なんか一緒には始まらないらしい
治療院へ通うようになってから、ルーベルへ行く回数が増えた。
薬草を届け、報告の紙を渡し、カリンの腕を見てもらう。
治療院では布を畳み、水を運んだ。
道は同じなのに、前より短く感じる日があった。
カリンの腕は、二度目の診察で吊り布が外れた。
三度目で、軽く動かす許可が出た。
盾を持つ許可は、さらに後だった。
カリンは不満そうだったが、勝手には持たなかった。
そして、許可が出た日。
カリンは盾を持って、しばらく何も言わなかった。
「軽い?」
ヨシュアが聞く。
「軽い」
「違うな」
カリンは盾を見た。
「……前より、怖い」
ヨシュアは頷いた。
「それでいい」
カリンは口を結び、盾を構えた。
腕はまだ少し硬い。
でも、立ち方は前より慎重だった。
俺は記録板を出しかけて、やめた。
これは俺が先に書くことではない。
季節が一つ過ぎた。
治療院では、名前を呼ばれた人を案内するようになった。
見ても、言わないことがあった。
言う時は、アンナか治療院の人に先に言う。
それだけでも、毎回少し緊張した。
工房では、ヒナギ草の包みを見た。
冒険者組合では、ダナさんに報告の控えを見せられた。
灰牙鼠の報告は、まだ裏の棚に残っているらしい。
俺は見に行かなかった。
見なくても、覚えている。
フィル村では、ルカが歩き始めた。
転ぶ。
泣く。
また立つ。
アンナはすぐには手を出さない。
ヨシュアも出さない。
危ない方へ倒れそうな時だけ、手が伸びる。
俺はそれを見ていた。
その日の夕方、村長の家に呼ばれた。
アンナ。
ヨシュア。
カリン。
セリアさん。
村長。
それから、俺。
ルカは隣家に預けられた。
部屋に入った時点で、何かあるのは分かった。
村長の机の上に、封のされた紙が置かれている。
村の記録用でも、ルーベルの組合の紙でもない。
もっと厚い。
端に、薄く紋が入っている。
ヨシュアが俺を見る。
「座れ」
「はい」
カリンは俺の横に座った。
背筋が伸びている。
村長は紙に手を置いた。
「王都アレクシアからの知らせだ」
王都。
それだけで、部屋の空気が少し変わる。
「アレクシア学園の、来年度試験についてだ」
カリンの肩が動いた。
俺も息を止めた。
アレクシア学園。
王都にある学園。
村より大きく、ルーベルより遠い場所。
村長は続ける。
「今年、カリンは受験資格の年齢になる」
分かっていた。
カリンは俺より二つ年上だ。
けれど、言葉になると違った。
カリンは小さく息を吸った。
「私が?」
「そうだ」
村長は頷く。
「推薦を出すかどうか、本人と家族の意思を確認したい」
推薦。
カリンはヨシュアを見た。
ヨシュアは何も言わない。
アンナも黙っている。
俺は膝の上で手を握った。
記録板は持ってきている。
でも、出さなかった。
カリンが聞く。
「ヨウカは?」
部屋の視線が、こちらに来た。
ヨシュアが言った。
「ヨウカはまだだ」
短かった。
カリンの目が揺れる。
俺は顔を上げた。
「私は、まだ受けられない」
思ったより硬い声になった。
カリンは俺を見たまま、黙った。
村長が言う。
「ヨウカは次の次の年だ。順調に行けば、二年後になる」
二年。
長い。
いや、短いのかもしれない。
分からない。
カリンが手を握った。
「一緒じゃない」
誰もすぐには答えなかった。
俺も答えられなかった。
カリンが先に行く。
俺は残る。
アンナが静かに言う。
「カリンちゃんが受けるかどうかは、カリンちゃんが決めることよ」
カリンはアンナを見た。
「ヨウカがまだなら」
「それは理由にしない方がいい」
声は柔らかい。
でも、止める声だった。
カリンは俯いた。
ヨシュアが言う。
「ヨウカを理由に止まるな」
カリンの手に力が入る。
「置いていく」
俺の胸が痛んだ。
でも、そこは違う。
たぶん、間違えたらいけない。
「置いていく、じゃない」
カリンが顔を上げた。
「私は、まだ行けないだけ」
喉が詰まる。
それでも続ける。
「先に行けるなら、行ってほしい」
カリンは何も言わない。
俺も一度止まった。
止めたい気持ちはある。
寂しい。
本当に寂しい。
でも、それを理由にしたら駄目だ。
「強くなってきて」
カリンの目が赤くなった。
俺もたぶん、顔に出ている。
村長は紙を畳んだ。
「すぐ決めなくていい。試験までは時間がある」
セリアさんが、カリンの肩に手を置いた。
「受けるなら準備がいる。受けないなら、それも話し合う」
カリンは小さく頷いた。
会議はその後も続いた。
王都までの道、付き添い、試験の日程、推薦状、費用、寮での生活。
話は一つ終わるたびに、また別の紙へ移った。
会議が終わる頃には、外が暗くなっていた。
村長の家を出ても、カリンはすぐ歩かなかった。
俺も横に立つ。
アンナとヨシュアは少し離れて待っている。
「ヨウカ」
「うん」
「行ってほしいって、本当?」
すぐには答えられなかった。
本当だ。
でも、平気ではない。
「本当」
声は出た。
「でも、寂しい」
カリンは目を伏せた。
「私も」
その声は小さかった。
記録板を出しかけて、やめる。
ここで書くことではない。
「カリンが先に行ったら」
「うん」
「私は、ここで準備する」
「何を?」
「治療院と、工房と、組合。あと、魔法と文字と……体も」
言いながら、自分でも多いと思った。
カリンが少し笑った。
「多い」
「多い」
「無理しそう」
「するかな」
「する」
即答だった。
俺は何も言えなかった。
カリンは俺の袖を軽くつまむ。
怪我をした時と同じ、強くないつまみ方。
「倒れる前に止まる」
「うん」
「疲れたら言う」
「うん」
「全部一人でやらない」
少し遅れて、頷く。
「うん」
カリンは俺の袖を離した。
「なら、考える」
「受験を?」
「うん。まだ決めない」
「うん」
カリンは家の方へ歩き出した。
俺はアンナたちの方へ戻る。
アンナは何も聞かなかった。
ヨシュアも聞かなかった。
家に帰ると、ルカはもう寝ていた。
小さな手が布団から出ている。
カリンは先に行くかもしれない。
俺は残る。
ルカは歩き始めたばかりだ。
俺は記録板を出した。
アレクシア学園。
カリン、受験資格。
私はまだ。
そこまで書いて、止まる。
寂しい、と書きかけてやめた。
行ってほしい、も違う。
待つ、はもっと違う。
俺は記録板を裏返した。
一緒には始まらない。
記録板を机に置いても、その文字だけは残った。




