なんか全部はわからないまま春が来るらしい
黒い線は、しばらくそのままだった。
森へ向かう道。
小川へ下りる細い坂。
薬草畑の端。
そこには、縄と木札が増えた。
赤は手前。
黄色は大人だけ。
黒は誰も行かない。
最初は、みんな木札を見て歩いていた。
トマも、ノルも、縄の前で止まる。
リリは木札の字を声に出して読む。
小さい子が近づけば、近くの大人が呼び止める。
数日たつと、村の人たちは木札を見なくても止まるようになった。
井戸の水を使う。
森側の水は使わない。
畑道は、縄の手前で曲がる。
薬草畑の端には近づかない。
そういう動きが、村の中に入っていく。
母さんの薬草棚にも、空いた場所ができた。
森側の薬草を入れない場所。
確認待ちの木札を置く場所。
ルーベルへ送る記録をまとめる場所。
棚の前に座ると、前より広く見えた。
物が増えたからではない。
置かないものが増えたからだ。
「これは?」
木札を指すと、母さんが手を止めた。
「五日に一度の確認記録」
「五日?」
「毎日だと、見る人が疲れる。間が空きすぎると、変化を見落とす」
「五日が、ちょうどいい?」
「今はね」
今は。
その言葉は、棚の木札みたいに短かった。
ずっと五日とは限らない。
でも、今日はそれで動く。
村長の家には、記録板が置かれた。
晴れ。
雨。
風。
鳥の声。
虫の声。
小川の色。
縄の位置。
薬草畑の葉。
項目は多い。
でも、一つずつなら読める。
村長が書く日もある。
母さんが書く日もある。
リディアさんが残していった印を使う日もある。
父さんは、音のところだけ妙に細かかった。
鳥、村側あり。
奥、返りなし。
水音、細い。
虫、畑側あり、奥なし。
字はきれいではない。
けれど、読めた。
「父さん、音、いっぱい」
「音は分かる」
父さんは短く答えた。
「薬草は母さん。水と記録は村長。道はダン。音は父さん?」
「そうだな」
「私は?」
「お前は、聞かれたら答えろ」
「聞かれたら?」
「ああ。自分から覗きに行くな」
その言い方は、母さんに似ていた。
近くにいた母さんが笑わなかったので、父さんはたぶん正しいことを言ったのだと思う。
カリンは、縄の位置を覚えた。
縄の前で遊ぶ子がいると、何も言わずに横へ立つ。
それだけで、トマは一歩下がる。
ノルも文句を言いながら戻る。
リリは、縄の近くに花を置こうとして、カリンに止められた。
「向こうに落ちる」
「そっか」
リリは花を持ち直し、井戸のそばへ置いた。
次の日から、そこが小さな花の場所になった。
縄の前ではなく、井戸のそば。
危ない場所ではなく、戻ってくる場所に花が増えていく。
ルーベルからは、三度返事が来た。
一度目は、ミラの短い手紙。
土は乾かさない。
水とは混ぜない。
薬草棚に近づけない。
二度目は、リディアさんの記録。
同じ言葉を使うこと。
位置を変えたら線の色も変えること。
「変」だけでは残さないこと。
三度目は、二人の連名だった。
奥へ入らないこと。
湧き場は、今は見に行かないこと。
水の流れが変わる季節まで待つこと。
待つ。
その字を見た時、父さんの眉が動いた。
母さんが横に立つ。
父さんは手紙を畳み、村長へ返した。
「分かった」
母さんは何も言わなかった。
それで済んだ。
冬が近づくと、朝の井戸水が冷たくなった。
桶を持つ手が赤くなる。
吐く息が白くなる。
畑の葉に霜がつく。
森側の小川からは、薄い湯気のようなものが上がる朝もあった。
誰も近づかない。
縄の向こうが白く光っても、子どもたちは足を止める。
ノルは一度だけ、
「あっち、きれい」
と言った。
トマがすぐに返す。
「縄あるから」
ノルは口を尖らせたが、行かなかった。
カリンは何も言わずに頷いていた。
冬の間、記録板には同じような言葉が並んだ。
鳥、村側あり。
奥、なし。
水、使わず。
縄、異常なし。
薬草端、採らず。
黒線、変わらず。
同じ言葉が続く。
最初は怖かった。
途中から、見慣れた。
見慣れると、怖さが薄くなる。
それが一番怖い気もした。
だから、リディアさんの印が役に立った。
異常なし、ではなく、前回と同じ。
安全、ではなく、使用せず。
問題なし、ではなく、変化なし。
言葉が違うだけで、気を抜きすぎずに済む。
母さんはそれを見て、
「リディアさんらしいわね」
と言った。
ミラからは、乾燥薬草と一緒に小さな紙が届いた。
黒い根の欠片については調査継続。
水との反応あり。
精霊反応は弱いが残存。
現時点で浄化方法は不明。
不明。
そこで終わっていた。
読んだ瞬間、胸の奥が冷えた。
でも、ミラは嘘を書かなかった。
分からないものを、分かったことにはしない。
紙はそこで終わっていた。
年が変わった。
俺は五歳になった。
誕生日の朝、母さんは小さな焼き菓子を出してくれた。
父さんからは、細い木札を入れる小さな箱。
「記録用だ」
「勝手に森のことを書くなよ」
「はい」
「まずは家の中からだ」
「はい」
カリンからは、布で包んだ紐をもらった。
「木札、まとめるやつ」
「ありがとう」
紐はしっかり結べるのに、ほどく時は指を入れる場所がある。
カリンらしい。
その日、俺は森の方を見なかった。
見る前に、カリンが焼き菓子を半分差し出した。
「こっち」
「うん」
甘かった。
冬が深くなると、黒い線の向こうは遠くなった。
雪は積もらなかったが、霜が続く。
小川の端が白く固まる。
畑の土が硬くなる。
父さんたちは、湧き場の手前へ行かなかった。
行けなかったのではない。
行かないと決めていた。
春の気配は、最初に井戸の周りへ来た。
桶を持つ手が赤くならない。
吐く息が白くない。
リリが井戸のそばに置いた花の場所に、本物の芽が出る。
トマがそれを見つけた。
「芽!」
ノルが走ってきて、縄の方へ行きかける。
トマが肩を掴んだ。
「そっちじゃない」
「分かってるって」
「分かってない時の顔だった」
「どんな顔だよ」
二人が言い合う。
リリは芽の前にしゃがんで、嬉しそうに笑っていた。
カリンは井戸の脇から、縄と子どもたちの位置を見ている。
俺は井戸のそばに立ち、記録用の木札を持っていた。
春芽、井戸横。
そう書いて、首をかしげる。
変な記録だ。
でも、悪くない。
その日、村長の記録板にも新しい言葉が入った。
鳥、村側多い。
虫、畑側あり。
奥、反応なし。
小川、使わず。
縄、変わらず。
春は来ていた。
森の奥は、変わらなかった。
畑の準備が始まる。
薬草棚の入れ替えが始まる。
子どもたちは井戸のそばで遊ぶ。
父さんは柵を直す。
母さんはミラへ送る薬草と記録を分ける。
分からないものは、残ったまま。
それでも、朝は来る。
水を汲む。
火を入れる。
パンを食べる。
木札を書く。
春の風が、窓から入ってきた。
布人形の耳が揺れる。
俺は新しい木札を手に取った。
春芽、井戸横。
それから、もう一枚。
黒線、変わらず。
二枚を並べる。
どちらも、今のフィル村だった。
木札を紐でまとめる。
カリンのくれた紐は、きれいに締まった。
どうやら、分からないまま春が来るらしい。




