なんか見てきたものを話すらしい
朝、目が覚めても、体が重かった。
熱はない。
腹も減っている。
だから、ただの疲れだ。
それなのに、耳の奥には音が残っている。
荷車の車輪。
人の声。
鍛冶場の金属音。
ミラの声。
犬人の護衛の「止まれ」。
寝ても消えない音が、頭の中で小さく鳴っていた。
布人形を抱き直す。
昨日は袋の奥に入れて、ルーベルまで持っていった。
町では出さなかった。
外へ行っても、帰ってくる場所がある。
そのことが、今日はいつもよりありがたかった。
「ヨウカ」
アンナの声がする。
「体は?」
「重い」
アンナの手が額に触れた。
「熱はないわね。今日は無理しないこと」
「うん」
窓の外に目を向ける。
リリたちが来るかもしれない。
昨日、話を聞くと言っていた。
ルーベルの話。
犬人の護衛の話。
ドワーフの職人の話。
話したい。
でも、全部を言葉にできる気がしない。
「母さん。どこから、話す?」
アンナは笑った。
「一番話したいところからでいいんじゃない?」
「一番……」
それが難しい。
多すぎた。
音も、匂いも、人も、見たものも。
黙っていると、アンナが俺の髪を撫でる。
「分からないなら、“多かった”からでいいわ」
「それ、昨日も言った」
「ええ。言ってたわね」
「だって、多かった」
「なら、それが本当なのよ」
多かった。
今の俺には、それが一番近い。
⸻
食べ終わる頃、外から声がした。
「ヨウカちゃーん!」
リリだ。
続けて、トマとノルの声も飛んでくる。
「ルーベルの話!」
「聞かせて!」
早い。
庭に出ると、三人はもう待っていた。
リリは目を輝かせている。
トマは座る前から跳ねそうだ。
ノルは俺の手元を探っている。
「お土産は?」
最初にそれか。
「買ってない」
「えー」
「でも、話はある」
三人が庭に座る。
庭の端にはカリンもいた。
今日は盾を持っていない。
俺は息を吸った。
何から話すか。
「ルーベルは、音が多い」
トマが首をかしげた。
「音?」
「荷車。人の声。歌。鍛冶の音」
「鍛冶!」
トマの目が光る。
「剣作ってた!?」
「剣は、見てない。でも、鍋とか、釘とか、盾の縁とかはあった」
その言葉に、カリンが顔を上げた。
「盾の縁、大事」
トマがカリンを見る。
「強いやつ?」
「重ければいいわけじゃない。重い盾は、体が持っていかれる」
カリンの声は真面目だった。
「自分に合うのが大事」
リリが感心したように言う。
「カリンちゃん、なんか大人みたい」
「ゴルダンが言ってた」
「ゴルダンさん?」
「ドワーフの職人」
トマとノルが同時に叫んだ。
「ドワーフ!」
「いたの!?」
「いた」
「どんな!?」
俺は考えた。
ただ「犬みたい」「小さいおじさん」と言うと、何かが抜け落ちる気がした。
「背は低い」
「うん!」
「でも、小さくない」
三人が黙る。
分かりにくかったらしい。
カリンが助けてくれた。
「強そう」
「おお!」
トマには一番通じた。
「火花出た?」
「出た。でも、近づいたら危ない。熱いから」
「そりゃそうか」
ノルが身を乗り出す。
「犬の人もいた?」
「犬人の護衛さん」
「犬みたい?」
犬みたい。
でも、ただ犬みたいと言うのは違う気がした。
「犬の耳と、しっぽがある人。護衛さんだった」
リリがゆっくり頷く。
「荷物を守る人?」
「うん。すごかった」
カリンも頷いた。
「声が通った。止まれって言った」
それだけで、三人の顔が変わる。
ネリのことを思い出した。
青い布。
荷車。
膝の擦り傷。
全部は話さない方がいい。
でも、何もなかったことにもしたくない。
「迷子の子がいて、荷車が来て、危なかった。でも、大人が助けた。犬人の護衛さんも止めた」
庭の空気が静かになる。
「ヨウカちゃんは?」
リリの声は小さかった。
「布を渡した。治したのはミラさん。私は渡しただけ」
リリは真面目な顔で頷く。
「でも、いる布だったんでしょ?」
ミラと同じようなことを言う。
「うん。たぶん、役に立った」
隣でカリンが言う。
「役に立った」
そう言われると、少し照れる。
悪くない。
⸻
ノルが、まだ気になるようだった。
「その犬の人、名前は?」
名前。
そういえば、知らない。
犬人の護衛さん。
ずっとそう呼んでいる。
でも、あの人にも名前がある。
当たり前なのに、昨日はそこまで考えられていなかった。
「知らない」
「聞かなかったの?」
「仕事してた」
リリが頷いた。
「また会えたら、聞けるといいね」
名前を聞く。
それだけで、次に会う時の距離が少し変わる気がした。
トマが待ちきれない顔で言う。
「ゴルダンは? 名前あるの?」
「ある」
カリンが当然みたいに答えた。
犬人の護衛さんの名前は知らない。
ただ、ドワーフの職人さんの名前は知っている。
それだけで、話の感じが変わる。
リリが思い出したように手を上げた。
「あと、昨日言ってた……森の薬草に詳しい人たち。エルフ?」
トマがすぐに首をかしげる。
「エルフってなに?」
ノルも続く。
「食べ物?」
三人とも、エルフを知らないらしい。
俺も会ったことはない。
ミラから名前を聞いただけだ。
「私も、ちゃんとは知らない。会ってないから」
「いるの?」
トマが聞く。
「ミラさんが、いるって。森に、たぶん」
「強い?」
「分からない」
「耳長い?」
「分からない」
「何も分からないじゃん」
ノルが笑った。
その通りだ。
エルフについて、俺はほとんど知らない。
でも、知らないものを分かったふりで話すのは違う。
「会ってないから、分からない」
リリは頷いた。
「会ったら?」
「こんにちはって言う」
トマが笑う。
「まずそこ?」
「うん。いきなり薬草教えてって言うのは、だめ」
相手がいる。
相手の都合がある。
会えたらすぐ教えてもらえる、というものではない。
「エルフって、怖いの?」
リリが聞いた。
怖いのか。
優しいのか。
全部、分からない。
「分からない。でも、失礼はだめ」
「会ってないのに?」
「会ってなくても」
言ってから、自分でも難しいことを言った気がした。
でも、たぶん合っている。
会っていない相手だから、雑にしていいわけではない。
⸻
その時、トマが近くの細い枝を拾った。
「こういうの、剣みたいに――」
枝の先がノルの方を向く。
カリンが、すっと半歩動いた。
枝とノルの間に立つ。
何も言わない。
ただ、立っただけ。
トマは自分の枝の向きに気づいた。
「あ」
枝を下ろす。
「振らない」
カリンが短く言った。
「うん」
トマは素直に枝を地面へ置いた。
前なら、カリンはもっと強く止めたかもしれない。
今日は、先に場所を変えた。
それから、短く言った。
リリが庭の端を見る。
「置くなら、あっち?」
「うん」
カリンは枝を拾い、石の横に置いた。
「ここ。踏まない。人に向かない」
「振るなら?」
「大人がいる時。広いところ。剣も道具。道具は、場所」
トマは口を尖らせた。
完全に嫌そうではなかった。
ゴルダンの話を聞いた後だからだろう。
道具。
場所。
使う人。
そういう言葉が、子どもたちの中にも残り始めている。
昼前になって、リリたちは帰っていった。
「また聞く!」
「ドワーフの話もっと!」
三人は手を振りながら走っていく。
俺も手を振った。
三人の背中が見えなくなってから、息が抜けた。
「疲れた」
「話すのも疲れる?」
カリンが聞く。
「うん」
「私も」
⸻
午後、アンナの薬草棚の前に座った。
昨日まではいつもの棚だった。
ただ、ミラの工房を見た後だと、並んだ瓶や木札の意味が変わる。
「ミラさんの棚と、似てる」
「そう?」
「うん。でも、ミラさんの方が多い」
「それはそうね。あちらは薬師工房だもの」
アンナは木札を一枚取った。
「じゃあ、今日は一つだけ。これは何に使うものだった?」
一つだけ。
ありがたい。
字の形。
袋の匂い。
棚の場所。
「お腹。カラネ葉?」
「正解」
胸が軽くなる。
そこで終わらず、もう一つ聞いてみた。
「これは、ミラさんの工房にもある?」
アンナは少し考えた。
「あると思うわ。でも、名前や干し方が少し違うかもしれない」
「同じ草でも?」
「土地が違うと、少し変わることがあるの」
土地が違うと変わる。
フィル村とルーベル。
同じ薬草でも、同じではない。
小さな袋の奥が、急に広くなった。
⸻
夕方、レナードさんがカリンを迎えに来た。
セリアさんも一緒だった。
カリンは庭にいる。
盾は持っていない。
話したいことがある顔をしていた。
「ルーベルはどうだった?」
「音が強かった。火も強かった」
「工房通りか」
カリンは頷く。
「ゴルダンがいた」
レナードさんの顔が変わった。
「ゴルダン?」
「盾、見てもらった」
「お前の盾を?」
「うん」
レナードさんの背筋が伸びる。
「何て言ってた?」
カリンは真面目な顔で言った。
「悪くないって」
レナードさんが固まった。
セリアさんが口元を押さえる。
カリンは真剣だ。
「縁金は、今くらいでいいって。重くしすぎると、盾に振られるって」
レナードさんは目を閉じた。
それから息を吐く。
「そうか。悪くない、か」
「うん」
「ゴルダンがそう言ったなら、褒めてるな。あの人は、普通に駄目なら駄目と言う」
カリンの目が動く。
「褒めてる?」
「ああ」
「じゃあ、父さん、すごい」
短く。
まっすぐ。
レナードさんは今度こそ照れた。
「いや、まあ……カリンに合うように直しただけだ」
「それが大事って言ってた。持つ人に合うのが大事」
レナードさんは黙った。
セリアさんが静かに笑う。
「よかったねえ、レナード」
「うるさい」
そっぽを向いた顔は、嫌そうではない。
「大きくなったら、変わる」
「そうだな」
レナードさんは頷いた。
「お前が大きくなれば、盾も直す。持ち方も変わる」
「重かったら言う」
「それは大事だ。言えよ。重いなら重い。合わないなら合わない。守る道具で、お前が倒れたら意味がない」
「うん」
その返事に、胸の奥が温かくなった。
ルーベルで聞いた言葉が、フィル村でレナードさんの言葉になっている。
ゴルダンからカリンへ。
カリンからレナードさんへ。
レナードさんから、またカリンへ。
見てきたものが、村の中を回っていた。
⸻
夜。
布団の中で、布人形を抱く。
今日はルーベルへ行っていない。
でも、ルーベルの話をした。
リリたちに話した。
アンナと薬草棚を見た。
カリンがレナードさんに盾の話をした。
見てきたものは、話すと少し変わる。
ただの思い出ではなくなる。
誰かの考えることになる。
誰かの練習になる。
「母さん。話すのも、調合?」
アンナの目が丸くなった。
それから笑う。
「そうかもしれないわね」
「ちょうどいい大きさにする?」
「ええ。相手が受け取れる形にするのは、大事ね」
雑に話すと、雑に渡る。
短すぎると、違うものになる。
長すぎると、重くて持てない。
犬人の護衛さんは、かっこいい護衛さんになった。
ゴルダンは、強そうな職人になった。
エルフは、会っていない人たちのままだ。
それでいい。
分かったふりはしない。
でも、雑にも渡さない。
アンナの手が、俺の頭を撫でた。
見るのも。
知るのも。
話すのも。
全部、一度にはできない。
でも、今日みたいに少しずつなら、村の中に残せる。
俺は布人形を抱き直す。
ルーベルは遠い。
でも、今日、少しだけ村に残った。




