なんか影の線は消すまでが大事らしい
「入った!」
「入ってない!」
布ボールが丸太の横を抜けた瞬間、トマと双子が同時に叫んだ。
村の空き地に置かれた、二つの丸太。
その間を通れば一点。
それだけの簡単な遊びなのに、今日だけで何度目の揉め事だろう。
「今のは入ったって!」
「外だよ! 丸太の外だった!」
「ちょっとだけ内側だった!」
「ちょっとだけ外!」
どちらも譲らない。
俺は問題の場所を見た。
地面に引いた線は、もうほとんど消えていた。
みんなが走り、歩き、転がったボールを追いかけたせいで、土の上の線が曖昧になっている。
これでは揉める。
揉めて当然だ。
「線、引き直す?」
俺が言うと、トマがすぐに首を振った。
「すぐ消えるじゃん」
それはそう。
石を並べれば分かりやすいが、転んだ時に痛い。
棒で深く削れば見えるが、足を引っかけるかもしれない。
邪魔にならない線。
見えて、触っても危なくなくて、終わったら消せる線。
俺は少し考えてから、アンナの方を見た。
アンナは少し離れた場所で薬草籠を抱えていた。
見守り、というより見張りに近い。
「アンナ」
「なに?」
「ちょっとだけ、魔法で線を引いていい?」
アンナの眉がわずかに動いた。
「どんな線?」
「地面に薄い影。触っても何もないやつ。門のところだけ」
アンナはすぐには答えなかった。
俺を見る。
地面を見る。
周りの子どもたちを見る。
それから、短く言った。
「小さく。空き地の中だけ。疲れる前に消すこと」
「うん」
許可が出た。
トマの顔が一気に明るくなる。
「魔法使うのか!」
「ちょっとだけ」
「すげえ!」
まだ何もしていない。
期待値が高すぎる。
カリンが俺の横に来た。
「広げすぎない」
「分かってる」
「消せる?」
「消す」
「疲れる前」
「疲れる前」
確認が増えている。
昔なら、カリンはすぐ「だめ」と言っていた。
今は違う。
俺が自分で止まれるかを、先に確かめてくれる。
それが少し嬉しい。
そして少し、逃げられない。
俺は丸太の間に立った。
光ではない。
闇でもない。
ただ、地面に薄い影を置く。
木陰の端のような、細くて淡い影。
布をかけるように。
押し潰すのではなく、そっと乗せる。
指先に魔力を集める。
地面に、細い影が伸びた。
丸太と丸太の間。
門の内側を示す線。
ほんの少し、周りより暗い。
「おお!」
トマが声を上げる。
リリがしゃがみ込んだ。
「触れる?」
「触ってもいいよ。何もないから」
リリがそっと影の線に指を置く。
「ほんとだ」
双子も真似する。
影はただの影だ。
冷たくもない。
痛くもない。
つまずきもしない。
でも、見える。
「これなら分かる!」
トマが嬉しそうに言った。
俺は少しだけ得意になりかけた。
その瞬間、影の端がにじんだ。
線が、思ったより外側へ広がる。
「あ」
アンナの声が飛んだ。
「ヨウカ」
「分かってる」
俺は息を整えた。
広げない。
今はいらない。
線だけ。
薄く。
細く。
魔法は、出せばいいものではない。
出したあと、形を保つ。
余計なところへ流さない。
そして、終わったら消す。
俺が意識を少し引くと、影は元の細さに戻った。
アンナが小さく頷いた。
カリンも俺を見て、少しだけ表情を緩める。
「できた」
「うん。できた」
派手ではない。
敵を倒したわけでもない。
ただ、遊びの線を引いただけ。
でも、ちゃんと役に立っている。
それが嬉しかった。
⸻
影の線があると、遊びは止まりにくくなった。
ボールが線の内側を通ったかどうか、みんなで見れば分かる。
「入った!」
「入ってない!」
の言い合いはまだある。
でも、前より短い。
「線のこっちだろ」
「じゃあ入ってる」
「次!」
いい。
分かりやすい決まりは、遊びを楽にする。
トマはすっかり気に入ったらしく、線ぎりぎりを狙い始めた。
「見てろよ、端っこ通す!」
「強くしすぎない」
カリンが言う。
「分かってるって」
トマは三歩で転がした。
布ボールは影の線をかすめるように門を通る。
「入った!」
今度は誰も文句を言わなかった。
線があるからだ。
トマは得意そうに胸を張った。
「俺、うまくなってるだろ」
「うん。ちゃんと端を見てた」
俺がそう言うと、トマは満足そうに笑った。
言いたいことは他にもあった。
踏み出しが少し外へ逃げているとか、最後に体が横を向きすぎているとか。
でも、今日は言わない。
今は、それでいい。
トマは自分で見て、自分で狙った。
その方が大事だ。
次はカリンの番だった。
カリンは布ボールを持ち、門を見る。
守る役は双子の一人。
真ん中に立っている。
右端には小石。
左端は空いている。
カリンがちらりと俺を見た。
「聞いて」
「どこが空いてる?」
俺が聞くと、カリンは門を見た。
「左」
「どうして?」
「右、石」
「うん」
カリンは三歩で左へ転がした。
布ボールは影の線の内側を通り、丸太の間を抜けた。
入った。
リリが拍手する。
「カリンちゃん、すごい!」
カリンは一瞬だけ目を伏せた。
たぶん照れている。
「守るだけじゃない」
小さな声だった。
でも、前より自然に聞こえた。
俺は頷いた。
「うん。守るだけじゃない」
カリンは布ボールを拾い、次の子へ渡した。
その動きが、少し軽い。
守るだけではない。
止めるだけでもない。
自分で見て、自分で狙う。
その小さな経験が、カリンの中に残ってくれたらいいと思った。
⸻
しばらくして、リリの転がした布ボールが空き地の端へ向かった。
門を外れ、ころころと草の方へ進む。
その先には、森側へ続く道がある。
まだ距離はある。
溝にも届いていない。
でも、森側に近いことは確かだった。
リリが追いかけようとした。
「取ってくる!」
カリンが動いた。
「止まって」
強い声ではない。
でも、はっきりしていた。
リリの足が止まる。
トマが言う。
「まだ森側じゃないだろ」
「でも、近い」
カリンはボールを見る。
次に、周りを見る。
大人の位置。
森側の柵。
俺の位置。
小さい子たちの位置。
ちゃんと見ている。
俺だけではなく、全部を。
「大人、呼ぶ」
カリンが言った。
トマは不満そうに口を尖らせた。
「ボールくらい取れるって」
「くらいで、行かない」
カリンの声は変わらない。
俺は草の方を見た。
ボールが落ちているだけだ。
黒い泥があるわけでもない。
けれど、森側の土に視線が引っ張られそうになる。
何かないか。
変な反応はないか。
見ておいた方がいいのではないか。
胸の奥が少し冷える。
俺は息を止めた。
今はいらない。
リディアの言葉を思い出す。
今、自分で持たなくていいものは、持たない。
俺はボールから目を外した。
代わりに、カリンの横顔を見る。
カリンはこちらを見ずに聞いた。
「閉じられた?」
「……うん。少し」
「じゃあ、待つ」
「うん」
待つ。
これも練習だ。
アンナがこちらに気づき、歩いてきた。
「どうしたの?」
カリンが指差す。
「ボール、森側。取りに行ってない」
アンナはすぐに頷いた。
「正解」
その言葉に、トマが少し驚いた顔をした。
アンナは草の方へ行き、足元を確認してから布ボールを拾う。
そのまま地面も少し見る。
「変なものはなさそうね。でも、判断は良かったわ」
カリンは小さく頷いた。
リリもほっとしたように息を吐く。
トマは少しだけ目を逸らした。
「俺、行こうと思った」
アンナはトマを見る。
「行かなかったなら、それでいいわ。次からも、森側に転がったら大人を呼んで」
「……分かった」
ボール一つで大げさ。
そう思う人もいるかもしれない。
でも、ボール一つのために危ない方へ行かない。
それを遊びの中で覚えられるなら、かなり大事だ。
布ボールは俺の手に戻ってきた。
少し土がついている。
でも、ただの土だった。
それだけで十分だった。
⸻
遊びは再開した。
新しい決まりが一つ増えた。
森側に転がったら、大人を呼ぶ。
トマは最初、不満そうだった。
だがリリが言った。
「ボールなくなるより、トマが怒られる方がいや」
「俺、怒られる前提かよ」
「行ったら怒られる」
「……まあ、怒られるな」
トマは妙に納得した顔をした。
それでいいのか。
まあ、子どもにとっては十分な理由なのかもしれない。
俺は影の線を見た。
まだ保っている。
ただ、端が少しぼやけ始めていた。
維持するのに、思ったより意識を使っている。
疲れた、というほどではない。
でも、続ければ疲れる。
ここでやめるべきだ。
「線、消す」
俺が言うと、トマがすぐに反応した。
「えー、まだ遊べるだろ」
「疲れる前に終わり」
「もう一回引けばいいじゃん」
「今日は終わり」
カリンが横から言った。
トマはカリンを見る。
「カリンまで」
「明日もやるなら、今日は終わり」
その言葉は強かった。
明日もやるなら、今日は終わり。
続けるために、やめる。
俺は頷いた。
「うん。今日は消す」
地面に置いた影を、そっと薄める。
布を外すように。
扉を閉めるように。
影はゆっくり消えた。
ただの地面に戻る。
トマは残念そうだったが、今度は文句を言わなかった。
「じゃあ、明日な」
「明日」
明日もできる。
そのために、今日は終わる。
俺は、その感覚を少しずつ覚え始めていた。
⸻
夕方、アンナに影の線のことを改めて聞かれた。
怒られるかと思ったが、そうではなかった。
「使い方としては悪くなかったわ」
「ほんと?」
「小さく使えていたし、消せた。役にも立った」
よかった。
俺は少し肩の力を抜いた。
「でも、毎回は駄目」
やはり来た。
「便利だからといって、すぐ魔法に頼らないこと。線なら、布でも紐でも代わりはできるわ」
「うん」
「魔力は使えば育つわ。でも、使い切ればいいわけじゃない」
アンナは俺の手を取って、指先を軽く包んだ。
「小さい器に、無理やり水を流せば、器の方が割れるの」
俺は自分の手を見る。
小さい手。
四歳の手。
魔力はある。
でも、それを通す体はまだ小さい。
アンナは続けた。
「ちゃんと使って、ちゃんと止めて、ちゃんと休む。それで少しずつ育つの」
「疲れるまでやらない?」
「疲れたと気づいた時には、もう遅いこともあるわ」
横からヨシュアの声がした。
「鍛えるのと壊すのは違う」
俺はヨシュアを見た。
短い。
でも、よく分かる。
鍛えるのと壊すのは違う。
ボール遊びも同じだ。
続けたいなら、怪我をしないようにする。
魔法も同じ。
強くなりたいなら、壊さないように使う。
アンナは俺の頭を撫でた。
「今日は、終われたのが一番よかったわ」
影の線を作れたことではなく。
役に立ったことでもなく。
消せたこと。
終われたこと。
それを褒められた。
少し不思議だった。
でも、たぶん今の俺には、それが一番必要なのだろう。
⸻
夜。
俺は寝床で布人形を抱えていた。
今日は魔法を使った。
戦うためではない。
誰かを助けるため、というほど大げさでもない。
ただ、遊びの線を引くため。
それだけだった。
けれど、その線があるだけで、揉め事は減った。
みんなが分かりやすくなった。
森側へ行かない判断にもつながった。
小さな影の線。
小さな魔法。
でも、ちゃんと役に立った。
ただし、使ったら終わる。
便利だからといって、ずっと使い続けない。
閉じる。
消す。
休む。
それも魔法の練習だ。
カリンが帰る前に言った。
「明日、布の線?」
「たぶん」
「影も、またする?」
「たまに」
「たまに」
カリンは頷いた。
「その方がいい」
俺もそう思う。
毎回魔法ではなく、必要な時だけ。
使ったら、ちゃんと消す。
それくらいが、今の俺にはちょうどいい。
アンナが灯りを落とす。
部屋に、柔らかい闇が降りる。
怖い闇ではない。
休むための闇。
今日、地面に引いた影の線も、少しだけこれに似ていた。
怖がらせるためではなく、分かりやすくするための影。
俺は布人形を抱き直し、目を閉じた。
どうやら、影の線は思ったより役に立つらしい。
そして俺は、魔法を使うことより、使い終わったらちゃんと消すことを覚えなければならないらしい。




