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なんか捨て子の女の子に転生したらしい  作者: ダレイワス1世
第四章 フィル村歳月編
45/92

なんか家族が増えるかもしれないらしい

朝、母さんが水桶を持たなかった。


それだけなら、変ではない。


父さんが近くにいる時は、重いものを代わりに持つことがある。

薬草棚の整理中なら、手を空けておくこともある。


けれど、その日は違った。


母さんは桶に手を伸ばして、途中で止めた。


父さんが横から来て、何も言わずに持ち上げる。


「井戸まで?」


「ああ」


「薬草用はこっちね」


「分かってる」


父さんは返事をした。


母さんは笑ったが、いつもより薄かった。


俺は椅子の上でパンを持ったまま、二人を見ていた。


顔色が悪いわけではない。

熱もなさそうだ。

声も普通。


でも、動きが一拍遅い。


台所の匂いにも、眉が寄っている。


焼いた魚。

温めたスープ。

刻んだ薬草。


普段なら何でもなさそうな匂いに、母さんの目が細くなった。


「母さん」


「なあに?」


「魚、いや?」


母さんの手が止まる。


父さんもこちらを見た。


「嫌じゃないわ」


そう言って、母さんは皿を遠ざけた。


嫌じゃない。


でも、近くには置かない。


父さんが何か言いかけて、やめた。


家の中が、変に静かになる。


俺はパンをかじった。


聞いていいことと、今は聞かない方がいいことがある。


この家に来てから、それを何度も覚えた。


前の俺なら、たぶん聞かなかった。

聞いたところで、答えが返ってくるとは思わなかったからだ。


でも今は違う。


聞けば、誰かが答えてくれる。

だからこそ、聞き方を間違えると相手を困らせる。


面倒だ。


けれど、悪くはない。


朝食の後、母さんは薬草棚の前に座った。


いつもなら、手が迷わない。


木札を取り、袋を移し、瓶を並べる。

必要なものを出し、使わないものを奥へ戻す。


今日は、途中で何度も止まる。


棚の前に、小さな布が敷かれていた。

その上に、香りの強い薬草が置かれている。


母さんはそれを見て、眉を寄せた。


「これは、今日は奥」


「使わない?」


「使えるけれど、今は匂いが強いの」


匂い。


俺は薬草を見る。


乾いた葉。

苦い匂い。

いつもなら母さんが嫌がるものではない。


「体、悪い?」


聞いた瞬間、父さんの足音が止まった。


母さんは俺を見る。


怒ってはいない。


「悪い、とは少し違うわね」


違う。


病気ではない、ということか。


父さんが水桶を置き、こちらへ来た。


「ヨウカ」


「はい」


「母さんは、今日は重いものを持たない。匂いの強いものも近づけない」


「うん」


「だから、お前も急に薬草を持っていくな」


「はい」


「あと、心配しすぎるな」


それは難しい。


父さんも、それが分かっている顔だった。


母さんが笑う。


「心配してくれるのは嬉しいわよ」


「でも、しすぎはだめ?」


「ええ。しすぎると、私が休みにくいもの」


休みにくい。


それは分かる。


見られすぎると休めない。

聞かれすぎると答えなければならない。


俺は椅子に座り直した。


「じゃあ、何する?」


「今日は木札を並べてくれる?」


母さんは小さな箱を出した。


父さんが誕生日にくれた、記録用の木札入れだ。


「薬草棚?」


「ええ。家の中の記録から」


家の中。


森ではない。

黒い根でもない。

薬草棚と台所。


木札を一枚取る。


香り強い薬草、今日は奥。


書いて、母さんを見る。


母さんは頷いた。


「いいわね」


「理由は?」


「今日は、でいいわ」


今日は。


それ以上は書かない。


香り強い薬草、今日は奥。


短い記録になった。


昼前、カリンが来た。


庭に入ってすぐ、母さんの方を見る。


母さんは椅子に座っていた。

膝に布を置き、薬草袋の紐を結んでいる。


立って作業していない。


カリンの目が動いた。


「アンナさん、休み?」


「今日は座って作業してるの」


母さんが答える。


カリンは頷き、俺の隣に来た。


小さな声で聞く。


「具合悪い?」


「悪いとは違うって」


「違う?」


「たぶん」


二人で母さんを見る。


母さんは気づいているはずなのに、何も言わない。


父さんが井戸から戻ってきた。

手には水桶が二つ。


いつもなら一つは母さんが持つ。

今日は父さんだけだ。


カリンは水桶を見る。


それから、父さんを見る。


「重いの、アンナさん持たない?」


「ああ」


「いつまで?」


父さんは答えに詰まった。


カリンは首を傾げる。


「分からない?」


「……分からないわけじゃない」


父さんが珍しく困った顔をした。


母さんが息を吐く。


「ヨシュア。隠すの、下手よ」


「隠してはいない」


「下手よ」


「……そうか」


父さんは水桶を置いた。


母さんは俺とカリンを手招きする。


「こっちに来て」


薬草棚の前に座る。


母さんは腹に手を置いた。


大げさな仕草ではない。

でも、父さんの目がそこへ落ちる。


「まだ、はっきりとは言い切れないの」


母さんの声は穏やかだった。


「でも、家族が増えるかもしれないわ」


言葉が、部屋の中に落ちた。


家族。


増える。


俺は母さんの腹を見る。


そこに何かが見えるわけではない。

何も光らない。

名前も浮かばない。


ただ、母さんの手がそこにある。


「赤ちゃん?」


母さんは頷いた。


「たぶんね」


たぶん。


だから、かもしれない。


カリンは瞬きをした。


「アンナさんの?」


「ええ」


「ヨシュアさんの?」


父さんが咳をした。


「……そうだ」


母さんが笑う。


カリンは真面目な顔のまま続けた。


「ヨウカの?」


俺は固まった。


母さんが俺を見る。


「家族としては、ヨウカの弟か妹になるわね」


弟か妹。


口の中で言葉が転がった。


弟。

妹。


どちらも遠い言葉だった。


前の家にはいなかった。


いや、前の家のことをここで考えても仕方ない。


今はフィル村の家だ。


母さんと父さんの家。


俺の家。


そこに、もう一人。


単純に嬉しい、とは出てこなかった。


赤ん坊が増える。

家の中の手が取られる。

母さんの時間が分かれる。

父さんの動きも変わる。

俺の役割も変わる。


頭は勝手に、そういう並べ方をする。


でも、口から出たのは別の言葉だった。


「増えると、母さん減る?」


言ってから、自分でも変な聞き方だと思った。


母さんは笑わなかった。


父さんも笑わなかった。


カリンも黙っている。


母さんは、俺の手を取った。


「減らないわ」


「ほんと?」


「ええ。母さんは母さんのままよ」


父さんが横から言う。


「父さんも父さんのままだ」


「うん」


「ただ、しばらく家の動きは変わる」


父さんは水桶を見る。


「重いものは俺が持つ。匂いの強いものは棚の奥へ。母さんが休む時間も増える」


母さんが頷く。


「ヨウカも、手伝いたいなら、私に聞いてから」


「勝手にしない」


「そう」


「見すぎない」


「そうね」


「心配しすぎない」


母さんは笑った。


「それが一番難しそうね」


難しい。


たぶん一番難しい。


母さんが減らないとしても、時間は分かれる。

手も、目も、今までと同じではなくなる。


それでも、減らないと言われると安心する。


四歳の体は、そういう言葉に弱い。


俺は母さんの手を握り返しかけて、やめた。


代わりに、膝の上で指を丸めた。


カリンが手を上げた。


「私は?」


母さんが目を丸くする。


「カリンちゃん?」


「手伝う?」


父さんが答える。


「ヨウカが走り出しそうになったら止めてくれ」


「止める」


即答だった。


俺はカリンを見る。


「私、走らない」


「走る顔する」


「どんな顔?」


カリンは答えなかった。


母さんが声を出して笑った。


いつもの笑い方だった。


その声で、家の空気が戻った。


昼過ぎ、セリアさんが来た。


母さんと奥の部屋で話すらしい。


俺は台所の椅子に座り、木札を並べていた。


香り強い薬草、今日は奥。

水桶、父さん。

母さん、休む。


三枚目を書いて、首をかしげる。


これは記録なのか。


ただの注意書きかもしれない。


カリンが横から覗く。


「母さん、休む」


「うん」


「いいと思う」


「木札に書くこと?」


「忘れない」


確かに。


忘れないために書く。


森の記録も、薬草棚の記録も、同じだった。


セリアさんが奥から出てきた。


父さんがすぐに立つ。


「どうだった」


「まずは無理をさせないことね」


セリアさんは父さんを見て言った。


「アンナも、ヨシュアも」


「俺もか」


「あなたが張り切りすぎると、アンナが落ち着かないでしょう」


父さんは黙った。


母さんが奥から出てくる。


顔色は悪くない。

でも、疲れている。


セリアさんは俺の前にしゃがんだ。


「ヨウカちゃん」


「はい」


「アンナが座っていたら、無理に起こさない。寝ていたら、急ぎでないことは後にする。心配なら、ヨシュアか私を呼ぶ」


「はい」


「自分で治そうとしない」


その言葉は、まっすぐ来た。


「はい」


「いい返事」


セリアさんは笑った。


でも、目は真剣だった。


俺は木札を一枚取る。


自分で治そうとしない。


書きかけて、止まる。


それは母さんが見ると心配するかもしれない。


代わりに、こう書いた。


困ったら、大人を呼ぶ。


セリアさんはそれを見て、頷いた。


「それがいいわね」


夕方、父さんが台所に立った。


手つきは悪くない。

でも、母さんより音が大きい。


鍋を置く音。

皿を出す音。

木べらが鍋に当たる音。


母さんは椅子に座ったまま、時々口を出す。


「火、強い」


「これくらいか」


「弱く」


「分かった」


「塩、先に入れすぎない」


「分かった」


「その葉は最後」


「……分かった」


父さんは三回目の「分かった」で、こちらを見た。


俺は目を逸らした。


笑ってはいけない。


カリンは口元を押さえていた。


夕食は、いつもより薄味だった。


でも、温かかった。


母さんは全部食べられなかった。


父さんは何も言わず、皿を下げる。


母さんも何も言わない。


その沈黙は嫌ではなかった。


夜、布団に入る前、木札を箱にしまった。


香り強い薬草、今日は奥。

水桶、父さん。

母さん、休む。

困ったら、大人を呼ぶ。


変な木札ばかりだ。


でも、家の中の記録だ。


森の記録とは違う。

黒い根とも違う。


怖くない。


ただ、失敗したくない。


窓の外を見ると、井戸のそばの芽が風に揺れていた。


春芽、井戸横。


あの木札を思い出す。


増えるものがある。


増えたからといって、今あるものが消えるわけではない。


そう言われた。


言われたのに、すぐには信じきれない。


二十二年分の記憶は、そんなに簡単に安心するなと言ってくる。


でも、四歳の体は、母さんの「減らないわ」をまだ覚えていた。


母さんは母さん。

父さんは父さん。

カリンは今日も横にいた。


そして、家族が増えるかもしれない。


布人形を抱き直す。


胸の奥が落ち着かない。


でも、嫌ではない。


どうやら、家族が増えるかもしれないらしい。

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