なんか増えても減らないものがあるらしい
次の日、父さんが台所横の棚を空にしていた。
布。
木皿。
古い瓶。
使っていない紐。
季節の違う上着。
そういうものが、床に並んでいる。
母さんは椅子に座ったまま、父さんの手元を見ていた。
「それは奥でいいわ」
「これは?」
「まだ使う」
「これは?」
「捨てないで」
「使っているのか」
「使っていなくても、捨てないものはあるの」
父さんは黙って、それを別の場所へ置いた。
俺は椅子に座り、木札を持っていた。
物置棚、整理。
そこまで書いて、手が止まる。
何のために。
「母さん」
「なあに?」
「棚、なんで?」
母さんは腹に手を置いた。
「これから、必要なものが増えるかもしれないから」
必要なもの。
小さい布。
柔らかい布。
母さんが使うもの。
まだ見えない誰かが使うもの。
見えないものの場所を、先に作っている。
棚には空いた段ができていた。
俺の木札箱が置いてある段の、すぐ近くだ。
近いだけだ。
そう分かっていても、指が木札の端をこする。
父さんがこちらを見た。
「ヨウカの箱は動かさない」
「言ってない」
「顔に出てる」
「どんな顔?」
父さんは答えなかった。
カリンと同じだ。
母さんが笑う。
「ヨウカのものは、ヨウカの場所に置くわ」
「うん」
「変えるものと、変えないものを分けているだけよ」
分ける。
薬草棚でも、記録でも聞いた言葉だ。
俺は新しい木札を取る。
ヨウカの箱、そのまま。
書いてから、父さんを見た。
「それは記録か?」
「確認」
「そうか」
父さんはそれ以上言わなかった。
木札は、箱の上に置いた。
変な木札だ。
でも、そこにあると息がしやすい。
昼前、カリンが来た。
手には小さな布包み。
「何?」
「布」
「見ていい?」
「うん」
開くと、柔らかい布が数枚入っていた。
前にカリンが人形を作った時の残り布らしい。
色は薄い。
端はきれいに整っている。
「赤ちゃん用?」
カリンは頷いた。
「たぶん、使える」
母さんが布を受け取る。
「ありがとう、カリンちゃん。柔らかいわね」
「人形の残り」
人形。
俺は椅子の横に置いていた布人形を見る。
カリンが昔作ってくれた人形だ。
赤ちゃん用の布。
俺の布人形。
同じカリンの手から出たものが、別の場所に置かれていく。
嫌ではない。
けれど、すぐに嬉しいとも言えない。
物や場所が動く時、俺の頭はまず減る方を考える。
誰かに渡る。
自分の分がなくなる。
声をかけられる順番が変わる。
そういう計算が、勝手に走る。
俺は布人形を手元に引き寄せた。
幼稚だ。
そう思った。
でも、手は離れなかった。
カリンがそれを見る。
「ヨウカのは、ヨウカの」
「分かってる」
「持ってていい」
「うん」
「赤ちゃんの布は、別」
カリンは柔らかい布を指した。
「こっち」
それから、俺の布人形を指す。
「こっち」
短い。
でも、分かりやすい。
母さんも頷いた。
「そうね。別のものね」
父さんが棚の空いた段へ、カリンの布を置く。
俺の木札箱とは別。
布人形とも別。
新しい布が棚に収まった。
布人形は、俺の膝にある。
昼食は、父さんが作った。
昨日より音が小さい。
鍋を置く時も、皿を出す時も、昨日より静かだった。
母さんは椅子に座ったまま、時々口を出す。
「その葉は最後」
「分かってる」
「塩は?」
「まだ」
「火は?」
「弱くした」
母さんは満足そうに頷いた。
父さんが俺を見る。
「昨日よりましだろう」
「うん」
「笑うな」
「笑ってない」
カリンが横で口元を押さえた。
父さんは見なかったことにした。
食卓に皿が並ぶ。
母さんの皿は少なめ。
俺の皿はいつも通り。
カリンの分もある。
父さんの皿には、焦げた葉が多かった。
母さんがそれを見て言う。
「自分の皿に焦げたところばかり入れないの」
父さんの手が止まる。
「食べられる」
「そういう話ではないわ」
「……分かった」
父さんは焦げたところを戻し、全体に分けた。
俺の皿にも、小さな焦げが一つ来る。
苦い。
でも、父さんだけが苦いところを食べるのも違う。
母さんは何も言わなかった。
母さんが俺の皿を見る。
「足りる?」
「足りる」
「本当に?」
「うん」
母さんはパンを割った。
「これは?」
「母さんの」
「食べられる分だけよ」
母さんは半分を自分の皿に残し、半分を俺の皿に置いた。
俺はパンを見た。
母さんの皿にも、まだ半分残っている。
四歳の子どもが、食卓のパンで何を考えているのか。
自分でも面倒になる。
でも、仕方ない。
俺にとって、安全な家はまだ新しい。
「ヨウカ」
母さんが言う。
「はい」
「パンを難しい顔で見ないの」
「……うん」
カリンが俺の皿を覗く。
「食べる?」
「食べる」
パンは温かかった。
食べれば、ただのパンだった。
午後、母さんは布を仕分けた。
カリンが持ってきた柔らかい布。
古い布。
洗って使える布。
破れた布。
俺は木札を書く。
赤ちゃんの布、新しい棚。
古い布、洗う。
破れ布、確認。
母さんが横から言う。
「捨てる前に見るわ」
「使えるところ、ある?」
「あるかもしれない」
「じゃあ、確認」
父さんがその木札を棚の端に置いた。
捨てるもの。
残すもの。
まだ決めないもの。
布でもそうなら、気持ちもそうなのかもしれない。
嬉しい。
不安。
分からない。
どれか一つに決めなくてもいい。
そう思ったら、胸の奥が軽くなった。
全部ではない。
カリンが俺の顔を覗く。
「疲れた?」
「考えた」
「考えすぎ?」
「たぶん」
カリンは頷いた。
「外、行く?」
「母さんは?」
母さんが笑う。
「庭までならいいわ。私はここで布を分けているから」
庭まで。
遠くではない。
縄の方へも行かない。
母さんから見える場所。
俺とカリンは庭へ出た。
井戸のそばの芽は、前より伸びている。
リリの花飾りは、石で押さえられたまま。
風は昨日ほど強くない。
カリンは庭の端に座った。
俺も横に座る。
「赤ちゃん、来る?」
「たぶん」
「ヨウカ、いや?」
すぐには答えられなかった。
嫌ではない。
でも、嬉しいと言い切るには早い。
「分からない」
そう言った。
カリンは頷く。
「分からない、でいい」
「いい?」
「うん」
「なんで?」
「まだ来てない」
確かに。
まだ来ていない。
まだ見ていない。
泣き声も聞いていない。
抱いてもいない。
何も減っていない。
頭だけが先に走っている。
カリンは続ける。
「来たら、見る」
「うん」
「それから」
それから。
カリンらしい答えだった。
先に全部決めない。
来たら見る。
見てから考える。
俺は井戸のそばの芽を見る。
春芽、井戸横。
あれも、最初はただの小さな芽だった。
伸びるかどうかは、見ていくしかない。
夕方、母さんは台所の椅子でうとうとしていた。
父さんが声をかけようとして、やめる。
俺も木札を持ったまま止まる。
カリンが指を口に当てた。
静かに。
家の中の音が小さくなる。
鍋の火を弱める音。
皿をそっと置く音。
椅子を引かずに持ち上げる音。
母さんが寝ている。
それだけで、家の動きが変わる。
でも、家は止まらない。
父さんが鍋を見る。
カリンが布を畳む。
俺が木札をまとめる。
母さんが目を覚ました時、驚いた顔をした。
「寝てた?」
父さんが頷く。
「寝てた」
「起こしてくれてもよかったのに」
「起こすなと言われた」
父さんが俺の木札を指す。
困ったら、大人を呼ぶ。
母さん、寝ていたら急ぎでないことは後。
母さんはそれを見て笑った。
「そうだったわね」
弱い笑い方だった。
でも、ちゃんと母さんの笑い方だった。
夜、木札を箱にしまう前に、今日の分を並べた。
ヨウカの箱、そのまま。
赤ちゃんの布、新しい棚。
破れ布、確認。
母さん、寝ていたら後。
父さん、焦げを分ける。
最後の木札を見て、父さんが渋い顔をした。
「それも残すのか」
「記録だから」
「消せ」
「リディアさんは、同じ言葉が大事って」
「それは違う記録だ」
母さんが笑った。
カリンも笑った。
父さんは諦めた顔で木札を戻した。
家の中に、赤ちゃんの布が置かれた。
母さんは前より休むようになった。
父さんは台所に立つ時間が増えた。
俺の木札も、箱の中で厚くなった。
でも、俺の箱は同じ場所にあった。
布人形も、俺の膝にあった。
カリンは今日も横に座った。
まだ全部は信じきれない。
それでも、今日の木札は箱に収まった。
カリンの紐でまとめると、少し膨らむ。
増えた分だ。
俺は布人形を抱き直す。
胸の奥のざわつきは、昨日より静かだった。
どうやら、増えても減らないものがあるらしい。




