なんか村だけでは見切れないらしい
返事は、手紙ではなかった。
昼前、村の入口が騒がしくなった。
荷車の音。
人の足音。
聞き覚えのある声。
母さんが薬草棚の前で手を止める。
「早いわね」
父さんは何も言わず、玄関へ向かった。
俺も後を追おうとして、母さんに肩を押さえられる。
「外で待つの」
「うん」
庭に出ると、カリンがもう来ていた。
手ぶらだ。
昨日と同じ。
「ミラ?」
「たぶん」
カリンは村の入口を見ている。
しばらくして、父さんと村長が戻ってきた。
その後ろに、ミラがいる。
さらに、背の高い女の人が一人。
リディアさんだ。
腰には革の筒。
手には、紐で束ねた木札。
肩から下げた鞄は、薬師のものというより、記録係の道具に見えた。
ミラは俺に気づくと、軽く手を上げた。
「ヨウカちゃん。来ちゃった」
言い方は軽い。
でも、目は笑っていない。
リディアさんもこちらを見る。
「久しぶりね」
「こんにちは」
「こんにちは。今日は、無理に話さなくていいわ」
その一言で、喉の奥が楽になった。
ミラは母さんと短く挨拶を交わし、外の台へ向かった。
昨日、土の小瓶を置いた場所だ。
「中には入れなかったのね」
「ええ。薬草棚にも近づけていません」
「正解です」
ミラは鞄から薄い手袋を取り出した。
リディアさんは革筒から丸めた地図を広げる。
紙ではない。
薄くなめした皮のようなものに、川と道と木々の印が描かれている。
村長の家ではなく、アンナの家の庭。
そこで話が始まった。
木の台に、昨日の木札が置かれる。
森端、音薄い。
薬草端、枯れず、色鈍い。
戻る道、石あり、草根あり。
自分の言葉とカリンの言葉が、木札に並んでいる。
「この“音薄い”」
リディアさんが指先で木札を叩いた。
「誰の言葉?」
母さんが俺を見る。
答えていいらしい。
「私」
「いい記録ね」
褒める声ではなかった。
仕事の声だった。
「静か、より使いやすい」
「そうなんですか?」
リディアさんは頷く。
「静か、だけだと人によって違う。音が薄いなら、村の音はあるけれど、木々の中の音が足りない、という感じが残る」
父さんが腕を組む。
「実際、そうだった」
「なら、使えます」
使える。
その言い方は、ミラが薬草を見る時に似ていた。
ミラは土の小瓶を開けず、布の外側を確かめている。
「土は持ち運ばなくて正解です」
村長の眉が動いた。
「やはり危なかったか」
「危ないかどうかを決めるには、中を見ないといけません。でも、決められないものを荷車で運ぶのは危ない」
ミラは小瓶を台に戻した。
「ここで分けて見ます」
鞄から小皿が三枚出てくる。
白い皿。
灰色の皿。
黒い縁の皿。
それぞれに小さな印が刻まれていた。
「色、違う」
「混ぜないためよ。慌てても間違えにくいでしょう」
皿の色。
袋の色。
木札の印。
薬草棚と同じだ。
分けるための形がある。
リディアさんは地図の上に木札を置いた。
フィル村。
小川。
薬草畑。
上流へ向かう細い線。
その先は、急に印が減っている。
「これはルーベル側に残っている古い水路図です」
リディアさんが言う。
「正確ではありません。古いし、森の奥は空白が多い。でも、村の記録と合わせると、見える場所が増える」
村長が地図に身を乗り出した。
「この印は?」
「昔、水の流れが変わった場所です。崩れた岩、倒木、湧き場の位置の記録。全部ではありません」
父さんが上流を指す。
「昨日見た畑の端は、この辺りか」
「ええ」
リディアさんは別の木札を置いた。
ルーベル側の記録らしい。
黒い根の欠片。
湧き石。
重い水。
精霊反応、弱。
短い言葉なのに、胸の奥が冷えた。
カリンの指が俺の袖に触れる。
握らない。
でも、そこにいる。
リディアさんは、村の木札とルーベルの木札を地図の上で並べ替えた。
「村は、昨日と今日の違いに強い。誰がどこを通るか、水をどう使うか、鳥が戻ったか。毎日見ている人が一番分かる」
村側に木札が置かれる。
「でも、上流の古い流れや、過去の記録はここだけでは足りない」
ルーベルの木札が、上流の線へ動く。
「薬草の反応は薬師が見る。水の流れは地図と記録を見る。精霊のことは、また別の知識がいる」
別の知識。
森。
精霊。
エルフ。
言葉が頭に浮かんだが、口には出さなかった。
会っていないものは、分からない。
ミラが白い皿に井戸水を一滴落とした。
変化はない。
次に、下流から取った水。
灰色の皿。
青い葉の端が暗くなる。
最後に、昨日の土をほんのわずかだけ水に触れさせた。
黒い縁の皿。
葉の色が沈んだ。
誰も声を出さなかった。
ミラは皿から目を離さない。
「下流の水より、土の反応が強い」
母さんが聞く。
「畑の端が原因?」
「原因か、通り道か、溜まった場所か。そこはまだ言えません」
ミラの返事は早かった。
言えないことは、言えない。
リディアさんも頷く。
「村の中から見えるのは、ここまでです」
ここまで。
その言葉で、庭の空気が重くなる。
村長が地図を見る。
「では、上流へ行くしかないか」
父さんの目が動いた。
母さんがすぐに言う。
「奥へは行かない」
「分かってる」
「その返事は昨日も聞いたわ」
リディアさんが軽く咳をした。
ミラは笑わなかった。
「行くなら、湧き場の手前までです」
父さんがミラを見る。
「なぜ手前だ」
ミラは黒い縁の皿を指した。
「土でこの反応です。水の出る場所に近づけば、もっと強い可能性がある。昨日の装備では足りません」
「何がいる」
「触らない道具。包む布。水を分ける瓶。戻ってきた人を洗う場所。汚れた靴を置く場所」
ミラはそこで一度切った。
「それから、行かない人」
行かない人。
庭に、はっきり落ちた。
俺のことだ。
たぶん、カリンも。
母さんは俺を見なかった。
見なくても、分かっているのだろう。
カリンの指が袖から離れる。
かわりに、俺の前へ半歩出た。
「ヨウカは行かない」
庭が静かになる。
俺は口を開きかけて、閉じた。
行きたい。
見たい。
でも、黒い縁の皿を見た。
沈む葉を見た。
あれを見て、行くと言えるほど馬鹿ではない。
「うん」
短く返す。
カリンはこちらを見た。
「私も、行かない」
それは少し意外だった。
「カリンも?」
「走る場所、知らない。木の中、分からない」
カリンは地図を見る。
「だから、行かない」
父さんが息を吐く。
「いい判断だ」
カリンの表情は変わらない。
でも、肩の力が抜けた。
リディアさんが、地図の上に細い紐を置く。
赤い紐。
村から薬草畑まで。
黄色い紐。
畑の端から、湧き場の手前まで。
黒い紐。
その先の上流。
「赤は普段の範囲。黄色は準備して見る範囲。黒は今回は行かない範囲」
色がつくと、線が目に入る。
行ける場所。
行かない場所。
はっきり分かれる。
「黒は、だめ?」
「今回は駄目」
リディアさんは頷いた。
「次は?」
「次を決めるために、黄色までを見るの」
次を決めるため。
行けない場所を決めるためにも、手前を見る。
父さんが地図から目を離さない。
「行くのは、俺、アンナ、ミラ、ダンか」
「村長は残った方がいい」
リディアさんが言う。
「村側の動きを止めない人が必要です」
村長は迷った後、頷いた。
「分かった。残る」
「リディアさんは?」
母さんが聞く。
「私は残って記録を見ます。戻った人からすぐ聞けるように」
行く人。
残る人。
見る人。
書く人。
役割が分かれていく。
昨日の籠と明かりより、ずっと大きい。
でも、形は似ていた。
ミラは皿を片づけ始めた。
「明日の朝がいいです。今日動くには準備が足りません」
「今からでは駄目か」
父さんが聞く。
母さんとミラの視線が、同時に父さんへ向いた。
父さんは黙った。
リディアさんが地図を巻きながら言う。
「急ぐ理由はあります。でも、急いで失敗すると、村側の記録も人手も失います」
「……明日だな」
父さんが折れた。
庭の空気が戻る。
午後、村では準備が始まった。
井戸の近くに洗う場所を作る。
戻った人の靴を置く板を出す。
使った布を燃やす場所を決める。
子どもが近づかないよう、縄をもう一本増やす。
トマとノルは縄の前で止まった。
今日は文句を言わない。
リリは木札を見て、俺に聞いた。
「明日、大人が行くの?」
「うん」
「ヨウカちゃんは?」
「行かない」
「カリンちゃんは?」
「行かない」
リリは安心した顔をした。
それから、困った顔になる。
「行きたい?」
答えに詰まった。
行きたい。
でも、行かない。
どちらも本当だった。
「見たい」
そう言った。
「でも、行かない」
リリは頷いた。
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
夕方、母さんはミラと薬草棚の前にいた。
明日持っていくものを選んでいる。
使うもの。
使わないもの。
持っていくもの。
家に残すもの。
俺は離れたところに座った。
見るだけ。
ミラが小さな布袋を持ち上げる。
「ヨウカちゃん、これは明日持っていかない薬草よ」
「どうして?」
「迷った時に使いやすい薬は、迷った時に使ってしまうから」
意味がすぐには分からなかった。
母さんが補う。
「持っていると、使いたくなるものがあるの」
ミラは頷く。
「だから置いていく。使わない準備もあるの」
使わない準備。
持っていかないことも、準備。
カリンはそれを聞いて、自分の手を見た。
盾も木剣も持っていない手。
明日も、たぶんその手のままいる。
夜、リディアさんは村長の家に泊まることになった。
ミラはアンナの家。
地図と木札は、村長の家。
土の小瓶は、外の台。
黒い縁の皿は洗わず、別に包む。
分けられたものが、あちこちにある。
混ぜないため。
間違えないため。
明日、迷わないため。
布団に入る前、窓の外を見た。
村はいつもより明るかった。
井戸の近く。
村長の家。
縄の手前。
小さな明かりが、いくつか灯っている。
全部を照らすほどではない。
でも、人がいる場所は分かる。
村だけでは見切れない。
だから、村は動いている。
ルーベルから来た人がいる。
黄色い線まで行く人がいる。
村に残る人がいる。
それぞれの場所に、明かりがあった。
俺は布人形を抱き直す。
明日は、大人たちが黄色い線まで行く。
黒い線の向こうには、行かない。
それを決めるために、みんなが準備している。
どうやら、村だけでは見切れないらしい。




