なんか家族が増えるかもしれないらしい
朝、アンナが水桶を持たなかった。
それだけなら、変ではない。
ヨシュアが近くにいる時は、重いものを代わりに持つことがある。
薬草棚の整理中なら、手を空けておくこともある。
けれど、その日は違った。
アンナは桶に手を伸ばして、途中で止めた。
ヨシュアが横から来て、何も言わずに持ち上げる。
「井戸まで?」
「ああ」
「薬草用はこっちね」
「分かってる」
ヨシュアは返事をした。
アンナは笑ったが、いつもより薄かった。
俺は椅子の上でパンを持ったまま、二人を見ていた。
顔色が悪いわけではない。
熱もなさそうだ。
声も普通。
でも、動きが一拍遅い。
台所の匂いにも、眉が寄っている。
焼いた魚。
温めたスープ。
刻んだ薬草。
普段なら何でもなさそうな匂いに、アンナの目が細くなった。
「母さん」
「なあに?」
「魚、いや?」
アンナの手が止まる。
ヨシュアもこちらを見た。
「嫌じゃないわ」
そう言って、アンナは皿を遠ざけた。
嫌じゃない。
でも、近くには置かない。
ヨシュアが何か言いかけて、やめた。
家の中が、変に静かになる。
俺はパンをかじった。
聞いていいことと、今は聞かない方がいいことがある。
この家に来てから、それを何度も覚えた。
前の俺なら、たぶん聞かなかった。
聞いたところで、答えが返ってくるとは思わなかったからだ。
ただ、今は違う。
聞けば、誰かが答えてくれる。
だからこそ、聞き方を間違えると相手を困らせる。
面倒だ。
けれど、悪くはない。
朝食の後、アンナは薬草棚の前に座った。
いつもなら、手が迷わない。
木札を取り、袋を移し、瓶を並べる。
必要なものを出し、使わないものを奥へ戻す。
今日は、途中で何度も止まる。
棚の前に、小さな布が敷かれていた。
その上に、香りの強い薬草が置かれている。
アンナはそれを見て、眉を寄せた。
「これは、今日は奥」
「使わない?」
「使えるけれど、今は匂いが強いの」
匂い。
俺は薬草を見る。
乾いた葉。
苦い匂い。
いつもならアンナが嫌がるものではない。
「体、悪い?」
聞いた瞬間、ヨシュアの足音が止まった。
アンナは俺を見る。
怒ってはいない。
「悪い、とは少し違うわね」
違う。
病気ではない、ということか。
ヨシュアが水桶を置き、こちらへ来た。
「ヨウカ」
「はい」
「母さんは、今日は重いものを持たない。匂いの強いものも近づけない」
「うん」
「だから、お前も急に薬草を持っていくな」
「はい」
「あと、心配しすぎるな」
それは難しい。
ヨシュアも、それが分かっている顔だった。
アンナが笑う。
「心配してくれるのは嬉しいわよ」
「でも、しすぎはだめ?」
「ええ。しすぎると、私が休みにくいもの」
休みにくい。
それは分かる。
見られすぎると休めない。
聞かれすぎると答えなければならない。
俺は椅子に座り直した。
「じゃあ、何する?」
「今日は木札を並べてくれる?」
アンナは小さな箱を出した。
ヨシュアが誕生日にくれた、記録用の木札入れだ。
「薬草棚?」
「ええ。家の中の記録から」
家の中。
森ではない。
黒い根でもない。
薬草棚と台所。
木札を一枚取る。
香り強い薬草、今日は奥。
書いて、アンナを見る。
アンナは頷いた。
「いいわね」
「理由は?」
「今日は、でいいわ」
今日は。
それ以上は書かない。
香り強い薬草、今日は奥。
短い記録になった。
⸻
昼前、カリンが来た。
庭に入ってすぐ、アンナの方を見る。
アンナは椅子に座っていた。
膝に布を置き、薬草袋の紐を結んでいる。
立って作業していない。
カリンの目が動いた。
「アンナさん、休み?」
「今日は座って作業してるの」
アンナが答える。
カリンは頷き、俺の隣に来た。
小さな声で聞く。
「具合悪い?」
「悪いとは違うって」
「違う?」
「たぶん」
二人でアンナを見る。
アンナは気づいているはずなのに、何も言わない。
ヨシュアが井戸から戻ってきた。
手には水桶が二つ。
いつもなら一つはアンナが持つ。
今日はヨシュアだけだ。
カリンは水桶を見る。
それから、ヨシュアを見る。
「重いの、アンナさん持たない?」
「ああ」
「いつまで?」
ヨシュアは答えに詰まった。
カリンは首を傾げる。
「分からない?」
「……分からないわけじゃない」
ヨシュアが珍しく困った顔をした。
アンナが息を吐く。
「ヨシュア。隠すの、下手よ」
「隠してはいない」
「下手よ」
「……そうか」
ヨシュアは水桶を置いた。
アンナは俺とカリンを手招きする。
「こっちに来て」
薬草棚の前に座る。
アンナは腹に手を置いた。
大げさな仕草ではない。
でも、ヨシュアの目がそこへ落ちる。
「まだ、はっきりとは言い切れないの」
アンナの声は穏やかだった。
「でも、家族が増えるかもしれないわ」
言葉が、部屋の中に落ちた。
家族。
増える。
俺はアンナの腹を見る。
そこに何かが見えるわけではない。
何も光らない。
名前も浮かばない。
ただ、アンナの手がそこにある。
「赤ちゃん?」
アンナは頷いた。
「たぶんね」
たぶん。
だから、かもしれない。
カリンは瞬きをした。
「アンナさんの?」
「ええ」
「ヨシュアさんの?」
ヨシュアが咳をした。
「……そうだ」
アンナが笑う。
カリンは真面目な顔のまま続けた。
「ヨウカの?」
俺は固まった。
アンナが俺を見る。
「家族としては、ヨウカの弟か妹になるわね」
弟か妹。
口の中で言葉が転がった。
弟。
妹。
どちらも遠い言葉だった。
前の家にはいなかった。
いや、前の家のことをここで考えても仕方ない。
今はフィル村の家だ。
アンナとヨシュアの家。
俺の家。
そこに、もう一人。
単純に嬉しい、とは出てこなかった。
赤ん坊が増える。
アンナの時間が分かれる。
俺の役割も変わる。
頭は勝手に、そういう並べ方をする。
でも、口から出たのは別の言葉だった。
「増えると、母さん減る?」
言ってから、自分でも変な聞き方だと思った。
アンナは笑わなかった。
ヨシュアも笑わなかった。
カリンも黙っている。
アンナは、俺の手を取った。
「減らないわ」
「ほんと?」
「ええ。母さんは母さんのままよ」
ヨシュアが横から言う。
「父さんも父さんのままだ」
「うん」
「ただ、しばらく家の動きは変わる」
ヨシュアは水桶を見る。
「重いものは俺が持つ。匂いの強いものは棚の奥へ。母さんが休む時間も増える」
アンナが頷く。
「ヨウカも、手伝いたいなら、私に聞いてから」
「勝手にしない」
「そう」
「見すぎない」
「そうね」
「心配しすぎない」
アンナは笑った。
「それが一番難しそうね」
難しい。
たぶん一番難しい。
アンナが減らないとしても、時間は分かれる。
手も、目も、今までと同じではなくなる。
それでも、減らないと言われると安心する。
四歳の体は、そういう言葉に弱い。
俺はアンナの手を握り返しかけて、やめた。
代わりに、膝の上で指を丸めた。
カリンが手を上げた。
「私は?」
アンナが目を丸くする。
「カリンちゃん?」
「手伝う?」
ヨシュアが答える。
「ヨウカが走り出しそうになったら止めてくれ」
「止める」
即答だった。
俺はカリンを見る。
「私、走らない」
「走る顔する」
「どんな顔?」
カリンは答えなかった。
アンナが声を出して笑った。
いつもの笑い方だった。
その声で、家の空気が戻った。
⸻
昼過ぎ、セリアさんが来た。
アンナと奥の部屋で話すらしい。
俺は台所の椅子に座り、木札を並べていた。
香り強い薬草、今日は奥。
水桶、ヨシュア。
アンナ、休む。
三枚目を書いて、首をかしげる。
これは記録なのか。
ただの注意書きかもしれない。
カリンが横から覗く。
「母さん、休む」
「うん」
「いいと思う」
「木札に書くこと?」
「忘れない」
確かに。
忘れないために書く。
森の記録も、薬草棚の記録も、同じだった。
セリアさんが奥から出てきた。
ヨシュアがすぐに立つ。
「どうだった」
「まずは無理をさせないことね」
セリアさんはヨシュアを見て言った。
「アンナも、ヨシュアも」
「俺もか」
「あなたが張り切りすぎると、アンナが落ち着かないでしょう」
ヨシュアは黙った。
アンナが奥から出てくる。
顔色は悪くない。
でも、疲れている。
セリアさんは俺の前にしゃがんだ。
「ヨウカちゃん」
「はい」
「アンナが座っていたら、無理に起こさない。寝ていたら、急ぎでないことは後にする。心配なら、ヨシュアか私を呼ぶ」
「はい」
「自分で治そうとしない」
その言葉は、まっすぐ来た。
「はい」
「いい返事」
セリアさんは笑った。
でも、目は真剣だった。
俺は木札を一枚取る。
自分で治そうとしない。
書きかけて、止まる。
それはアンナが見ると心配するかもしれない。
代わりに、こう書いた。
困ったら、大人を呼ぶ。
セリアさんはそれを見て、頷いた。
「それがいいわね」
⸻
夕方、ヨシュアが台所に立った。
手つきは悪くない。
でも、アンナより音が大きい。
鍋を置く音。
皿を出す音。
木べらが鍋に当たる音。
アンナは椅子に座ったまま、時々口を出す。
「火、強い」
「これくらいか」
「弱く」
「分かった」
「塩、先に入れすぎない」
「分かった」
「その葉は最後」
「……分かった」
ヨシュアは三回目の「分かった」で、こちらを見た。
俺は目を逸らした。
笑ってはいけない。
カリンは口元を押さえていた。
夕食は、いつもより薄味だった。
でも、温かかった。
アンナは全部食べられなかった。
ヨシュアは何も言わず、皿を下げる。
アンナも何も言わない。
その沈黙は嫌ではなかった。
⸻
夜、布団に入る前、木札を箱にしまった。
香り強い薬草、今日は奥。
水桶、ヨシュア。
アンナ、休む。
困ったら、大人を呼ぶ。
変な木札ばかりだ。
ただ、家の中の記録だ。
森の記録とは違う。
黒い根とも違う。
怖くない。
ただ、失敗したくない。
窓の外を見ると、井戸のそばの芽が風に揺れていた。
春芽、井戸横。
あの木札を思い出す。
増えるものがある。
増えたからといって、今あるものが消えるわけではない。
そう言われた。
言われたのに、すぐには信じきれない。
二十二年分の記憶は、そんなに簡単に安心するなと言ってくる。
でも、四歳の体は、アンナの「減らないわ」をまだ覚えていた。
アンナはアンナ。
ヨシュアはヨシュア。
カリンは今日も横にいた。
そして、家族が増えるかもしれない。
布人形を抱き直す。
胸の奥が落ち着かない。
ただ、嫌ではない。




