なんか先に行く背中は小さくないらしい
「受けたい」と言った日から、カリンの机には紙が増えた。
試験の案内文の横に、読めない字を書き写した紙が置かれる。
村長の家から借りた地図には、フィル村から王都までの道が赤くなぞられていた。
その隣に旅費の見積もりがある日は、カリンの眉間にしわが寄る。
盾の紐や予備の金具が並ぶ日は、少しだけ背筋が伸びる。
小さな針と糸を前にした日は、しばらく黙っていた。
荷物が増えるたびに、カリンの顔も変わった。
「ここ、違う」
村長の家で、カリンは紙を睨んでいた。
俺は隣に座っている。
村長は向かいで、ゆっくり茶を飲んでいた。
「どこが?」
「宿代、二日分?」
「行きだけならな」
カリンは指で数字を追う。
「帰りもいる」
「そうだ」
「じゃあ倍」
「惜しい。帰りは別の宿場に泊まる。値段が少し違う」
カリンの指が止まった。
俺の指も動きかけて、膝の上で止まる。
ここは、俺の紙ではない。
カリンはもう一度、宿代のところから数え直した。
「面倒」
「面倒なものほど、間違うと困る」
村長は笑わなかった。
カリンは口を結び、紙に顔を近づける。
ゆっくり足して、引いて、また戻る。
「……これ?」
「合っている」
村長が頷く。
カリンは息を吐いた。
「嫌い」
「分かる」
カリンが少しだけ笑う。
「ヨウカも?」
「お金の計算は嫌い」
「うん」
カリンはまた紙に向き直った。
「でも、やる」
その声は、昨日より少しだけ前に出ていた。
次の日は、レナードさんの作業場だった。
カリンは盾を膝に置き、革紐を通そうとしている。
レナードさんは腕を組んだまま、手を出さない。
「反対」
「こっち?」
「違う」
「こっち?」
「それだ」
カリンは紐を通し直す。
指先に力が入りすぎて、革がきしんだ。
「引っ張りすぎるな。切れる」
「緩いと外れる」
「だから、ちょうどにする」
「ちょうど、嫌い」
「俺も嫌いだ」
レナードさんは普通に言った。
カリンの手が止まる。
「嫌いなの?」
「毎回違うからな。革も湿る。木も動く。使うやつの腕も変わる」
レナードさんは盾を軽く叩いた。
「嫌いでも見るしかない」
カリンは紐を指でなぞった。
「見る」
「そうだ」
俺は自分の肩紐を握った。
昨日から、そこが気になっている。
レナードさんに見られて、少しだけ直された。
「お前のも替えとけ」
「まだ切れてません」
「切れてからだと遅い」
昨日も聞いた。
今日は素直に肩紐を受け取る。
「はい。ありがとうございます、レナードさん」
「礼は切れずに使ってから言え」
「はい」
カリンが横から言う。
「ヨウカ、荷物多くなりそう」
「まだ分からない」
「多い」
「言い切るんだ」
「うん」
たぶん当たっている。
否定しきれなかった。
出発の日が近づくと、家の中も落ち着かなくなった。
ヨシュアは床に荷を並べていた。
雨具、干し肉、水袋、予備の布、小さな薬包、短い縄。
一つずつ手に取り、袋の中へ入れていく。
「父さんが行くの?」
「ああ。行きは俺とレナードで付き添う。帰りは試験の結果と馬車の都合次第だ」
「母さんは?」
「アンナは残る」
奥では、アンナがルカの服を畳んでいた。
「ルカがいるからね。村のこともあるし」
「うん」
分かっている。
ヨシュアが数日いないだけでも、家の空気は変わる。
アンナは俺の顔を見る。
「不安?」
「少し」
「そう」
アンナはまた服を畳む。
すぐ慰めない。
聞かなかったことにもされない。
その距離が、今はありがたかった。
ヨシュアは荷を結びながら言った。
「ヨウカ」
「なに?」
「留守の間、全部やろうとするな」
「……うん」
「アンナの言うことを聞け」
「聞く」
「カリンのことを考えすぎるな」
返事が止まった。
ヨシュアは縄を結んだまま、俺の返事を待っている。
「考えすぎないようにする」
「それでいい」
完全に考えない、とは言えなかった。
出発前日の夕方、カリンが来た。
背中には小さな荷。
腰には木剣。
盾は布で包まれて、背中側に括られている。
いつものカリンなのに、遠くへ行く形をしていた。
「重い?」
「重い」
「下ろす?」
「まだ」
カリンは庭を一周した。
肩が少し上がっている。
荷物に引っ張られて、歩幅も小さい。
途中で気づいたのか、紐を引き直した。
「まし?」
「少し」
「ならよかった」
カリンは庭の端で止まる。
「明日、行く」
「うん」
「まだ試験だけ」
「うん」
「受かるか分からない」
「うん」
「でも、行く」
俺は頷いた。
「行ってきて」
カリンの目が少し揺れた。
「行ってくる」
短い。
それだけで、本当に行くのだと思った。
次の朝は早かった。
空はまだ薄い。
村の入口には、カリンとレナードさんがいた。
ヨシュアは馬車のそばで御者と話している。
セリアさんはカリンの襟元を直していた。
「手紙は読める字で」
「うん」
「怪我したら言うのよ」
「うん」
「無理は?」
「しない」
セリアさんはもう一度、カリンの髪を撫でた。
カリンは嫌がらなかった。
俺は少し離れて立っていた。
近づきたい。
近づくと、余計なことを言いそうだった。
アンナが俺の背中に手を置く。
「行っておいでって、言える?」
「言う」
「うん」
俺はカリンの前に立った。
カリンの荷は、昨日より背中に収まっている。
盾の布もきちんと結ばれていた。
「カリン」
「うん」
「行っておいで」
声は少し揺れた。
出た。
カリンは真っ直ぐ俺を見る。
「行ってくる」
それから、小さく付け足した。
「帰ってくる」
俺は息を吸った。
「うん」
カリンは手を伸ばしかけて、迷った。
俺も迷った。
結局、カリンは俺の袖を軽くつまむ。
いつもの場所。
すぐ離れた。
「ちゃんと止まる」
「うん」
「ヨウカも」
「うん」
それだけでよかった。
ヨシュアが声をかける。
「行くぞ」
カリンは一度、村の方を向いた。
セリアさん。
レナードさん。
アンナ。
俺。
それから、馬車の方へ歩き出す。
小さい背中だと思っていた。
荷物を背負い、盾を括り、前を向いて歩く背中は、思っていたほど小さくなかった。
馬車が動き出す。
車輪が土を噛む。
カリンは振り返った。
大きく手を振るわけではない。
片手を少しだけ上げた。
俺も上げた。
馬車は道を曲がる。
盾を背負った背中が、木々の間に隠れていく。
見えなくなるまで、俺は立っていた。
アンナも、セリアさんも、レナードさんも、誰も急かさなかった。
道の先から、車輪の音が少しずつ遠くなる。
足は、まだ動かなかった。
先に行く背中は、小さくなかった。




