なんか名前は勝手に歩くらしい
朝食のあと、アンナは椀を片づける手を止めなかった。
それでも、声だけこちらへ飛んできた。
「ヨウカ」
「はい」
「勝った話」
覚えていた。
忘れているとは思っていなかったが、順番まで覚えているとは思わなかった。
「今からですか」
「洗い終わるまでに始めなさい」
条件が厳しい。
ヨシュアは土間の椅子に座って、短剣の手入れをしていた。
自分のではない。
俺の訓練用だ。
昨日、板に何度も当てたから、縁が少し傷んでいる。
「一人目から」
ヨシュアが言った。
聞く体勢はできているらしい。
⸻
「一人目は、ガルドさんです」
「槍だったわね」
「はい。二年生で、去年は下剋上をした人です」
アンナの手が一瞬止まった。
「初戦でそれ?」
「はい」
「くじ、ひどいわね」
「ひどかったです」
本当にひどかった。
「長さは」
ヨシュアが聞いた。
「私の身長より、かなり上です。構えた時点で、こちらの短剣は届きません」
「踏み込みは」
「速くありません。でも、戻しが速いです」
ヨシュアが手を止めた。
「面倒だな」
「面倒でした」
「どうした」
「最初は、押されました」
そこは正確に言う必要がある。
「一度だけ内側に入って、袖をかすめました。でも、そこから相手が変わりました。木球は弾かれて、光も外されて、闇を出せば引かれました」
「通した手が潰されたわけね」
アンナが後ろから言った。
「はい」
「それで?」
「押し返されて、結界の縁が近くなりました」
アンナが振り向いた。
濡れた手を布で拭いている。
「負ける流れじゃない」
「はい」
「でも勝った」
「はい」
「どこで変えたの」
そこを聞くのか。
やはりそこを聞く。
「踵です」
ヨシュアが顔を上げた。
「踵?」
「ガルドさんは、突いた後に必ず戻します。その時、左の踵が同じ場所に残っていました。二回続けて、同じ場所でした」
言いながら、自分の足で位置を作る。
「ここです。結界の縁の、すぐ内側」
アンナが布を置いた。
腕を組んで、俺の足元を見ている。
「それで、そこを狙ったの?」
「いえ」
「違うの?」
「そこは踏ませたままにしました。動かしたのは、前足の方です」
木球を前に置くふりをする。
「前足の手前に投げると、踏まずに外へ逃げます。逃げると、体が少し開きます。開いたところで、槍を戻す手の横に光を出しました」
「止まるわね」
「一瞬です。その間に前へ出て、二つ目を槍の後ろの端に当てました。手元が浮きます」
ヨシュアが小さく頷いた。
「そこまでで、踵は動いていないわけだ」
「はい。縁の内側に残ったままです」
「あとは」
「足元に光を出しました。反射で足が引かれて、踵が縁に触れました」
静かになった。
アンナが息を吐く。
それから、笑った。
声を出して笑った。
「あんた、性格悪いわね」
「褒めていますか」
「褒めてるわ」
ヨシュアも、口の端が少し上がっていた。
「相手には言われたか」
「嫌なところに投げる、と言われました」
「それは勝ちだな」
基準がおかしい。
でも、この家ではそれが基準らしい。
⸻
「二人目は」
「ラウルさんです。剣と、土の小さい魔法を使う人でした」
「相性が悪いじゃない」
アンナがすぐに言った。
「悪かったです。足元を乱されると、投げるのも入るのも遅れます」
「どうしたの」
「最初は何もできませんでした。投げれば弾かれて、入れば押されて、逃げる先の土を盛られました」
思い出すと、今でも嫌になる。
「でも、土を動かす時だけ、剣先が下がっていました」
アンナの目が細くなる。
「同時にできないのね」
「はい。左手で腰の札を使っていました。札から土に流れていたので、そこを木球で撃ちました」
「壊したの?」
「壊れません。でも、流れが乱れて、土が崩れました」
ヨシュアが短剣を布で拭き、鞘に戻した。
「よく見つけたな」
「光を出した時に、剣が止まったので。その一瞬だけ、手を見る余裕がありました」
「牽制を、見るために使ったわけだ」
「はい」
ヨシュアはそれ以上言わなかった。
だが、短剣を置く手つきが、少しだけ丁寧になった気がした。
⸻
「ねえちゃ!」
予告どおりだった。
ルカが土間から入ってきた。
手には木の輪。
昨日と同じものだ。
「なげて」
「今、話をしています」
「なげて」
「後で投げます」
「いま」
交渉が成立しない。
アンナが笑いながらルカを抱え上げた。
「ルカ。お姉ちゃんは今、自慢してるの」
「していません」
「してるわよ」
「報告です」
「同じよ」
違うと思う。
ルカはアンナの腕の中で、俺の方へ木の輪を差し出し続けている。
諦めが悪い。
ヨシュアが手を伸ばして、輪を受け取った。
それから、土間の柱に軽く投げた。
輪が柱に引っかかる。
ルカの目が丸くなった。
「……とうちゃ」
「拾ってこい」
ルカが下ろされて、走っていく。
時間を稼いだらしい。
「早い」
「二人目だからな」
ヨシュアは平然としていた。
⸻
「それで」
アンナが座った。
「まだあるでしょう」
分かるのか。
いや、分かるのだろう。
「三人目のことは、昨日話しました」
「そっちじゃない」
「……はい」
話す順番を考えていた。
考えている間に、見抜かれていたらしい。
「初戦の最後に、精霊に頼みました」
アンナの表情は変わらなかった。
ヨシュアも動かない。
「土埃を、少しだけ立ててもらいました。踵を狙う前に、視線を落としてもらうためです」
「命令したの?」
「していません。頼みました。来てくれるかは分かりませんでした」
「来たのね」
「来てくれました」
アンナが小さく頷いた。
「それで、何を言われたの」
飛ばされた。
頼んだ話ではなく、その後の話を聞かれている。
「順位戦の後、生徒会長に呼び止められました」
「生徒会長」
「今年の序列一位の人です。氷の魔法を使います」
「その人が、見てたわけね」
「はい。普通の土魔法ではない、と言われました」
アンナは何も言わない。
続けろ、という顔だった。
「精霊魔法に近いのかもしれない、と。使い方次第では強いけれど、今の私のものは不安定で珍しい、と言われました」
「他には」
「精霊は道具ではないでしょう、と」
そこで、アンナが少し笑った。
「いい人ね」
「いい人でした」
「怖くもあるけど」
「怖くもありました」
教師からの呼び出しはなかったこと。
危険行為とは見なされなかったこと。
それも話した。
ただ、その後に一つ残っている。
「周りに、聞かれていました」
アンナの指が、卓の上で止まった。
「広まった?」
「たぶん」
「たぶんじゃなくて」
「……広まりました。帰る前に、掲示板の前でも言われました」
ヨシュアが立ち上がった。
何かを取りに行くわけではない。
ただ、窓の方へ歩いて、外を見た。
アンナはこちらを見たままだった。
二人とも、驚いていない。
そこが引っかかった。
「あの」
「なに」
「怒られると思っていました」
「なんで」
「目立ちすぎたので」
アンナは首を横に振った。
「隠せた話じゃないでしょう。試合で使ったんだから」
「はい」
「見た人がいて、名前がついた。それだけよ」
それだけ、と言った。
言い方が軽くはなかった。
「名前は、勝手に歩く」
窓の方でヨシュアが言った。
こちらを見ていない。
「一度ついたら、外せない。人が先に来る」
「はい」
「善意も来る。悪意も来る」
カイルと同じことを言っている。
違うのは、カイルは公爵家の子として言い、ヨシュアは何も名乗らずに言っていることだった。
「父さんも、そうでしたか」
聞いてから、少し迷った。
踏み込みすぎたかもしれない。
ヨシュアはしばらく外を見ていた。
「昔の話だ」
それだけだった。
アンナが横で、卓を指で一度叩いた。
「その話は、あとでね」
「あとで」
「そう。あとで」
はぐらかされた。
はぐらかされたが、嘘ではない。
あとで、と言う時のアンナは、たいてい本当にあとで話す。
⸻
「ヨウカ」
アンナが座り直した。
「一つだけ、今言っておく」
「はい」
「頼んだなら、最後まで見なさい」
「見る、というのは」
「頼んだ結果よ」
アンナは自分の手のひらを上に向けた。
何も乗っていない手だ。
「土埃が立って、相手の足が止まった。そこまではあなたが見た。でも、その先で相手が転んで頭を打っていたら?」
「……私のせいです」
「そう」
アンナは手を下ろした。
「頼んだのはあなた。来てくれたのは精霊。でも、起きたことの責任はあなたが持つの」
「はい」
「頼るのは悪いことじゃない。私だってヨシュアに頼るし、ヨシュアも私に頼る」
ヨシュアが窓の方で小さく息を吐いた。
たぶん、認めている。
「でも、頼った結果を相手に押しつけたら、それはただの利用よ」
利用。
言葉が重かった。
「はい」
「分かった顔してるわね」
「分かったつもりです」
「じゃあ、いいわ」
アンナは立ち上がって、卓の椀を持った。
「はい、終わり。ルカが戻ってくる」
言い終わる前に、土間から足音が聞こえた。
木の輪を持っている。
柱から外すのに、かなり苦戦したらしい。
「ねえちゃ、なげて」
「はい」
今度は断らなかった。
⸻
夕方、庭で木の輪を投げた。
ルカが拾って、戻ってきて、また差し出す。
それを何度も繰り返す。
輪は軽くて、狙った場所には飛ばない。
それでいい。
狙わない投げ方を、久しぶりにした。
アンナが窓から顔を出した。
「日が落ちる前に戻りなさい」
「はい」
返事をしてから、少しだけ考えた。
昨日、一度だけ崩れた言葉。
戻そうと思えば戻る。
戻さないでいることも、たぶんできる。
どちらも、まだうまくできない。
「ねえちゃ」
「はい」
「もっかい」
「はい」
輪が飛ぶ。
落ちる。
ルカが走る。
それを見ながら、俺は明日のことを考えていた。
まだ話していないことがある。
硝子が割れた日のこと。
黒い膜で受けたこと。
手が震えたこと。
あれは、勝った話でも負けた話でもない。
だから、順番が来ていない。




