なんか全部はわからないまま春が来るらしい
翌朝、井戸の周りがいつもと違っていた。
桶は二列に分けられている。
普段使う水。
戻ってきた人を洗う水。
その間には木の板が置かれ、村長の字で印がついていた。
混ぜない。
アンナは家の前で荷物を確認している。
布。
瓶。
古い袋。
棒の先に布を巻いた道具。
ミラは隣で、小皿を三枚ずつ布に包んでいた。
ヨシュアは盾を持っている。
ダンは長い棒を二本。
「ヨウカ。今日は、ここで待つの」
「はい」
行きたいかどうかは、別だ。
カリンは俺の横に立っていた。
今日も手ぶら。
「ヨウカが縄に近づきすぎたら止めて」
「止める」
返事が早い。
カリンはこっちを見ない。
仕事をもらった顔だった。
ヨシュアが近づいてくる。
「奥へは行かない。黄色い線までだ。見たいと思っても、来るな」
最後だけ、俺に向けて言った。
「はい」
そう言ってから、ヨシュアはアンナの視線に気づいたらしい。
「俺も、入らない」
アンナは返事をしなかった。
村長が木札を持ってきた。
赤。
黄色。
黒。
三本の線が描かれている。
リディアが横から細かい字を足していく。
赤、普段。
黄、準備して見る。
黒、今回は不可。
「読める?」
リディアが俺に向けた。
「赤、黄、黒」
「それでいいわ」
全部読めなくても、分かる形。
四人が木々の方へ向かう。
ヨシュア、アンナ、ミラ、ダン。
村長は残る。
リディアも残る。
カリンが俺の袖を引く。
「こっち」
縄の近くではなく、井戸の方へ連れていかれる。
「見えない」
「見なくていい」
「……うん」
カリンは強く言わない。
でも、場所は譲らない。
⸻
時間は、思ったより遅く進んだ。
薪を割る音。
井戸水が桶に落ちる音。
リディアが木札を動かす音。
木々の方から、大人たちの声は聞こえない。
水面が揺れている。
風ではない。
俺の手が、桶に近づいていた。
カリンが手首を掴む。
「触らない」
「……うん」
井戸水は安全なはずだ。
でも、今日は勝手に触る日ではない。
リディアがこちらを見ていた。
怒ってはいない。
ただ、木札に短く何かを書いた。
ヨウカ、井戸水へ手。カリン止め。
「書くの?」
「誰が何を見たかだけじゃない。誰がどこで止まったかも、後で役に立つことがある」
カリンは俺の手首を離した。
「止めた」
「うん。止められた」
⸻
昼前、木々の方から声がした。
最初に戻ってきたのはダンだった。
走ってはいない。
でも、歩き方が速い。
手には、布で巻いた棒。
先の布が灰色になっていた。
「黄色い線まで?」
リディアが聞く。
「はい。黒には入っていません」
ダンの靴は泥で重そうだった。
普通の泥より、乾き方が遅い。
ミラとアンナが戻ってきた。
ヨシュアは一番後ろ。
盾を持ったまま、何度も木々の方を振り返っている。
「ヨシュア、戻る」
アンナの声が飛んだ。
洗い場で、順番に手と靴を洗う。
誰も家の中へ入らない。
帰ってきたのに、すぐには戻れない。
「報告を先に」
リディアが言った。
ヨシュアは水で手を洗いながら答える。
「黄色い線までは行ける。道はある。ただ、倒木の先で音が消える。水の音はする。だが、広がらない」
リディアが木札に書く。
水音、広がらず。
アンナが続けた。
「湧き場の手前に、湿った土がある。黒い根は見えない。でも、薬草の根元に細い黒ずみ」
ミラが布を開く。
中には、土ではなく、細い根のようなものが一本だけ入っていた。
黒い。
前に見た黒い根の欠片より細い。
髪の毛より太く、木の根より頼りない。
胸の奥がざわついた。
「ヨウカ」
アンナに呼ばれる前に、目を逸らす。
「見てない」
「よし」
ミラは黒い縁の皿に、細い根の端を近づけた。
直接は入れない。
水にも触れさせない。
それでも、皿に乗せた青い葉の端が黒ずんだ。
「近いですね」
「湧き場か」
ヨシュアが聞く。
「湧き場そのものか、その手前に溜まっているものかは分かりません。でも、黄色い線より先は、今の人数と道具では無理です」
ヨシュアは何か言いかけた。
アンナが見た。
ヨシュアは黙った。
⸻
リディアが地図を広げる。
黄色い紐の先に、新しい木札が置かれた。
倒木。
湿土。
細黒根。
水音、広がらず。
「黒い線は?」
村長が聞く。
リディアは黒い紐を手前へ動かした。
昨日より、手前。
庭が静かになった。
行ける場所が増えたわけではない。
減った。
「線、戻った?」
カリンが小さく言った。
リディアは頷く。
「そう。今日は、戻す日」
進む日ではなかった。
それでも、大人たちは失敗した顔をしていない。
ヨシュアだけは悔しそうだったが、アンナが横に立っているので何も言わなかった。
「湧き場は見えた?」
俺が聞いた。
ミラは首を横に振る。
「見える場所までは行っていません。でも、分かったことはあるわ。そこまでしか行けない、ということ」
カリンが俺の横で言った。
「行けない場所が分かった」
「うん」
「それも、分かったこと」
カリンの声は平らだった。
でも、強かった。
ヨシュアがそれを聞いて、眉を上げる。
「そうだな」
認める声だった。
⸻
夕方、リディアが木札を写していた。
同じ内容を、三枚。
一枚は村に残す。
一枚はルーベルへ送る。
一枚はミラが持つ。
「同じことを、三回?」
「一枚が濡れても、なくなっても、別の場所に残るように。それに、同じように書くのが難しいの」
リディアは苦笑した。
「言葉が変わると、記録の意味も変わるから」
倒木。
湿土。
細黒根。
水音、広がらず。
黒線、手前へ。
短い。
でも、怖いくらい必要な言葉だった。
夜、ヨシュアは盾を拭いていた。
いつもより丁寧だ。
「父さん。湧き場、見えなかった?」
ヨシュアは手を止めた。
「見えなかった」
「行きたかった?」
「行きたかった」
アンナが奥からこちらを見る。
ヨシュアはすぐに続けた。
「だが、行かなかった」
アンナの視線が緩む。
ヨシュアは盾の縁を布で拭いた。
「今日は、それでよかった」
ヨシュアが自分で言った。
それが、今日一番大きかったかもしれない。
⸻
黒い線は、しばらくそのままだった。
森へ向かう道。
小川へ下りる細い坂。
薬草畑の端。
そこには、縄と木札が増えた。
最初は、みんな木札を見て歩いていた。
数日たつと、村の人たちは木札を見なくても止まるようになった。
井戸の水を使う。
森側の水は使わない。
畑道は、縄の手前で曲がる。
そういう動きが、村の中に入っていく。
村長の家には、記録板が置かれた。
晴れ。
雨。
風。
鳥の声。
小川の色。
縄の位置。
アンナが書く日もある。
ヨシュアは、音のところだけ妙に細かかった。
鳥、村側あり。
奥、返りなし。
水音、細い。
字はきれいではない。
けれど、読めた。
ルーベルからは、何度か返事が来た。
奥へ入らないこと。
湧き場は、今は見に行かないこと。
水の流れが変わる季節まで待つこと。
待つ。
その字を見た時、ヨシュアの眉が動いた。
アンナが横に立つ。
ヨシュアは手紙を畳み、村長へ返した。
「分かった」
アンナは何も言わなかった。
それで済んだ。
⸻
冬が近づくと、朝の井戸水が冷たくなった。
桶を持つ手が赤くなる。
吐く息が白くなる。
森側の小川からは、薄い湯気のようなものが上がる朝もあった。
誰も近づかない。
縄の向こうが白く光っても、子どもたちは足を止める。
冬の間、記録板には同じような言葉が並んだ。
鳥、村側あり。
奥、なし。
水、使わず。
黒線、変わらず。
同じ言葉が続く。
最初は怖かった。
途中から、見慣れた。
見慣れると、怖さが薄くなる。
それが一番怖い気もした。
だから、リディアの印が役に立った。
異常なし、ではなく、前回と同じ。
安全、ではなく、使用せず。
言葉が違うだけで、気を抜きすぎずに済む。
ミラからは、乾燥薬草と一緒に小さな紙が届いた。
黒い根の欠片については調査継続。
水との反応あり。
現時点で浄化方法は不明。
不明。
そこで終わっていた。
読んだ瞬間、胸の奥が冷えた。
でも、ミラは嘘を書かなかった。
分からないものを、分かったことにはしない。
⸻
年が変わって、俺は五歳になった。
誕生日の朝、アンナは小さな焼き菓子を出してくれた。
ヨシュアからは、細い木札を入れる小さな箱。
「記録用だ。勝手に森のことを書くなよ。まずは家の中からだ」
「はい」
カリンからは、布で包んだ紐をもらった。
「木札、まとめるやつ」
紐はしっかり結べるのに、ほどく時は指を入れる場所がある。
カリンらしい。
その日、俺は森の方を見なかった。
見る前に、カリンが焼き菓子を半分差し出した。
「こっち」
「うん」
甘かった。
⸻
春の気配は、最初に井戸の周りへ来た。
桶を持つ手が赤くならない。
吐く息が白くない。
井戸のそばに、本物の芽が出る。
その日、村長の記録板にも新しい言葉が入った。
鳥、村側多い。
虫、畑側あり。
奥、反応なし。
黒線、変わらず。
春は来ていた。
森の奥は、変わらなかった。
畑の準備が始まる。
薬草棚の入れ替えが始まる。
子どもたちは井戸のそばで遊ぶ。
分からないものは、残ったまま。
それでも、朝は来る。
水を汲む。
火を入れる。
パンを食べる。
木札を書く。
春の風が、窓から入ってきた。
布人形の耳が揺れる。
俺は新しい木札を手に取った。
春芽、井戸横。
それから、もう一枚。
黒線、変わらず。
二枚を並べる。
どちらも、今のフィル村だった。
木札を紐でまとめる。
カリンのくれた紐は、きれいに締まった。
森の奥は、まだ分からない。
それでも、春は来た。




