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なんか捨て子の女の子に転生したらしい  作者: ダレイワス1世
第二章 フィル村幼年期編
34/62

なんか閉じる練習は役に立つらしい

閉じる練習が本当に役に立つのか。


それが分かったのは、次の日の朝だった。


村の森側の溝に、黒い泥が少し溜まっていた。


雨は降っていない。


けれど夜露と地面に残った水気が、森側の土を少しだけ運んできたらしい。


朝の見回りをしていた村人がそれを見つけ、すぐに村長へ知らせた。


その判断は早かった。


そして、かなり正しかった。


以前なら、ただの泥だと思って掬っていたかもしれない。


だが今のフィル村では、森側の黒いものには誰も素手で触らない。


学んだのだ。


少しずつ。


痛い目を見ながら。


ヨシュアと村長、リディアが確認に向かうことになった。


アンナも後から処理できるように、少し離れて控える。


俺とカリンは、森側の柵からだいぶ手前の場所までなら許された。


近づかない。


触らない。


見すぎない。


この三つは、もうほとんど村の決まりごとになっている。


分かっている。


分かっているのだが、黒い泥が視界に入った瞬間、胸の奥が冷えた。


溝の底に、指先ほどの黒い塊がある。


ただの泥なら、もう少し土っぽいはずだ。


けれどそれは、光を吸うように黒かった。


見ていると、嫌な感じがする。


勝手に文字が浮かびかけた。


【黒い泥】


その先を見ようとして、俺は息を止めた。


今はいらない。


リディアに教わった言葉を、頭の中で繰り返す。


今はいらない。


表示が、少し遠くなった。


完全には消えない。


でも、胸の奥に引っかかる感じが弱くなる。


俺は小さく息を吐いた。


「……閉じられた」


隣にいたカリンが、すぐに俺を見た。


「できた?」


「少し」


「じゃあ、こっち」


カリンは自分の小さな盾を軽く叩いた。


木と革でできた、子ども用の盾。


表面には、練習でついた傷がいくつもある。


俺は黒い泥から目を外し、その盾を見た。


木目。

革紐。

小さな傷。


黒い泥より、ずっと見ていて楽だった。


「ありがとう」


俺が言うと、カリンは短く頷いた。


「うん」


それだけだった。


でも、その短さがよかった。


止められたというより、戻る場所を渡された感じがした。



リディアは長い金属の棒で、黒い泥をほんの少しだけ掬った。


直接触れない。


近づきすぎない。


それを小さな陶器の皿に乗せ、薄い黄色の紙を近づける。


紙の端が、じわりと灰色に変わった。


村長の顔が険しくなる。


「まだ残っているのか」


リディアは頷いた。


「弱いですが、反応はあります。水源から流れてきたものというより、森側の土に残っていたものが溝に集まったのでしょう」


ヨシュアが溝を見る。


「広がるか」


「放っておけば、雨で少しずつ村側へ入る可能性はあります。ただ、溝を作ったおかげで止まっています」


ヨシュアは黙って頷いた。


よかった。


あの溝は、地味だ。


見た目も派手ではない。


英雄の剣でも、魔法の結界でもない。


ただ土を掘って、水の通り道を変えただけ。


でも、それが村を守っている。


リディアは続けた。


「湿ったまま燃やすと煙が増えます。今日は触らず、この周りを囲って乾かしましょう。明日の朝、少量ずつ処理するのがいいです」


アンナが少し離れた場所から頷く。


「分かったわ」


「黒い煙が出たらすぐ包めますか?」


「できる」


アンナの返事は短い。


だが、その短さに安心感がある。


豪炎の魔女。


大きく燃やすだけではない。


必要なものだけを焼き、煙を逃がさない炎。


俺はこの数日で、アンナの炎の怖さと優しさを少しだけ知った。



その時、村の子どもが一人、こちらに近づこうとした。


たぶん、何をしているのか気になったのだろう。


俺より少し年上の男の子だ。


名前はたしか、トマ。


「なにしてるの?」


そう言いながら、柵の方へ歩いてくる。


大人たちは黒い泥を見ていた。


俺は声を出そうとした。


だが、それより早くカリンが動いた。


「だめ」


カリンはトマの前に立った。


盾は構えていない。


でも、体の向きで道を塞いでいる。


トマは不満そうに眉を寄せた。


「なんで」


「黒いの、ある」


「見たいだけ」


「だめ」


カリンの声は大きくない。


でも、まっすぐだった。


トマは少しむっとした顔をしたが、カリンの後ろにいるヨシュアを見て、すぐに足を止めた。


ヨシュアは何も言っていない。


ただ見ているだけだ。


それが一番効いたらしい。


トマは口を尖らせた。


「じゃあ、あとで教えて」


カリンは少し考えてから言った。


「あとで、大人に聞く」


自分が説明するとは言わなかった。


それも正しい。


分からないものを、分かったふうに話さない。


カリンも学んでいる。


俺はその横顔を見た。


昔のカリンなら、俺だけを守ろうとしていた。


でも今は違う。


俺だけでなく、周りも見ている。


近づく子どもを止める。


大人の位置を見る。


危ないものを自分で説明しすぎない。


カリンはちゃんと、守る範囲を広げ始めている。


ヨシュアが短く言った。


「今のは良い」


カリンの背筋が少し伸びた。


「うん」


かなり嬉しそうだった。


顔にはあまり出ていない。


でも、俺には分かる。



リディアは溝の周りに小さな木杭を立て、布を結んだ。


ここから先は近づかない、という印だ。


村長はすぐに周りの大人へ伝える。


「子どもを近づけるな。明日の朝まで触らない。水が流れたらすぐ知らせろ」


村人たちが頷く。


以前より、動きが早い。


誰かが一人でどうにかしようとしない。


見つけたら知らせる。


大人が集まる。


役割を分ける。


それが少しずつ村に根づいている。


俺は、それを見て少し嬉しくなった。


怖いものはまだある。


黒い泥も、黒い根も、正体は分からない。


でも、村は前より少し強くなっている。


怪しいものを見つけた時、触らないで呼ぶ。


たったそれだけでも、ちゃんと強さなのだ。


リディアは俺の方を見た。


「ヨウカちゃん」


「はい」


「今、見すぎませんでしたね」


「……少しだけ見た」


「少しで止められたなら、十分です」


十分。


その言葉は、思ったより嬉しかった。


俺はつい、全部見たくなる。


全部分かりたくなる。


分からないものを分からないまま置いておくのが苦手だ。


でも今日は、止められた。


少しだけ。


リディアは続けた。


「閉じるのは、逃げることではありません。必要な時まで置いておくことです」


「置いておく」


「はい。今、自分で持たなくていいものは、持たない」


その言葉は、胸に残った。


今、自分で持たなくていいものは、持たない。


黒い泥の正体。

森の奥の黒い根。

水の痛み。

外の世界の怖さ。


全部を今の俺が抱える必要はない。


必要な人に渡す。


大人に渡す。


村に渡す。


そして、自分は戻ってくる。


それがたぶん、閉じる練習の本当の意味だった。



昼過ぎ、リディアは村長の家で報告をまとめた。


黒い根の欠片。

森側の溝に出た黒い泥。

井戸水の状態。

南側の水場。

薬草畑の回復具合。


紙の上に、きれいな字が並んでいく。


俺は少し離れた場所から見ていた。


あまり近づくと、書いてある内容を読みたくなる。


それもまた、今はいらないものかもしれない。


「リディア」


「はい?」


「研究者は、何する人?」


リディアは筆を止めた。


少し考えてから答える。


「分からないことを、分からないまま放っておかない人、でしょうか」


「分からないまま?」


「はい。でも、分かったふりもしません」


その答えは、かなりいいと思った。


分からないことを放っておかない。


でも、分かったふりもしない。


俺は黒い泥を思い出す。


見ようとすれば、表示は出る。


でも、詳細不明。


嫌な言葉だ。


それでも、分からないなら分からないまま、丁寧に扱うしかない。


「分からないの、怖い」


俺が言うと、リディアはすぐに頷いた。


「怖いです」


あっさり認めた。


「でも、怖いからといって、急いで名前をつけると間違えます」


「名前」


「毒かもしれない。呪いかもしれない。魔物かもしれない。そう決めつけると、違った時に対応を間違えます」


リディアは紙の上に、黒い根の絵のようなものを描いた。


「だから、今はこう書きます。黒い魔力反応を持つ不明な根状物質」


「長い」


「長いですね。でも、分かったふりをするよりはましです」


俺は少し笑った。


確かに長い。


でも、それが正しいのだろう。


嫌なものは嫌なもの。


分からないものは分からないもの。


そこから始める。


リディアは俺を見た。


「ヨウカちゃんも、見えたものにすぐ名前をつけなくていいですよ」


「うん」


「怖いものを見た時ほど、急いで決めないことです」


それは、俺に必要な言葉だった。


俺はすぐに考えすぎる。


すぐに意味を探す。


すぐに、これは何なのかと名前をつけたくなる。


でも、早く分かりたい気持ちが、間違いにつながることもある。


黒い根も。


水の声も。


俺自身の力も。


まだ名前をつけすぎない方がいいものが、たぶんたくさんある。



夕方、リディアは隣町へ戻る準備を始めた。


本当はもう少し滞在する予定だったらしい。


だが、黒い根の欠片と泥の反応を早く持ち帰った方がいいと判断したそうだ。


村長は丁寧に礼を言った。


アンナも頭を下げた。


ヨシュアは短く言う。


「次はいつ来る」


「雨の季節の前には必ず。それまでに何か分かれば、手紙を送ります」


「分かった」


リディアは俺の方へ来た。


近づきすぎず、少し距離を取ってしゃがむ。


「ヨウカちゃん」


「はい」


「今日、閉じられましたね」


「少し」


「少しでいいです。毎回少しずつです」


「急がない?」


「はい。急がない」


リディアは微笑んだ。


「急いで知るより、ちゃんと生きて、ちゃんと学ぶ方が強いです」


ちゃんと生きて、ちゃんと学ぶ。


この人は、地味なことばかり言う。


でも、たぶん全部大事だ。


魔法の練習も地味。

薬草分けも地味。

溝を掘るのも地味。

閉じる練習も地味。


だけど、その地味なものがなければ、昨日も今日も乗り越えられなかった。


リディアは次にカリンを見た。


「カリンちゃんも」


「うん」


「ヨウカちゃんだけじゃなくて、周りを見られていましたね」


カリンは少しだけ目を丸くした。


褒められるとは思っていなかったのかもしれない。


「できてた?」


「できていました」


カリンは俺を見た。


それから、自分の盾を見た。


「少し」


「はい。少しで十分です」


リディアはそう言って、立ち上がった。



リディアが村を出る時、行商人の荷車に途中まで乗せてもらうことになった。


村人たちが見送る。


ミラほど長くいたわけではない。


でも、リディアが来たことで、村は少し落ち着いた。


分からないことを、分からないまま丁寧に扱う。


見すぎない。


触らない。


広げない。


そして、必要なら調べる。


そういう考え方を置いていってくれた気がする。


俺はアンナの隣で手を振った。


「また来てね」


リディアは少し笑って、手を振り返した。


「ええ。また」


荷車がゆっくり村の道を進む。


その背中が遠ざかっていくのを見ながら、俺は思った。


外の世界には、ああいう人もいる。


怖い人ばかりではない。


俺の力を調べたがる人だけでもない。


守るために、知ろうとする人もいる。


それは、少しだけ希望だった。



夜。


俺は寝床で布人形を抱えていた。


今日は水の声を追わなかった。


黒い根のことも、考えすぎないようにした。


森の方には、まだ何かが残っている。


それは分かっている。


でも、今は寝る。


今はいらない。


俺は目を閉じる。


胸の奥に、遠くの気配が触れそうになる。


それでも、扉を少し閉める。


完全に閉ざすわけではない。


聞こえたものをなかったことにするわけでもない。


ただ、今の自分が持つには重いものを、少し遠くに置く。


それだけだ。


カリンが寝る前に聞いた。


「閉じられる?」


「少し」


「じゃあ、寝る」


「うん」


アンナが灯りを落とす。


部屋が暗くなる。


その暗さは怖くなかった。


布をかけるような闇。


扉を閉めるような闇。


休むための闇。


俺は布人形を抱き直した。


今日は黒い泥を見た。


でも、飲まれなかった。


カリンは俺だけではなく、周りを見た。


村は黒い泥に触らず、大人を呼んだ。


リディアは分からないものを、分からないまま丁寧に持ち帰った。


少しずつだ。


本当に、少しずつ。


でも、その少しが役に立った。


どうやら、閉じる練習は役に立つらしい。


そして俺は、知ることと同じくらい、今は知らないまま置いておくことも覚えなければならないらしい。

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