なんか噂は勝手に歩くらしい
「新入生は東側出口へ。上級生は用具の確認を」
教師の声で、観覧席が動く。
俺は立ち上がった。
手すりの下にカリンがいる。
声をかけられる距離に見えた。
息を吸う。
名前を呼ぶだけでいい。
それだけのことだ。
「カリンさん、盾を用具庫へ」
別の教師が呼んだ。
「はい」
知っている声だった。
知っているのに、返事の仕方が違う。
カリンは盾を持ち直し、ほかの上級生と訓練場の奥へ向かう。
新入生の列は、反対側の階段へ流れた。
同じ実技場にいたのに、進む先が分かれる。
吸った息は、どこにも使わなかった。
「ヨウカさん?」
リーナに呼ばれて、俺は前を向いた。
「行こう」
マリベルが横に並ぶ。
「さっきの先輩、知り合い?」
「フィル村の幼なじみ」
「幼なじみ」
マリベルの目が丸くなる。
「聞かなかったら、言わなかった?」
「うん」
「……それ、大きい話に入ると思う」
「そう?」
「入るよ」
前の列が動き、そこで話は切れた。
近くにいた新入生が、こちらを一度振り返った。
エレシアは階段の下を見ている。
「盾の後の踏み込みが早かったです」
「見てたんだ」
「はい。受けるだけの方ではありませんね」
リーナも頷く。
「きれいでした。動き方も」
カリンは派手に打ち込まない。
大きな声も出さない。
それなのに、相手役の進む場所がなくなっていく。
廊下に出ると、さっそく名前が聞こえた。
「今の人、カリン先輩っていうんだって」
「強かった」
「綺麗だったよね」
カリン先輩。
その呼ばれ方だけが、耳に残った。
⸻
寮に戻っても、話題は実技見学だった。
部屋に入るなり、マリベルが椅子を引く。
「で、カリン先輩は本当に幼なじみ?」
「本当に」
「昔からあんな感じ?」
「村では、隣を歩いてた」
マリベルは茶化さなかった。
リーナが荷物を机に置く。
「仲がいいんですか」
「うん。昔から一緒にいた」
「そうなんですね」
リーナはそこで止めた。
エレシアは案内紙を畳みながら言う。
「話す機会はあると思います。慌てなくても」
「うん」
マリベルが両手を上げる。
「聞きたいことは多いけど、今日はここまで」
「本当に聞かないから」
「分かった」
リーナが小さく笑った。
そこで話は切れた。
俺は記録板を開いた。
カリンがいた。
そこまで書いて、手が止まる。
実技場の中央に立っていた姿を、一行に収めるのは無理だった。
手が上がりかけて、止まったところも。
俺は記録板を閉じた。
⸻
次の日。
教室へ向かう廊下で、昨日の話が流れていた。
「盾の先輩、カリン先輩っていうんだよね」
「新入生に知り合いがいるって」
「同じ村だって聞いた」
そこまでは、合っている。
その先で、噂は曲がった。
「カリン先輩が連れてきたらしいよ」
足が止まりかけた。
「連れてきたって?」
「先輩の推薦で入れたんだって。村から」
「へえ。だから合格したのか」
違う。
推薦は村長とミラだ。
カリンは何も出していない。
筆記も、実技も、面接も、俺が受けた。
それは、正せばいい。
そう思って口を開きかけて、止まった。
今の話を正すと、こうなる。
カリン先輩は関係ない。
先輩は何もしていない。
勝手に名前を使われただけだ。
——それを、俺が廊下で言う。
言えば、カリンの名前が、また廊下を歩く。
昨日、盾を下ろして手を上げかけた人の名前が。
俺のせいで。
喉の奥が冷たくなった。
昨日の階段にいた子の顔が、廊下の向こうに見えた。
聞かれていたらしい。
そこから、一晩で足が生えた。
マリベルが横目で見る。
「早いね」
「早すぎる」
「王都なら普通だよ」
「嫌な普通」
「訂正する?」
マリベルが聞いた。
茶化す顔ではない。
「私のことなら、する」
言ってから、続けた。
「でも、カリン先輩の名前が乗ってる」
マリベルの足が、半歩遅れた。
「……そっちが嫌なんだ」
「うん」
「自分が推薦で入ったって言われるのは?」
「腹は立つ」
「それだけ?」
「それだけ」
本当は、それだけではない。
悔しい。
あの試験を受けたのは俺だ。
落ちるのが怖くて、掲示板を二度見た。
それでも、順番はある。
俺の悔しさは、あとで木札に書けばいい。
カリンの名前は、書いても消えない。
マリベルはしばらく黙ってから、言った。
「ヨウカさん」
「なに」
「損な性格してる」
「よく言われる」
「褒めてないよ」
「知ってる」
マリベルは前を向いた。
それ以上は聞かなかった。
エレシアが横から言う。
「今は放ってよいと思います」
「うん」
「噂は、次の噂が来れば移ります」
「次が来るまでは?」
「歩き続けます」
正直な人だ。
「分かってる」
リーナが教室の扉を開けてくれた。
教室に入ると、いくつか目が向いた。
全員ではない。
だから余計に、どこから聞かれているのか分からない。
席へ向かう途中で、男子生徒が声をかけてきた。
「ヨウカ」
レオスだった。
昨日の案内で同じ組だった生徒だ。
「カリン先輩と同じ村って、本当?」
「本当」
「幼なじみ?」
「うん」
「すごいな。あの人、上級生の中でも目立ってたぞ」
「すごいのはカリン先輩だよ」
言ってから、喉の奥が変な感じになった。
先輩。
村では一度も使わなかった言葉だ。
それでも、ここではそう呼ぶしかない。
レオスは口を閉じた。
「そっか。そうだよな」
そこで話は切れた。
席に着くと、マリベルが小さく笑う。
「今、先輩って言った」
「学園では先輩だから」
「豪商の娘は、言い方を聞くんだよ」
「それ、便利に使ってない?」
「使えるものは使うよ」
⸻
教師が教室へ入ってきた。
ざわつきが収まる。
「今日は基礎授業の説明と、実技の仮希望を取ります」
黒板に予定が書かれていく。
体力。
武器。
魔法制御。
救護。
補習確認。
教師は壁際の棚を開けた。
木剣。
長槍と短槍。
大盾と小盾。
訓練用の弓。
刃を潰した斧。
木の短剣。
奥には、鎖鎌まで掛かっている。
試験で触れたものより、ずっと多い。
「剣や槍は前に出る武器です。盾は受けるためだけでなく、相手を止めるためにも使います。弓や投擲は距離を使えますが、狙いと姿勢が崩れれば外れます」
教師は棚の前を歩く。
「斧や槌は力が要ります。棍は間合いと崩しを学びやすい。鎖鎌は扱いが難しいので、希望してもすぐには持たせません」
何人かが奥の鎖鎌を見た。
教師は棚の下から、丸い木球を一つ持ち上げる。
「珍しいものを選べば強くなる、という話ではありません。自分の体と役割に合うものを探してください。今日は仮希望です」
木球が机に置かれた。
俺の目が止まる。
大きすぎない。
軽すぎもしない。
握れば、指の中に収まりそうだった。
レオスが後ろから覗き込む。
「投げるのを選ぶのか?」
「候補」
「珍しいな。剣か魔法が多いと思った」
「魔法だけだと、使いたくない時に困る」
「使いたくない時?」
「人が近い時」
レオスは少し黙ってから、頷いた。
「なるほど」
マリベルが隣で笑う。
「ヨウカさんっぽい」
「どういう意味」
「困った時を先に考えてる」
返事に困った。
リーナが木球を見る。
「投げるの、得意なんですか」
「村で似たようなことはやった」
正確には、村ではない。
もっと前だ。
教師が札を配る。
仮希望を書くためのものだった。
ひとつに絞らなくていいらしい。
俺は筆を持った。
廊下では、たぶん今も噂が歩いている。
止められない。
訂正しても、形が変わるだけだ。
なら、俺は俺で手を動かす。
仮希望の札に、投擲と短剣を書いた。




