なんか村だけでは見切れないらしい
井戸の前に、桶が並んでいた。
水を汲む人。
順番を待つ人。
桶を抱えて畑へ向かう人。
小川は、井戸より近い。
けれど、そちらへ歩く人はいない。
小川へ続く道には細い縄が張られ、木札が一枚吊るされていた。
森側の水は使わない。
村長の字だ。
アンナが薬草籠を持って家から出てくる。
籠の中には布、小瓶、水袋、古い布、長い棒。
いつもの薬草採りとは違う。
ヨシュアは盾を持っていた。
村の中で盾を見ると、空気が変わる。
カリンは手ぶらだった。
盾も木剣もない。
そのかわり、俺のすぐ横に立っている。
「今日は持たないの?」
「走る日」
カリンは短く答えた。
戦う日ではない。
持つ日でもない。
何かあれば、俺を連れて戻る日。
そういうことらしい。
ヨシュアが柵の前で足を止めた。
「奥には入らない。薬草畑の端を見るだけだ」
村長、ルッツ、ダンも一緒だった。
ルッツの腕には、もう布がない。
ただ、その手は何度か傷跡のあたりに触れている。
ダンは長い棒を持っていた。
「何か見つけても、手で触るな。棒で動かすだけ。持ち帰るなら布越し」
ダンは頷く。
「はい」
誰も騒がない。
でも、誰も笑わない。
⸻
薬草畑へ向かう道は、いつも通りだった。
土の匂い。
畑の葉。
遠くで鶏が鳴く声。
そこまでは普通だ。
木々へ近づくと、音が薄くなる。
急に消えるわけではない。
一歩ずつ、遠ざかっていく。
鳥の声。
虫の羽音。
草の下を走る小さな気配。
いつもなら混ざっているものが、足りない。
アンナが石積みの手前で止まった。
「ヨウカとカリンは、ここまで」
縄はない。
でも、アンナの声で線が引かれる。
カリンが俺の横に立った。
近い。
大人たちだけが畑の端へ進む。
アンナが葉をめくる。
ヨシュアは木々の奥へ顔を向ける。
ダンが棒で土をずらす。
畑の端だけ、葉の色が鈍い。
枯れてはいない。
折れてもいない。
けれど、元気な葉の色ではない。
ヨシュアが奥へ向く。
「静かすぎる」
その一言で、みんなが同じ方を見た。
木はある。
葉もある。
朝の光も入っている。
でも、奥が空いている。
何かが逃げた後ではなく、最初から何もいなかったみたいに。
ルッツが腕をさする。
「村側は、鳥も戻っていたんですが」
「ここは違うわね」
アンナの声が低くなる。
カリンの指が俺の袖に触れた。
握るのではなく、触れるだけ。
動くな。
そう言われた気がした。
アンナは小瓶を取り出し、土をほんのわずかだけ入れた。
古い布で包み、薬草籠とは別の袋へしまう。
混ぜない。
それだけで、普通の土ではないと分かる。
ヨシュアが半歩、木々の方へ出た。
「ヨシュア」
アンナの声が飛ぶ。
ヨシュアの足が止まった。
「奥には行かない約束よ」
「分かってる」
「あなたの“分かってる”は信用が薄い」
ダンが咳をした。
ヨシュアは黙って半歩戻った。
空気が一瞬だけ緩む。
でも、奥の静けさは変わらない。
「今日は採らない。畑の端の葉も使わない。土は私が確認する」
アンナが決めた。
「帰る」
ヨシュアが言った。
反対する人はいなかった。
⸻
帰り道、カリンは行きより近くを歩いた。
「走らなかったね」
「走らない方がいい」
「うん」
「でも、走る場所は見た」
カリンの目は道の端を拾っている。
石。
くぼみ。
草の根。
逃げるなら、どこを通るか。
俺が明かりで足元を照らすなら、カリンは昼のうちから逃げ道を見ている。
同じ場所でも、見ているものが違う。
家に戻ると、アンナは土の入った布袋を外の台に置いた。
薬草棚には入れない。
家の中にも持ち込まない。
「ヨウカ。言えるところだけでいい。畑の端、どうだった?」
急に視線が集まった。
喉が固まる。
静か。
それだけでは足りない。
鳥が少ない。
虫も少ない。
葉は残っているのに、奥が眠っている。
「音が、薄い」
アンナの手が止まった。
「音が薄い」
「うん。村の音はある。でも、森の中の音が少ない」
ヨシュアが頷く。
「分かる」
アンナは木札に書いた。
森端、音薄い。
きれいな言葉ではない。
でも、伝わる。
「葉は?」
「死んでない。ただ、元気じゃない」
薬草端、枯れず、色鈍い。
村長が木札を覗き込む。
「これならルーベルでも分かる」
長く話すより、短く残す。
「ルーベルへ知らせた方がいいわ」
アンナが言う。
「村だけで判断する話じゃない」
ヨシュアも頷いた。
⸻
返事は、手紙ではなかった。
二日後の昼前、村の入口が騒がしくなった。
荷車の音。
人の足音。
聞き覚えのある声。
アンナが薬草棚の前で手を止める。
「早いわね」
庭に出ると、カリンがもう来ていた。
手ぶらだ。
「ミラさん?」
「たぶん」
しばらくして、ヨシュアと村長が戻ってきた。
その後ろに、ミラがいる。
さらに、背の高い女の人が一人。
リディアだ。
腰には革の筒。
手には、紐で束ねた木札。
ミラは俺に気づくと、軽く手を上げた。
「ヨウカちゃん。来ちゃった」
言い方は軽い。
でも、目は笑っていない。
リディアもこちらを見る。
「久しぶりね。今日は、無理に話さなくていいわ」
その一言で、喉の奥が楽になった。
ミラはアンナと短く挨拶を交わし、外の台へ向かった。
土の小瓶を置いた場所だ。
「中には入れなかったのね」
「ええ。薬草棚にも近づけていません」
「正解です」
ミラは鞄から薄い手袋を取り出した。
リディアは革筒から丸めた地図を広げる。
紙ではない。
薄くなめした皮のようなものに、川と道と木々の印が描かれている。
村長の家ではなく、アンナの家の庭。
そこで話が始まった。
木の台に、先日の木札が置かれる。
森端、音薄い。
薬草端、枯れず、色鈍い。
「この“音薄い”」
リディアが指先で木札を叩いた。
「誰の言葉?」
アンナが俺を見る。
答えていいらしい。
「私」
「いい記録ね。静か、より使いやすい」
「そうなんですか?」
「静か、だけだと人によって違う。音が薄いなら、村の音はあるけれど、木々の中の音が足りない、という感じが残る」
ヨシュアが腕を組む。
「実際、そうだった」
「なら、使えます」
使える。
その言い方は、ミラが薬草を見る時に似ていた。
⸻
ミラは鞄から小皿を三枚出した。
白い皿。
灰色の皿。
黒い縁の皿。
それぞれに小さな印が刻まれている。
「色、違う」
「混ぜないためよ。慌てても間違えにくいでしょう」
皿の色。
袋の色。
木札の印。
薬草棚と同じだ。
ミラは白い皿に井戸水を一滴落とした。
変化はない。
次に、下流から取った水。
灰色の皿。
青い葉の端が暗くなる。
最後に、先日の土をほんのわずかだけ水に触れさせた。
黒い縁の皿。
葉の色が沈んだ。
誰も声を出さなかった。
ミラは皿から目を離さない。
「下流の水より、土の反応が強い」
アンナが聞く。
「畑の端が原因?」
「原因か、通り道か、溜まった場所か。そこはまだ言えません」
ミラの返事は早かった。
言えないことは、言えない。
リディアは地図の上に木札を置いた。
フィル村。
小川。
薬草畑。
上流へ向かう細い線。
その先は、急に印が減っている。
「これはルーベル側に残っている古い水路図です。正確ではありません。でも、村の記録と合わせると、見える場所が増える」
リディアは別の木札を置いた。
ルーベル側の記録らしい。
黒い根の欠片。
湧き石。
重い水。
精霊反応、弱。
短い言葉なのに、胸の奥が冷えた。
カリンの指が俺の袖に触れる。
握らない。
でも、そこにいる。
リディアは、村の木札とルーベルの木札を地図の上で並べ替えた。
「村は、昨日と今日の違いに強い。誰がどこを通るか、水をどう使うか、鳥が戻ったか。毎日見ている人が一番分かる」
村側に木札が置かれる。
「でも、上流の古い流れや、過去の記録はここだけでは足りない」
ルーベルの木札が、上流の線へ動く。
「薬草の反応は薬師が見る。水の流れは地図と記録を見る。精霊のことは、また別の知識がいる」
別の知識。
森。
精霊。
エルフ。
言葉が頭に浮かんだが、口には出さなかった。
会っていないものは、分からない。
村長が地図を見る。
「では、上流へ行くしかないか」
ヨシュアの目が動いた。
アンナがすぐに言う。
「奥へは行かない」
「分かってる」
「その返事は今日も聞いたわ」
リディアが軽く咳をした。
ミラは笑わなかった。
「行くなら、湧き場の手前までです。今日動くには準備が足りません。明日の朝がいい」
ヨシュアは何か言いかけた。
アンナとミラの視線が、同時にヨシュアへ向く。
ヨシュアは黙った。
⸻
午後、村では準備が始まった。
井戸の近くに洗う場所を作る。
戻った人の靴を置く板を出す。
使った布を燃やす場所を決める。
子どもが近づかないよう、縄をもう一本増やす。
リディアは村長の家に泊まることになった。
ミラはアンナの家。
地図と木札は、村長の家。
土の小瓶は、外の台。
黒い縁の皿は洗わず、別に包む。
分けられたものが、あちこちにある。
混ぜないため。
間違えないため。
明日、迷わないため。
夕方、アンナはミラと薬草棚の前にいた。
明日持っていくものを選んでいる。
ミラが小さな布袋を持ち上げる。
「ヨウカちゃん、これは明日持っていかない薬草よ」
「どうして?」
「迷った時に使いやすい薬は、迷った時に使ってしまうから。だから置いていく。使わない準備もあるの」
使わない準備。
持っていかないことも、準備。
カリンはそれを聞いて、自分の手を見た。
盾も木剣も持っていない手。
明日も、たぶんその手のままいる。
布団に入る前、窓の外を見た。
村はいつもより明るかった。
井戸の近く。
村長の家。
縄の手前。
小さな明かりが、いくつか灯っている。
全部を照らすほどではない。
ただ、人がいる場所は分かる。
村だけでは見切れない。
だから、村は動いている。
ルーベルから来た人がいる。
明日、手前まで行く人がいる。
村に残る人がいる。
それぞれの場所に、明かりがあった。
俺は布人形を抱き直す。
森の端は、静かだった。
でも、村は静かではなかった。




