ちょっとだけか」
「全部は無理だ。お前、自分の中で決めたことに関してだけは最悪に頑固だから」
否定できなかった。
管制室の正面モニタに、出撃前ブリーフィングの映像が映し出される。前線のパイロットたちが第一作戦室へ集まり、各隊ごとに最後の確認を受けているところだった。白い制服、暗い色のパイロットスーツ、壁面に投影された戦域図。誰もが静かだった。騒いでも状況は良くならないと知っている人間の静けさだ。
その中に、澪がいる。
天城澪は先鋒隊の列のやや前に立っていた。背筋はまっすぐで、視線は説明役の上官へ向いている。前話で見たような柔らかな表情はなく、もう完全に前線の顔だった。
けれど冬真には分かる。
あの肩の角度。
わずかな重心のかけ方。
落ち着いているようでいて、内側ではかなり集中している時の立ち方だ。
今日は澪も分かっているのだろう。
この作戦が、いつもより嫌な匂いをしていることを。
「相変わらず目で追ってるな」
瀬名が横から言う。
「仕事だ」
「その返し、今日はもう五回聞いた」
「数えるな」
「数えたくもなる」
壁面モニタの説明は続く。
『敵勢力は北東戦線より中規模以上の侵攻を予測』
『先鋒は中央寄りへ圧をかけ、後列再編の時間を稼げ』
『中継遅延を想定し、各隊は単独判断の余地を残せ』
単独判断の余地。
便利な言い回しだ、と冬真は思う。
要するに、現場での対応に任せる部分が増えるということだ。通信が崩れ、判断が遅れれば、その“余地”はそのまま死角になる。
しかも今回、敵はその死角を待っている。
「……嫌な文言だな」
瀬名も同じことを感じたのか、小さく呟いた。
「ああ」
「単独判断って、ようするに切り捨て幅が広いってことだろ」
「そうだ」
冬真はブリーフィング映像の隅に表示される戦域予測へ目を走らせる。先鋒進路はやはり中央寄り。敵が観測を優先するなら、そこがもっとも都合がいい。澪を前へ出し、包囲の角度を絞り、助けたくなる状況を作る。
分かりやすすぎるほど分かりやすい。
だから厄介だった。
ブリーフィング終了後、前線の映像は待機区画へ切り替わる。ヘルメットを調整する者、装備最終確認をする者、機体搬入路へ向かう者。その中で澪が一度だけ足を止め、カメラの外――おそらく管制側の観測窓のほうへ視線を向けた。
もちろん見えているわけじゃない。
ただの偶然だ。
それでも冬真は、一瞬だけ息を止めた。
その直後、自席端末に個人回線の短い通知が入る。
送信者:天城澪
たった四文字で、心臓が一拍だけ強く打つ。
瀬名が横から覗き込みそうになるのを、冬真は無言で画面の角度をずらして避けた。
「おい」
「見るな」
「まだ何も見てない」
「見ようとした」
「顔に出すぎなんだよ」
冬真は通知を開く。
――おはよう。ちゃんと起きてる?
拍子抜けするくらい、何でもない文面だった。
何でもないはずなのに、その“おはよう”が妙に生身で困る。
戦場の前だというのに、澪はこういう時だけ昔みたいな距離でメッセージを送ってくる。いや、昔より質が悪いのかもしれない。昔ならまだ、隣に立つ資格がある気がした。今はないくせに、こういう言葉だけが真っ直ぐ届く。
冬真は数秒考えて、短く打ち返した。
――起きてる。お前こそ、余計な無茶をするな
送信。
数秒も経たないうちに返信が返る。
――それ、昔から毎回言うよね
――でも今日はちゃんと聞いとく
その二行だけで、胸の奥が静かに痛んだ。
今日はちゃんと聞いとく。
その言葉が、逆に嫌な予感を強める。
澪だって何かを感じているのだ。言葉にならない危機の輪郭を。
「どうだった」
瀬名がわざとらしく訊く。
「うるさい」
「重そうな顔したから、たぶん軽い雑談じゃないなって」
「雑談だ」
「そういうことにしといてやる」
出撃時刻が近づくにつれ、管制室の空気がさらに張り詰めていく。個々の声量はむしろ落ちる。必要な報告だけが短く飛び、無駄な会話は消える。誰もが自分の担当範囲を絞り、そこへ集中し始めるからだ。
冬真も自席のレイヤを再構築する。
表の戦況表示。
中継負荷監視。
敵通信解析。
そして最深部に、非公式プログラムの起動待機。
ロックはまだ外さない。
外した瞬間、それは“準備”から“意思”になる。
「敵側断片ログ、追加」
別卓の分析員が声を上げた。
「出せ」
瀬名が応じる。
共有画面へ、ノイズ混じりの敵通信断片が出る。音声復元率は低い。だが、単語は拾えた。
『――観測』
『――反応』
『――英雄機』
『――遮断不要』
『――支援追跡』
冬真の目が細くなる。
遮断不要。
つまり最初から澪を完全に止める気ではない。
ある程度動かし、追い込み、そのとき何が起きるかを見るつもりだ。
「ほら」
瀬名が苦い顔で言う。
「分かりやすすぎる」
「ああ」
「気持ち悪いくらいにな」
「……ああ」
これで確定した。
敵は今日、澪を囮として扱う。
しかも、それを隠そうともしていない。こちらが読めるようにしているのかもしれない。読めたところで、先鋒を外せないなら結果は同じだと知っているから。
壁面モニタが切り替わり、発進デッキのライブ映像になる。
白い暁式参号がカタパルトへ固定され、周囲の整備員が最終退避に入っていた。整備灯に照らされた装甲面が冷たく光る。あの肩には、冬真が仕込んだ補助制御がまだ眠っている。
触れられない守り。
知られないままであるはずの手。
それを今日、敵も、たぶん澪も、試される。
『先鋒各機、接続開始』
『バイタルリンク正常』
『パイロット生体認証確認』
ヘッドセット越しに流れる機械音声の隙間に、前線の呼吸が混じる。
冬真は何も言わず、その一つひとつを聞く。
澪の回線が開く瞬間まで。
『暁式参号、リンク正常』
短い無線ノイズ。
そのあと、澪の声が入った。
『天城澪、出る』
たったそれだけの報告なのに、管制室の空気が一段変わる。
前線の象徴が、戦場へ入る声だった。
冬真の端末に、さっきの個人メッセージがまだ残っている。
今日はちゃんと聞いとく。
その文字列が消えないまま、白い機体は戦場へ出ようとしている。
「榊」
瀬名が低く呼ぶ。
「今のうちに言っとく」
「なんだ」
「相手は待ってる。たぶんお前の反応速度も、癖も、優先順位も」
「分かってる」
「なら、読まれる前提で動け」
正しい助言だった。
正しいのに、それで助けられる保証はどこにもない。
冬真は視線を正面モニタへ固定したまま、小さく答える。
「必要にならないなら、それが一番いい」
「……その言い方するとき、大体必要になるんだよな」
瀬名のぼやきと同時に、カウントダウンが始まる。
三。
二。
一。
射出。
暁式参号が轟音とともに前へ叩き出される。
白い機体が朝の薄い空へ滑り出し、その後を僚機の識別灯が追う。戦域マップ上で、青い点が順に広がっていく。
その瞬間、敵性反応の一部が、まるで待っていたようにわずかに動いた。
まだ包囲ではない。
まだ収束でもない。
だが、確かにこちらを見ている動きだった。
観測開始。
そう言われた気がした。
冬真の背筋を、冷たいものがまっすぐ走る。
戦場は始まった。
敵は待っている。
澪はその中心へ入っていく。
そして自分の端末の最深部には、まだロックのかかったままの非公式プログラムが眠っている。
起動しなければ済むなら、それがいい。
だが済まない未来のほうが、今はずっと鮮明に見えた。
戦域図の中で、天城澪の識別灯だけが、妙に明るく見えた。




