なんか試験前から見られているらしい
朝の王都は、こちらが起きる前から動いていた。
窓の外で荷車が鳴る。
遠くで鐘が鳴る。
誰かの声が通りを流れて、馬の蹄の音に混ざった。
フィル村の朝は、鳥の声や薪の音から始まる。
王都の朝は、もう動いている中へ入っていく感じだった。
「眠れた?」
母さんに聞かれた。
「半分くらい」
「半分」
「音が多かった」
母さんは少し笑った。
父さんは窓の外を確かめている。
「今日は受付のあと、筆記だ」
「今日から?」
「案内に書いてあっただろう」
「読んだ。王都に着いたら、少し変な感じになった」
「それはある」
父さんは短く頷いた。
母さんが俺の襟を直してくれる。
いつもよりきちんとした服。
豪華ではない。
けれど、普段着でもない。
「苦しくない?」
「大丈夫」
「歩きにくくない?」
「うん」
母さんの指が胸元の布を整える。
「ここは?」
少しだけ間が空いた。
「……大丈夫」
母さんはそれ以上聞かなかった。
昨日、自分の状態を見たせいで、体の変化が意識に残っている。
今日は受付。
書類。
試験。
そこだけ考える。
「行こう」
父さんが言った。
俺は頷いた。
アレクシア学園の門の前は、昨日より混んでいた。
馬車が何台も止まり、付き添いの大人たちが書類を抱えている。
案内係の声に合わせて、同じ年頃の顔が列を作っていた。
昨日は大きいと思った門が、今日は人を分ける口に見える。
その流れの中に、俺たちも並んだ。
前にいる少年は、上等な服を着ていた。
隣の従者が書類を持ち、本人は手ぶらだ。
後ろでは、付き添いの母親が袋の中を何度も確かめている。
そのさらに後ろから、声が落ちた。
「平民も多いのね」
大きな声ではない。
聞こえる距離だった。
俺は振り返らなかった。
父さんも反応しない。
母さんも表情を変えない。
声の位置だけ、耳に残る。
「ヨウカ」
父さんが低く言った。
「はい」
「今は前を見ろ」
「……はい」
聞こえた言葉全部に反応していたら、列が進まない。
父さんはそういうところを外さない。
受付の順番が来た。
係の女性が顔を上げる。
「お名前をお願いします」
「ヨウカです」
「十歳。フィル村からですね」
「はい」
係の女性は手元の紙をめくった。
「付き添いは、アンナ様とヨシュア様」
様。
その響きで、女性の目が一瞬だけ変わった。
母さんはにこりと微笑んでいる。
父さんは黙ったままだ。
「推薦は、フィル村村長。ルーベル薬師工房のミラ様から補足書類あり」
ミラが何を書いたのか、俺は全部は知らない。
知らない方がいいと言われた。
試験で自分をよく見せようとしすぎるから、と。
係の女性は書類を重ねた。
「フィル村からの受験は珍しいですね」
「そうなんですか」
「ええ。ルーベル経由の推薦も多くはありません」
その言葉で、周囲の空気が動いた。
横の列の会話が一度止まる。
従者の後ろに立っていた少年の目が、こちらの番号札へ落ちた。
母親に手を引かれていた女の子も、ほんの一瞬だけ足を止める。
俺はただ受付に立っているだけのつもりだった。
ここでは、それだけで十分に目立つらしい。
昨日ミラに言われた言葉が、少し遅れて効いてきた。
見られると思うよ。
いろんな意味で。
「こちらを持って、第二棟の控室へ進んでください。筆記試験は午後一刻からです」
係の女性が、薄い金属の札を渡した。
番号が刻まれている。
「ありがとうございます」
「なくさないように」
「はい」
隣の受付で、別の係が声をかけた。
「フォルデラ家の方はこちらへ」
近くの空気がまた変わった。
今度は、俺に向いたものではない。
金色の髪の少年が、付き添いの大人に軽く頷いてから前へ出た。
服は上等だ。
姿勢も整っている。
けれど、偉そうな感じはしない。
係に礼をして、書類を差し出す動きも自然だった。
フォルデラ。
その名前は、俺でも聞いたことがあった。
少年は受付を終えると、こちらとは別の列へ進んでいった。
俺は札を握り直した。
名前だけで空気が動く人は、ここにもいる。
「行くぞ」
父さんが言った。
「うん」
第二棟へ向かった。
控室は広かった。
長机が並び、番号ごとに席が分けられている。
広いのに、息が詰まる。
付き添いは別室で待つらしい。
ここから先は、俺一人だ。
母さんが膝を折り、目線を合わせる。
「水は?」
「持った」
「困ったら?」
「係の人に言う」
「無理は?」
「しない」
「本当に?」
「……しない」
母さんは頷いた。
父さんは短く言う。
「問題文を勝手に足すな」
「はい」
「取れるところを落とすな」
「はい」
「迷ったら後に回せ」
「はい」
受験の助言としては、昔どこかで聞いた気がする。
試験なんて、本当に久しぶりだ。
俺は息を吐いた。
ここはアレクシア学園。
母さんの手が俺の頭に軽く乗った。
「行ってらっしゃい」
「行ってくる」
控室に入る。
外の音が一つ、遠くなった。
手のひらに汗がある。
深く息を吸い、吐く。
紙の匂い。
番号札。
静かな緊張。
他人の筆記具の音を待つ空気。
どこか懐かしいのに、ここは前と違う場所だった。
ここで試されるのは、受験勉強だけではない。
この世界で十年生きてきた分も、机の上に出る。
俺は席についた。
番号札を机の右上に置く。
周りを追いすぎないように、手元へ意識を戻す。
それでも、隣の席で指を揉む音は聞こえる。
斜め前では、妙に落ち着いた顔の少年が背筋を伸ばしていた。
後ろの机から、小さなため息が落ちる。
こちらに来て、すぐ外れる気配もある。
理由を考え始めるときりがない。
今必要なのは、試験を受けることだ。
少しして、隣の列から明るい声がした。
「ここ、空いてる?」
顔を上げると、受付で見た金髪の少年が立っていた。
フォルデラ家と呼ばれていた子だ。
「あ、番号順か。ごめん」
彼は自分で札を見て、苦笑した。
「緊張して、席まで間違えた」
思ったより普通の言い方だった。
「私も、少し緊張してる」
俺が言うと、少年は笑った。
「僕も。さっきから喉が渇いてる」
すぐに係の声が飛ぶ。
「番号札を確認して着席してください」
「はい」
少年は軽く手を上げ、自分の席へ戻っていった。
名前はまだ聞いていない。
ただ、フォルデラ家の子が、普通に緊張すると分かった。
それだけで、少しだけ肩の力が抜けた。
試験係の男性が入ってきた。
空気が硬くなる。
「これより、アレクシア学園入学試験の筆記を始める」
声がよく通る。
「不正があった場合、その場で退室とする。問題用紙は裏返しのまま。合図があるまで触れないこと」
用紙が配られた。
紙の端が机に触れる音だけで、喉が乾く。
「始め」
紙をめくる音が一斉に鳴った。
俺もめくる。
最初は読み書きだった。
文章を読んで、意味を答える。
これはいける。
次に計算。
計算そのものは難しくない。
十歳の試験としては、手が動く。
問題は、単位だった。
布の長さ。
穀物の重さ。
硬貨の換算。
村で使う言い方と、問題文の言い方が少し違う。
俺は問題文を指で追った。
計算を間違えるより、読み落とす方が怖い。
一般教養は幅が広かった。
王都と街道、周辺国との関係、作物と税、旅先での水や火の扱い。
体調を崩した人を見つけた時の初期対応まである。
治療院で聞いてきた話と重なる部分は、手が動いた。
清潔にする。
無理に動かさない。
分からないものを口にしない。
困った時に、勝手に判断しない。
そのあたりは、村とルーベルで覚えたことだ。
後半で手が止まる。
王国史。
アレクセイ王国と周辺国の関係。
名前は知っている。
聞いたこともある。
ただ、細かい年号と順番が混ざる。
フィル村の生活には、あまり出てこなかった。
ルーベルで聞いた話と、カリンの手紙の断片をつなげる。
ここは弱い。
俺は息を吐いた。
分かるところから埋める。
飛ばす。
戻る。
選択肢を消す。
関係図を頭の中に置く。
同盟。
交易。
大国との均衡。
その辺りまでは分かる。
細部は怪しい。
怪しいところに印をつけ、先へ進んだ。
次は貴族礼法。
ここでまた手が止まった。
招待状への返礼。
目上の相手への挨拶。
公式な場での席順。
王族が同席する場合の退出順。
知っているものもある。
母さんに聞いた。
父さんにも言われた。
ミラにも、王都では気をつけな、と言われた。
問題として出ると、急に遠くなる。
人を助けるのに退出順が必要か。
必要なのだろう。
王都では。
学園では。
貴族や王族がいる場所では。
俺は唇を噛みそうになって、やめた。
今ここで問題に文句を言っても点は増えない。
知っている範囲で答えを書く。
正確かは分からない。
それでも、空欄で出すよりはいい。
終了の合図が鳴った時、指が固くなっていた。
用紙が集められる。
前の席の少年が小さく呟いた。
「簡単だったな」
その横の少年が笑う。
「礼法は家でやるものだし」
家でやるもの。
俺は水を飲んだ。
少し腹が立った。
すぐに、別の感情が来る。
納得に近い。
学園は同じ問題を出している。
同じ紙。
同じ時間。
けれど、同じ準備をしてきたわけではない。
俺は水筒を机に戻した。
面倒だ。
少し面白くもある。
「次は魔法実技の確認を行う」
係の声がした。
控室の空気が変わった。
筆記で余裕そうだった顔のいくつかが、急に硬くなる。
逆に、青い顔だった受験生が背筋を伸ばした。
得意な場所が変わる。
俺は手を開いて、すぐ閉じた。
魔力は出せる。
出せる、はずだ。
ただ、昨日見えた表示が頭の隅に残っている。
知らない加護の欄。
少しだけ開いた、神の文字。
考えすぎると、指先が冷える。
係が扉を開けた。
「番号順に移動しなさい」
列が動く。
俺も立った。
廊下の向こうから、いくつもの魔力が流れてくる。
熱いものもある。
重いものもある。
肌を撫でるようなものもある。
その奥で、ふっと軽い気配が揺れた。
精霊だ。
思わず、意識がそちらへ伸びかける。
俺は息を細く吐いた。
今は、違う。
列が進む。
試験前から見られているらしい。
次は、この手の番だった。




