なんか小さい声が増えたらしい
家の中に、赤ちゃんの場所ができていった。
台所横の棚。
アンナの寝台のそば。
布を置く箱。
湯を冷ますための瓶。
空いていた場所に、物が入る。
柔らかい布。
小さな布。
洗った紐。
蓋つきの小箱。
俺の木札箱は、同じ段にあった。
ヨウカの箱、そのまま。
あの木札は、もう見なくても分かる。
それでも、外さなかった。
ヨシュアは何も言わない。
アンナも気づいていないふりをしてくれる。
季節が動く間、アンナの動きも変わった。
立つ時間が短くなる。
座る時間が増える。
歩く時、ヨシュアが横に立つ。
匂いの強い薬草は、俺かヨシュアが先に避ける。
木札も家の中のものばかりになった。
香り強い薬草、奥。
水桶、ヨシュア。
アンナ、昼に休む。
困ったら、大人を呼ぶ。
森の記録より怖くない。
けれど、間違えたくない。
前世の知識は、こういう時に余計なものを並べる。
出産。
出血。
体力。
呼吸。
単語だけが頭に浮かぶ。
俺にできることは、ほとんどない。
それが嫌だった。
セリアさんが来る日が増えた。
アンナの顔色を見る。
腹に手を当てる。
食べられるものを聞く。
ヨシュアに注意する。
「ヨシュア、先に動きすぎない」
「俺は何もしていない」
「何かしようとしている顔をしているわ」
「顔か」
「顔ね」
ヨシュアは黙った。
顔に出る家系なのかもしれない。
俺もよく言われる。
カリンは、アンナが立つ前に椅子を引くようになった。
早すぎる時もある。
アンナが立つつもりではない時にも、椅子を引く。
「カリンちゃん、今は座っているだけよ」
「うん」
「椅子、戻してくれる?」
「うん」
カリンは真面目な顔で椅子を戻す。
次の日も、また早い。
ただ、アンナは怒らなかった。
「ありがとう」と言う。
カリンは頷く。
俺は木札に書きかけた。
カリン、椅子、早い。
書いてから、消した。
これは残すと怒られる気がする。
代わりに、
カリン、椅子。
とだけ書いた。
ヨシュアがそれを見て、口元を動かす。
「それで伝わるのか」
「たぶん」
「カリンには伝わりそうだな」
そうかもしれない。
⸻
ある朝、アンナがいつもより早く目を覚ました。
顔色は悪くない。
でも、目が違った。
セリアさんが呼ばれた。
村長の奥さんも来た。
ヨシュアは家の中を一度歩き回り、アンナに見られて止まった。
「外」
アンナが言った。
「しかし」
「外」
ヨシュアは口を開き、閉じた。
それから俺を見る。
「ヨウカ、カリンと一緒にいるんだぞ」
「はい」
「家の奥には入るな」
「はい」
「何かあったらセリアを呼べ」
「セリアさん、奥にいる」
「……そうだった」
ヨシュアは玄関の前で止まり、外へ出た。
すぐ戻ってきそうな顔だった。
カリンは俺の隣にいた。
何も持っていない。
でも、立つ場所が近い。
「母さん、赤ちゃん?」
「たぶん」
「今日?」
「たぶん」
たぶん、ばかりだ。
それでも、その言葉で家の空気は変わった。
奥の部屋から、セリアさんの声が聞こえる。
アンナの返事も聞こえる。
はっきりした声ではない。
でも、そこにいる。
俺は台所の椅子に座った。
手元には木札箱。
湯、準備。
布、棚。
ヨシュア、外。
ヨウカ、奥へ行かない。
書いてから、嫌になる。
何をしているのか。
木札を書いても、アンナの痛みは減らない。
赤ん坊が無事に生まれる保証にもならない。
ただ、手を動かしていないと、頭の中が余計な知識で埋まる。
前世の俺は、出産に立ち会ったことなどない。
知識だけ。
言葉だけ。
危険だけ。
役に立つようで、役に立たないものばかりだ。
「ヨウカ」
カリンが言った。
「なに?」
「手」
言われて気づく。
木札を握りしめていた。
角が指に食い込んでいる。
カリンが俺の手から木札を取った。
「痛い」
「うん」
「離す」
「うん」
離した。
指に跡が残っている。
カリンはその指を見てから、木札を箱に戻した。
「書かない?」
「今は」
「うん」
カリンは俺の隣に座る。
肩が触れそうな距離だ。
二十二歳の俺なら、避けたかもしれない。
でも、今日は避けなかった。
奥の部屋から、アンナの声が聞こえた。
体が先に動く。
立ち上がりかけたところで、カリンの手が腕を押さえた。
「奥、行かない」
「……うん」
「セリアさんいる」
「うん」
「アンナさん、いる」
「うん」
いる。
声がする。
それだけで、怖さの形が変わる。
ヨシュアが外から戻ってきた。
玄関を開けかけて、村長の奥さんに追い返される。
「ヨシュアさん、外です」
「水を」
「足りています」
「布を」
「足りています」
「俺は」
「外です」
ヨシュアは外へ戻った。
カリンが小さく言う。
「父さん、止められてる」
「うん」
「ヨウカも、止められてる」
「うん」
「同じ」
同じか。
違う気もする。
でも、同じ場所で止められているのは確かだった。
⸻
昼を過ぎた頃、家の中の音が減った。
鍋の音もない。
木札を動かす音もない。
ヨシュアの足音も、外で止まっている。
奥の部屋だけが、別の場所みたいだった。
俺は布人形を抱いていた。
いつの間にか、カリンが持ってきてくれていたらしい。
「これ」
「ありがとう」
「持つ?」
「持つ」
布人形を抱く。
カリンが昔作ってくれた人形だ。
待つ時、よく手元にある。
それに気づいて、情けなくなる。
二十二歳の男が何をしているのか。
そう思う。
でも、手は離れない。
今の体には、これが必要なのだろう。
そういうことにしておく。
奥から、アンナの声がした。
短い声。
それから、セリアさんの声。
村長の奥さんが何かを言う。
ヨシュアが玄関の外で動く音。
カリンの手が俺の腕に触れる。
今度は押さえるのではなく、ただ触れている。
長い時間だった。
本当に長かったのかは分からない。
木札を書いていないから、時間が形にならない。
ただ、息をする。
布人形を抱く。
奥の声を聞く。
カリンの手を感じる。
それだけだった。
そして。
小さい声が聞こえた。
鳥の声ではない。
風の精霊でもない。
水の音でもない。
細くて、頼りなくて、やけにはっきりした声。
赤ん坊の声だった。
ヨシュアが玄関の外で固まった。
俺も立ち上がった。
カリンも立った。
今度は、止められなかった。
奥の部屋の戸が開く。
セリアさんが顔を出した。
額に汗をかいている。
でも、目は柔らかかった。
「無事よ」
その言葉で、ヨシュアが息を吐いた。
大きな体から力が抜ける。
「アンナは」
「疲れているけど、大丈夫」
「赤ん坊は」
「元気」
ヨシュアは目を閉じた。
アンナの声が、奥から聞こえた。
「ヨウカ」
俺の名前だった。
足が動く。
カリンが横に来る。
セリアさんが道を開けた。
「静かにね」
「はい」
奥の部屋は、いつもと違う匂いがした。
湯。
布。
汗。
薬草。
それから、知らない生き物の匂い。
アンナは寝台に横になっていた。
疲れている。
でも、目は開いている。
腕の中に、小さな布のかたまりがあった。
それが動いた。
赤い顔。
閉じた目。
小さな口。
しわの寄った手。
思っていたより、小さい。
怖いくらい小さい。
「ヨウカ」
アンナが呼ぶ。
「はい」
声が硬くなった。
アンナは笑う。
「そんな顔しないの」
「どんな顔?」
アンナは答えず、赤ん坊を見る。
「名前は、ルカ」
ルカ。
その名前を聞いた瞬間、布の中の口が開いた。
小さい声が、また鳴る。
泣いているのか。
怒っているのか。
息をしているだけなのか。
分からない。
でも、生きている。
それだけは分かった。
「弟? 妹?」
口から出てから、セリアさんを見る。
セリアさんは笑った。
「弟よ」
弟。
その言葉は、腹の奥に落ちた。
俺の弟。
家族が、本当に増えた。
アンナは、そこにいる。
疲れている。
でも、そこにいる。
ヨシュアも戸口で固まっている。
カリンも横にいる。
そして、ルカがアンナの腕の中にいる。
俺はそれを見た。
まだ、どう思えばいいのかは決まらない。
嬉しい。
怖い。
分からない。
触っていいのかも分からない。
でも、嫌ではなかった。
「触る?」
アンナが聞いた。
俺は首を横に振る。
「今は、見る」
アンナは頷いた。
「ええ。見るだけでもいいわ」
見るだけ。
それならできる。
俺は寝台のそばに立ち、ルカを見た。
ルカの手が、布の端から出た。
小さい。
小さすぎる。
指が五本ある。
爪がある。
手首が細い。
医学の知識が、勝手に細部を拾う。
でも、それより先に、体が息を浅くした。
壊れそうだ。
守らなければ。
そう思って、すぐに止める。
俺が勝手に守るものではない。
俺は、見る。
今はそれでいい。
カリンが小さく言った。
「ちいさい」
「うん」
「声、ある」
「うん」
ルカがまた泣いた。
今度はさっきより強い。
ヨシュアがびくっとした。
アンナが笑った。
本当に疲れているのに、笑った。
その笑い方を見て、胸の奥が詰まる。
アンナは減っていない。
減っていないのに、増えた声に向ける顔がある。
それが、少し痛かった。
でも、その顔がなくなってほしいとは思わない。
面倒だ。
俺は本当に面倒なことを考える。
アンナが俺を見る。
「ヨウカ」
「はい」
「お姉ちゃん、ということになるわね」
お姉ちゃん。
頭が止まった。
中身は二十二歳の男である。
しかも、前世では弟も妹もいなかった。
それが今、五歳の女の子として、赤ん坊の姉になる。
情報が多い。
多すぎる。
「……練習する」
そう答えるのが精一杯だった。
アンナは目を丸くして、それから笑った。
「ええ。少しずつね」
少しずつ。
それは助かる。
いきなり姉にはなれない。
五歳の体でも。
二十二歳の記憶でも。
⸻
夜、家の中に小さい声が残っていた。
ルカはよく泣いた。
泣いて、止まって、また泣いた。
ヨシュアはそのたびに動きかける。
アンナは疲れた声で指示を出す。
セリアさんは手際よく布を替える。
俺とカリンは、邪魔にならない場所にいた。
木札箱を開ける。
今日の記録を書く。
ルカ、生まれる。
アンナ、疲れあり。大丈夫。
ヨシュア、外。
小さい声、増えた。
最後の木札を見て、カリンが頷いた。
「増えた」
「うん」
「減った?」
聞かれて、アンナを見る。
寝台の上で、アンナは目を閉じている。
腕の近くにルカがいる。
ヨシュアはそのそばで、どうしていいか分からない顔をしている。
カリンは横にいる。
布人形は、俺の膝にある。
「まだ、分からない」
そう言った。
カリンは頷く。
「うん」
「でも、母さんはいる」
「うん」
「父さんもいる」
「うん」
「カリンもいる」
「いる」
ルカが泣いた。
小さい声。
でも、家の中では一番大きく聞こえた。
俺は木札をもう一枚取る。
ルカ、声大きい。
書いてから、首をかしげる。
小さいのに、大きい。
変な記録だ。
ただ、今の家には合っている。
木札を箱に入れる。
昨日より、また厚くなった。




