なんか怖いものほど、ちゃんと震えるらしい
その夜は、ルカが早く寝た。
昼間、木の輪を探して走り回ったせいだ。
結局、輪は薪の裏から出てきた。
どうしてそこにあったのかは分からない。
ルカに聞いても「あった」としか言わなかった。
ルカが寝ると、家は静かになった。
火の音。
外の風。
アンナが湯を沸かす音。
それくらいしかない。
「ヨウカ」
アンナが椀を三つ置いた。
温かい飲み物。
一つを俺の前に。
一つをヨシュアの前に。
残りを自分の前に。
「まだ話してないこと、あるでしょう」
手が止まった。
言っていない。
広場でカリンにも、それ以上は言わなかった。
それなのに、アンナは知っている。
「顔に書いてありますか」
「書いてある」
即答だった。
ヨシュアは何も言わずに、椀を両手で包んでいた。
聞く体勢だった。
⸻
どこから話すか、少し迷った。
勝った話ではない。
負けた話でもない。
順位戦より前のことだ。
「順位戦の少し前に、魔法制御の授業がありました」
「制御?」
「魔力を、うまく出す練習です。的に当てたり、量を調整したり」
アンナが頷いた。
「別の班の生徒が、失敗しました」
そこで、一度言葉を切る。
思い出すと、まだ音が残っている。
「硝子の板を使う練習でした。魔力を入れすぎて、板が割れました」
「割れた?」
「破片が、飛びました」
アンナの表情が少し変わった。
「顔の高さまで来ました。目とか、頬とか、そのあたりです」
ヨシュアの手が、椀の上で止まった。
「怪我をしたのか」
「私はしていません」
「他は」
「一人だけ、手を切りました。深くはありません」
ヨシュアが息を吐いた。
「なら、いい」
「はい」
「続けろ」
俺は椀を見た。
湯気が上がっている。
「破片が飛んだ時、カイルが動きました。水と風で、大きな破片の向きを変えました」
「フォルデラの子ね」
「はい」
「でも、細かい破片は、抜けてきました」
指で、空中に線を引く。
顔の高さ。
「そこで、闇を使いました」
アンナは何も言わなかった。
ヨシュアも動かない。
「黒い膜を、薄く広げました。破片を受けて、勢いを殺して、床に落としました」
言い終わってから、少し間があった。
「守れたのか」
ヨシュアが聞いた。
「顔の高さの破片は、落ちました」
「なら、守れたな」
「はい」
そのはずだった。
守れた。
怪我人は一人で、手だけだった。
目に入った人はいなかった。
だから、良かったはずだ。
「でも」
声が、少し引っかかった。
「でも?」
アンナが静かに聞いた。
「その後で、手が震えました」
言葉にすると、あの時の感覚が戻ってくる。
指先の冷たさ。
黒い膜を握っていた感覚。
「闇を使うと、指が冷たくなります。長く持つと、足も止まります。反動みたいなものです」
「知ってる」
アンナが言った。
「あなた、昔からそうだった」
そうだ。
フィル村にいた頃から、闇は少し怖いものだった。
広げないもの。
人の近くでは出さないもの。
「でも、反動だけじゃありませんでした」
俺は椀を握った。
温かい。
それでも、あの時の冷たさを思い出す。
「怖かったです」
言った。
「破片が飛んだのも怖かったです。でも、それより」
言葉を探した。
うまく出てこない。
「闇を、人のいる場所で広げたのが、怖かったです」
アンナは何も言わなかった。
ただ、聞いていた。
「今まで、闇は隠していました。人の近くでは出さないようにしていました。危ないものだと思っていたので」
「危ないものだと思ってた」
「はい」
「でも、使った」
「使いました」
「守るために」
「……はい」
そこで、声が詰まった。
守るために、危ないと思っていたものを出した。
出して、守れた。
守れたのに、手が震えた。
その順番が、うまく飲み込めていなかった。
ずっと。
⸻
アンナは、しばらく何も言わなかった。
飲み物を一口飲んだ。
それから、俺の方を見た。
「怖かったのに、使ったのね」
「はい」
「震えたのに、守ったのね」
「……はい」
「なら、それでいい」
それだけだった。
「それだけですか」
「それだけよ」
アンナは椀を置いた。
「怖くないものを使うのは、簡単なの。怖いものを、それでも使えたなら、それが一番難しいところを越えたってこと」
言葉が、胸の奥に落ちた。
「でも、震えました」
「震えていいのよ」
アンナは当たり前のように言った。
「震えないなら、その方が心配。人に向けて力を使って、何も感じないなら、そっちの方が危ない」
ヨシュアが、静かに頷いた。
「震えるのは、分かってる証拠だ」
「分かっている?」
「その力が、何をするかを」
闇が何をするか。
隠す。
重くする。
飲み込む。
破片を落とすこともできる。
使い方を変えれば、人にも向けられる。
たぶん、そういうことだ。
「向けなかったから、震えたんだと思う」
気づいたら、口調が変わっていた。
自分でも、少し驚いた。
アンナは何も言わなかった。
ヨシュアも、指摘しなかった。
ただ、アンナが手を伸ばして、俺の髪を軽く撫でた。
一度だけ。
それから、椀を持ち直す。
何事もなかったように。
「飲みなさい。冷める」
「うん」
その返事も、いつもと違った。
でも、誰も何も言わなかった。
⸻
飲み物は、少し冷めていた。
それでも、温かかった。
「怪我をした子は、どうなった」
ヨシュアが聞いた。
「手の処置をして、次の日には授業に来ていました」
「そうか」
「その子が、お礼を言いに来ました」
「そうか」
ヨシュアは同じ返事を二回した。
だが、二回目の方が、少し柔らかかった。
「守れて、よかったな」
「はい」
今度は、詰まらなかった。
守れて、よかった。
手は震えた。
でも、守れた。
その順番が、やっと飲み込めた気がした。
「ヨウカ」
アンナが言った。
「これから、もっと怖いものを使うことになると思う」
「はい」
「精霊もそう。闇もそう。まだ分からない力もそう」
「はい」
「そのたびに、たぶん震える」
「……はい」
「震えたら、また話しなさい」
それだけだった。
慰めるでもなく。
励ますでもなく。
ただ、また話せと言った。
「はい」
今度の返事は、いつもの言い方に戻っていた。
戻ったことに、少しだけ気づいた。
でも、それでよかった。
⸻
ヨシュアが立ち上がった。
「寝るか」
「はい」
「明日は、村を出る前に少し体を動かせ。座ってばかりだと鈍る」
「はい」
「投げるのを見てやる」
それは、少し嬉しかった。
アンナが椀を片づけながら言う。
「私も見る」
「火は出さないでください」
「なんで」
「畑が焼けます」
アンナが笑った。
「昨日と同じこと言ってる」
「昨日も本当のことです」
ルカの寝息が、隣の部屋から聞こえた。
浅くはない。
よく寝ている。
明日、村を出れば、しばらく会えない。
また学園に戻る。
そこには、まだ話していない未来がある。
順位戦の次。
新しい後輩。
まだ分からない力。
それでも、今日話せたことが一つある。
硝子の日のこと。
手が震えたこと。
それを、話せる場所があること。
布団に入る。
灯りが落ちる。
今日は、よく眠れそうだった。




