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なんか捨て子の女の子に転生したらしい  作者: ダレイワス1世
第四章 フィル村歳月編
42/92

なんか湧き場の手前までしか行けないらしい

朝から、井戸の周りがいつもと違っていた。


桶は二列に分けられている。


普段使う水。

戻ってきた人を洗う水。


その間には木の板が置かれ、村長の字で印がついていた。


混ぜない。


短い言葉だった。


母さんは家の前で荷物を確認している。


布。

瓶。

古い袋。

細い縄。

棒の先に布を巻いた道具。


ミラは隣で、小皿を三枚ずつ布に包んでいた。


白い皿。

灰色の皿。

黒い縁の皿。


昨日見たものだ。


父さんは盾を持っている。


ダンは長い棒を二本。

一本は普通の棒。

もう一本は、先に金具がついていた。


「ヨウカ」


母さんが呼んだ。


「はい」


「今日は、ここで待つの」


「はい」


行きたいかどうかは、別だ。


カリンは俺の横に立っていた。


今日も手ぶら。


盾も木剣もない。


「カリンちゃんも、村側ね」


母さんが言う。


「うん」


「ヨウカが縄に近づきすぎたら止めて」


「止める」


返事が早い。


カリンはこっちを見ない。

仕事をもらった顔だった。


父さんが近づいてくる。


「奥へは行かない。黄色い線までだ」


「うん」


「黒い線の向こうには入らない」


「うん」


「見たいと思っても、来るな」


最後だけ、俺に向けて言った。


「はい」


父さんは頷く。


「いい返事だ」


そう言ってから、母さんの視線に気づいたらしい。


「俺も、入らない」


母さんは返事をしなかった。


ミラも何も言わない。


父さんは目を逸らした。


村長が木札を持ってきた。


赤。

黄色。

黒。


三本の線が描かれている。


リディアさんが横から細かい字を足していく。


赤、普段。

黄、準備して見る。

黒、今回は不可。


その木札は、縄のところへ立てるらしい。


リディアさんは俺に気づくと、こちらへ向けた。


「読める?」


「赤、黄、黒」


「それでいいわ」


全部読めなくても、分かる形。


トマやノルが見ても、これなら分かるかもしれない。


出発する前、大人たちは井戸の水で手を濡らした。


洗うためではない。

戻ってきた時と比べるためだと、ミラが言った。


父さん。

母さん。

ミラ。

ダン。


四人が木々の方へ向かう。


村長は残る。

リディアさんも残る。


昨日、地図の上で分けた通りだった。


カリンが俺の袖を引く。


「こっち」


縄の近くではなく、井戸の方へ連れていかれる。


「見えない」


「見なくていい」


「……うん」


カリンは強く言わない。


でも、場所は譲らない。


井戸のそばには、洗い場が作られていた。


板の上に布。

桶。

灰を入れた小さな壺。

汚れたものを置くための皿。


リディアさんは村長の家から机を運ばせ、木札を並べている。


村長は子どもたちへ縄の説明をしていた。


「赤の印より向こうへは行かない。黄色の印は大人だけ。黒は誰も行かない」


トマが手を上げる。


「誰も?」


「誰もだ」


「ヨシュアさんも?」


村長は間を置いた。


「今日は行かない」


トマは納得したような、していないような顔をした。


ノルが縄の方を覗こうとして、カリンに止められる。


「こっち」


「見えないじゃん」


「見ない場所」


ノルは口を尖らせたが、戻ってきた。


リリは木札の色を見ている。


「赤ならいいの?」


「赤の手前」


リディアさんが答えた。


「赤を越えるための印じゃないわ。そこで止まるための印」


リリは何度か頷いた。


トマも、聞いていないふりで聞いていた。


時間は、思ったより遅く進んだ。


薪を割る音。

井戸水が桶に落ちる音。

リディアさんが木札を動かす音。


木々の方から、大人たちの声は聞こえない。


水面が揺れている。


風ではない。


俺の手が、桶に近づいていた。


カリンが手首を掴む。


「触らない」


「……うん」


井戸水は安全なはずだ。


でも、今日は勝手に触る日ではない。


手を引っ込める。


リディアさんがこちらを見ていた。


怒ってはいない。


ただ、木札に短く何かを書いた。


ヨウカ、井戸水へ手。カリン止め。


「書くの?」


「記録だから」


「それも?」


「それも」


リディアさんは木札を置く。


「誰が何を見たかだけじゃない。誰がどこで止まったかも、後で役に立つことがある」


カリンは俺の手首を離した。


「止めた」


「うん。止められた」


そう言うと、カリンは満足そうにした。


昼前、木々の方から声がした。


最初に戻ってきたのはダンだった。


走ってはいない。

でも、歩き方が速い。


手には、布で巻いた棒。


先の布が灰色になっていた。


村長が前へ出る。


「怪我は?」


「ありません。後ろから三人も来ます」


ダンは洗い場の板に立った。


リディアさんが木札を持つ。


「黄色い線まで?」


「はい。黒には入っていません」


「棒は?」


「湧き場の手前の土。布越し。直接は触っていません」


ダンの靴は泥で重そうだった。


普通の泥より、乾き方が遅い。


そう思った。


口にする前に、ミラと母さんが戻ってきた。


父さんは一番後ろ。


盾を持ったまま、何度も木々の方を振り返っている。


母さんの声が飛んだ。


「ヨシュア、戻る」


父さんは渋い顔で戻ってきた。


洗い場で、順番に手と靴を洗う。


父さんの盾は、板の上に置かれた。


ミラは黒い縁の皿を出す。

母さんは布袋を外の台に置く。

リディアさんは木札を増やす。


誰も家の中へ入らない。


帰ってきたのに、すぐには戻れない。


「報告を先に」


リディアさんが言った。


父さんは水で手を洗いながら答える。


「黄色い線までは行ける。道はある。ただ、倒木の先で音が消える」


「音?」


「水の音はする。だが、広がらない」


リディアさんが木札に書く。


水音、広がらず。


母さんが続けた。


「湧き場の手前に、湿った土がある。黒い根は見えない。でも、薬草の根元に細い黒ずみ」


ミラが布を開く。


中には、土ではなく、細い根のようなものが一本だけ入っていた。


黒い。


第一章で見た黒い根の欠片より細い。


髪の毛より太く、木の根より頼りない。


胸の奥がざわついた。


「ヨウカ」


母さんに呼ばれる前に、目を逸らす。


「見てない」


「よし」


カリンが横で頷く。


ミラは黒い縁の皿に、細い根の端を近づけた。


直接は入れない。

水にも触れさせない。


それでも、皿に乗せた青い葉の端が黒ずんだ。


トマが小さく声を漏らした。


村長が手で制する。


ミラは根をすぐに包み直した。


「近いですね」


「湧き場か」


父さんが聞く。


「湧き場そのものか、その手前に溜まっているものかは分かりません」


ミラは布を何重にも巻く。


「でも、黄色い線より先は、今の人数と道具では無理です」


父さんは何か言いかけた。


母さんが見た。


父さんは黙った。


リディアさんが地図を広げる。


黄色い紐の先に、新しい木札が置かれた。


倒木。

湿土。

細黒根。

水音、広がらず。


短い言葉が、地図の上に増えていく。


「黒い線は?」


村長が聞く。


リディアさんは黒い紐を手前へ動かした。


昨日より、手前。


庭が静かになった。


行ける場所が増えたわけではない。


減った。


「線、戻った?」


ノルが小さく言った。


リディアさんは頷く。


「そう。今日は、戻す日」


進む日ではなかった。


それでも、大人たちは失敗した顔をしていない。


父さんだけは悔しそうだったが、母さんが横に立っているので何も言わなかった。


「湧き場は見えた?」


リリが聞いた。


ミラは首を横に振る。


「見える場所までは行っていません」


「じゃあ、分からない?」


「分かったことはあるわ」


ミラは黒い縁の皿を包む。


「そこまでしか行けない、ということ」


リリは黙った。


トマもノルも、縄の向こうを見ない。


カリンが俺の横で言った。


「行けない場所が分かった」


「うん」


「それも、分かったこと」


カリンの声は平らだった。


でも、強かった。


父さんがそれを聞いて、眉を上げる。


「そうだな」


認める声だった。


昼過ぎ、村の縄がもう一度張り直された。


昨日より内側。


黄色い印の木札も、位置が変わる。


トマは文句を言わなかった。


ノルも近づかない。


リリは新しい木札を声に出して読んだ。


「倒木。湿土。細黒根」


そこで止まる。


「これ、怖いね」


「うん」


俺は頷いた。


怖い。


でも、名前がついた。


細黒根。


正式な名前ではない。

ただの記録。


それでも、見えないままよりは扱える。


母さんはそれを薬草棚には入れなかった。


外の台。

黒い縁の皿。

灰色の布。

燃やす布。

洗う桶。


置く場所が分かれている。


夕方、リディアさんが木札を写していた。


同じ内容を、三枚。


一枚は村に残す。

一枚はルーベルへ送る。

一枚はミラが持つ。


「三枚?」


聞くと、リディアさんは筆を止めずに答えた。


「一枚が濡れても、なくなっても、別の場所に残るように」


「同じことを、三回?」


「同じように書くのが難しいの」


リディアさんは苦笑した。


「言葉が変わると、記録の意味も変わるから」


昨日の話し方と同じだ。


雑に渡すと、違うものになる。


リディアさんは一枚目と二枚目を比べ、文字の順番を揃えた。


倒木。

湿土。

細黒根。

水音、広がらず。

黒線、手前へ。


短い。


でも、怖いくらい必要な言葉だった。


夜、父さんは盾を拭いていた。


いつもより丁寧だ。


母さんは靴を別の場所で乾かしている。

ミラは黒い縁の皿を包み直し、リディアさんは木札を布に挟んでいる。


家の中に戻っているのに、まだ外の続きみたいだった。


「父さん」


「なんだ」


「湧き場、見えなかった?」


父さんは手を止めた。


「見えなかった」


「行きたかった?」


「行きたかった」


母さんが奥からこちらを見る。


父さんはすぐに続けた。


「だが、行かなかった」


母さんの視線が緩む。


父さんは盾の縁を布で拭いた。


「今日は、それでよかった」


そう言った。


父さんが自分で言った。


それが、今日一番大きかったかもしれない。


布団に入る前、窓の外を見た。


昨日より、縄が手前にある。


行ける場所が減った。


でも、木札は増えた。


倒木。

湿土。

細黒根。

水音、広がらず。

黒線、手前へ。


進めなかった日。


それでも、戻ってきた日。


誰も黒い線を越えなかった日。


俺は布人形を抱き直す。


湧き場は見えなかった。


でも、そこへ行く前に止まる理由は見えた。


どうやら、湧き場の手前までしか行けないらしい。

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