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なんかフィル村の外は思ったより広いらしい

ルーベルを出る前に、ミラが薬師工房の前まで見送ってくれた。

 

朝に来た時より、工房の匂いが分かる気がした。

 

乾いた葉、苦い根、煎じ薬。

 

それから、甘い花のお茶の匂い。

 

全部が混ざって、ミラの工房の匂いになっている。

 

「今日はよく頑張ったわね」

 

俺は背筋を伸ばした。

 

「はい」

 

頑張った。

 

そう言われると、胸が温かくなる。

 

何を頑張ったのかは、少し難しい。

 

薬を作ったわけでも、黒い根の正体を突き止めたわけでもない。

 

ネリを助けたのも、大人たちと犬人の護衛だった。

 

俺は、布を渡しただけだ。

 

でも今日は、それでよかったのだと思う。

 

ミラは俺の前にしゃがんだ。

 

「ヨウカちゃん。今日見たものを、全部今日分かろうとしなくていいからね」

 

俺は黙った。

 

それは、かなり大事なことに聞こえた。

 

「あとで?」

 

「ええ。あとで思い出して、少しずつ分かるものもあるわ」

 

あとで。

 

ルーベルでは、何度も出てきた言葉だ。

 

今すぐ全部ではない。

 

「うん」

 

ミラはカリンにも顔を向ける。

 

「カリンちゃんも、今日はちゃんと止まれたわね」

 

カリンは目を伏せた。

 

「呼べた」

 

「ええ。呼べた」

 

「飛び出さなかった」

 

「とても大事なことよ」

 

カリンは短く頷いた。

 

嬉しそう、というより、自分の中で確かめている顔だった。

 

今日の自分が何をできたのか。

 

それを、静かに置く場所を探しているようだった。

 

ミラは立ち上がる。

 

「また来てね。今度は、もう少しゆっくり薬草を見せてあげる」

 

「また、来ていい?」

 

「もちろん。勝手に薬研を動かさない子なら歓迎よ」

 

「動かしません」

 

ミラは笑った。

 

カリンが横で小さく言う。

 

「見てるだけ」

 

「そう。まずは見てるだけ」

 

見ているだけ。

 

でも、それも悪くない。

 

今日、見ているだけでも、かなり大変だった。

 

ヨシュアがミラに頷いた。

 

「世話になった」

 

「こちらこそ。道中、気をつけて。また手紙を出すわ」

 

手紙。

 

黒い根のこと。

 

これで終わりではない。

 

今日は帰る。

 

俺は薬師工房の扉をもう一度見た。

 

薬草を束ねた絵の看板。

 

乾燥した葉の束。

 

木の扉。

 

ここへ来た。

 

本当に来た。

 

その事実だけで、胸の奥が熱くなった。

 

 

帰り道のルーベルは、朝と少し違って見えた。

 

町が変わったわけではない。

 

俺の方が、少し変わったのだと思う。

 

朝、歌っていた人は、もう別の歌を歌っていた。

 

果物の木箱は減っている。

 

水場では、別の人が水を汲んでいる。

 

俺たちが薬師工房にいる間も、ルーベルは止まっていなかった。

 

町は、ずっと動いている。

 

フィル村にも朝や昼や夕方はある。

 

でも、ルーベルはもっと速い。

 

同じ場所なのに、少しずつ形が変わっていく。

 

広場の水場が見えた。

 

ネリが立っていた場所。

 

青い布が転がった場所。

 

荷車が止まった場所。

 

そこには、もう何もない。

 

人が歩いて、誰かが笑って、水を汲んでいる。

 

何もなかったみたいに、町は続いている。

 

でも、俺の中には残っている。

 

青い布。

 

ネリの手。

 

カリンの声。

 

町は、出来事が起きてもすぐに流れていく。

 

それが、少し怖くて、すごいと思った。

 

「ヨウカ、疲れてる?」

 

「少し」

 

「私も。頭?」

 

「頭と、足」

 

「私も」

 

同じだった。

 

帰り道の足は、朝より重い。

 

でも、心は少し落ち着いていた。

 

ちゃんと帰るところまでが、今日の見聞だ。

 

 

広場の端に、さっきの犬人の護衛がいた。

 

今は別の商人らしい人と話している。

 

耳が動く。

 

周りの音を拾っているのだろう。

 

俺は立ち止まらなかった。

 

でも、通り過ぎる時に頭を下げた。

 

犬人の護衛はこちらを見て、俺とカリンに気づいたらしい。

 

小さく頷き返してくれた。

 

それだけ。

 

でも、嬉しかった。

 

「ありがとうございました」

 

声は小さかった。

 

届いたかどうか分からない。

 

でも、護衛の耳がぴくりと動いた。

 

一瞬だけ目を細める。

 

それから、すぐに商人の方へ戻る。

 

仕事中だ。

 

かっこいい。

 

やっぱり、そう思った。

 

カリンが隣で言った。

 

「すごかった。耳も、声も、動きも」

 

カリンにしては、言葉が多い。

 

それだけ印象に残ったのだろう。

 

「カリンも、呼べた」

 

俺が言うと、カリンは少しだけ黙った。

 

「でも、あの人みたいには動けない」

 

「まだ」

 

カリンが俺を見る。

 

「まだ?」

 

「うん。まだ」

 

カリンは考えた。

 

それから、短く頷いた。

 

「まだ」

 

その言葉は、不思議と嫌な言葉ではなかった。

 

できない、ではなく、まだ。

 

これから変わるかもしれない。

 

カリンは前を向いた。

 

背中の盾が、光を受けて揺れた。

 

 

門を出る時、入口の男の人がまた声をかけてきた。

 

「もう帰るのか」

 

ヨシュアが頷く。

 

「ああ。子どもたちには十分だ」

 

「そりゃそうだ。ルーベルは初めてだと疲れるからな」

 

本当にその通りだと思った。

 

男の人は俺を見る。

 

「どうだった、小さいの」

 

言いたいことはたくさんある。

 

でも、全部出すと、言葉がぐちゃぐちゃになる。

 

「多かったです。音も、人も、匂いも」

 

「そりゃ町だからな」

 

町だから。

 

ルーベルでは、いろいろなことが「町だから」で片づく。

 

でも、その一言の中に、たくさんのものが入っている。

 

俺は頭を下げた。

 

「ありがとうございました」

 

「おう。また来な」

 

また来な。

 

その言葉に、胸が跳ねた。

 

俺はもう一度、町の中を見た。

 

広場も、薬師通りも、もう見えない。

 

工房通りの音も、遠い。

 

確かにそこにある。

 

今日は少ししか見ていない。

 

それでも、たくさん見た。

 

たくさん見たのに、まだ全然見ていない。

 

ルーベルは、やっぱり大きかった。

 

 

フィル村へ戻る道は、朝と同じ道だった。

 

でも、同じには見えなかった。

 

行きに見た車輪の跡。

 

道端の草。

 

休んだ木。

 

全部、帰りには少し違って見えた。

 

朝は、外へ出る道だった。

 

今は、村へ帰る道だ。

 

同じ道なのに、向きが違うだけで意味が変わる。

 

それが、面白かった。

 

途中の大きな木の下で、また休んだ。

 

朝よりも長く座った。

 

アンナが俺の顔を見る。

 

「疲れてるわね」

 

「うん」

 

今度はすぐに言えた。

 

かなり疲れている。

 

でも、嫌な疲れではない。

 

頭も足も重いのに、胸の奥はまだ弾んでいる。

 

カリンも水を飲んで、静かに座っていた。

 

盾を背負ったままだが、肩が下がっている。

 

「カリン、盾、重い?」

 

カリンは目を伏せた。

 

「少し」

 

「言えた」

 

「うん」

 

ヨシュアが頷く。

 

「帰ったら、今日はもう外すんだな。盾も休ませる」

 

「私も、休む」

 

カリンが自分で言った。

 

俺は思わずカリンを見る。

 

「なに」

 

「うれしい」

 

「なにが」

 

「言えたから」

 

カリンは目をそらした。

 

「練習した」

 

「うん」

 

カリンは水筒を握った。

 

「ヨウカも、疲れたって言えた」

 

「うん」

 

「よし」

 

なぜカリンがよしと言うのか。

 

でも、悪くない。

 

俺たちは少しずつ、言えることが増えている。

 

 

帰りの道で、俺は黒い根のことを考えた。

 

名前をつけない。

 

分からないまま、よく見る。

 

ミラもリディアも、怖いものを怖いまま投げ出さなかった。

 

分からないものを、分からないまま丁寧に扱っていた。

 

俺も、いつかそういうふうに見られるだろうか。

 

今の俺には、まだ重い。

 

だから、今日は全部持たなくていい。

 

「ヨウカ、考えてる?」

 

アンナが声をかける。

 

「うん」

 

「黒い根?」

 

俺は驚いた。

 

「分かる?」

 

「顔で」

 

また顔だ。

 

俺の顔は、本当にいろいろ言うらしい。

 

「ちょっと」

 

「今は、少し置いておきましょう。忘れるんじゃなくて、置いておくの」

 

置いておく。

 

薬草を棚に戻すみたいに。

 

布人形を袋に入れるみたいに。

 

出しっぱなしにしない。

 

でも、捨てもしない。

 

「うん。置いておく」

 

アンナは微笑んだ。

 

「そう」

 

胸が、軽くなった。

 

 

フィル村が見えてきた時、俺は不思議な気持ちになった。

 

低い柵。

 

畑。

 

家の煙。

 

鶏の声。

 

全部、知っている。

 

ルーベルを見た後だと、フィル村は静かだった。

 

音も、人も、匂いも少ない。

 

でも、その少なさが嫌ではなかった。

 

むしろ、体が緩む。

 

帰ってきた。

 

そう思った。

 

村の端で、村長が立っていた。

 

待っていたのか、たまたまか。

 

村長は俺たちを見ると、安心したように笑った。

 

「おかえり」

 

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がふっと温かくなった。

 

ルーベルでは、いろんな人に挨拶した。

 

こんにちは。

 

ありがとう。

 

また来な。

 

でも、おかえりはなかった。

 

おかえりは、帰る場所にある言葉だ。

 

「ただいま」

 

俺は言った。

 

カリンも言う。

 

「ただいま」

 

村長は頷いた。

 

「どうだった?」

 

言いたいことはたくさんある。

 

でも、今は一つしか出てこなかった。

 

「広かったです」

 

村長は目を細めた。

 

「そうか。広かったか。それだけ分かれば、今日は十分だ」

 

十分。

 

たぶん本当にそうだ。

 

ヨシュアは村長に短く報告する。

 

ミラに会ったこと。

 

黒い根はまだ調査中であること。

 

急な危険はなさそうだが、安心しきれないこと。

 

俺はそれを聞きながら、足を揺らした。

 

かなり眠い。

 

まだ家まで歩く。

 

家まで帰って、今日が終わる。

 

 

家へ戻る途中、リリと双子が走ってきた。

 

「ヨウカちゃん!」

 

「帰ってきた!」

 

「ルーベルどうだった!?」

 

三人の声が重なる。

 

俺は笑った。

 

「多かった」

 

「なにが?」

 

「全部。人も、音も、匂いも、店も」

 

ノルが目を丸くする。

 

「すごい店あった?」

 

「薬師工房。匂いがいっぱい」

 

トマが聞く。

 

「すごい剣は?」

 

「冒険者が持ってた」

 

「見た!?」

 

「少し」

 

「すごい!」

 

少ししか見ていないのに、トマはすごいと言った。

 

「お土産は?」

 

俺は首を横に振った。

 

「買ってない。でも、話はある」

 

そう言うと、三人とも前のめりになった。

 

俺はすぐに全部話したくなった。

 

でも、アンナが俺の肩に手を置いた。

 

「今日は休んでからね」

 

「じゃあ、明日聞く」

 

リリがすぐに言った。

 

「明日!」

 

「絶対!」

 

明日。

 

全部ではなく、少しずつ。

 

俺は手を振った。

 

三人も手を振る。

 

ルーベルの二階の窓から手を振った子を思い出した。

 

場所が違っても、子どもは手を振る。

 

それが、面白かった。

 

 

家に着くと、俺はまず靴を脱いだ。

 

足が重い。

 

アンナが袋を受け取る。

 

「先に水を飲みましょう」

 

水を飲んで、座って、息を吐く。

 

それだけで、体が帰ってきた感じがした。

 

カリンは玄関で盾を下ろした。

 

ゆっくり。

 

両手で。

 

雑に置かない。

 

盾を壁に立てかけると、小さく息を吐いた。

 

「休む」

 

盾に言ったのか、自分に言ったのか分からない。

 

たぶん、両方だ。

 

ヨシュアが頷く。

 

「今日はよく歩いた。よく止まった」

 

カリンは少しだけ黙ってから、小さく言った。

 

「うん」

 

よく歩いた。

 

よく止まった。

 

それは、今日のカリンに合っている言葉だった。

 

俺にも、少し合うかもしれない。

 

よく見た。

 

よく止まった。

 

よく渡した。

 

よく帰ってきた。

 

アンナが袋から布人形を取り出した。

 

「これは?」

 

「出す」

 

俺はすぐに言った。

 

そして照れた。

 

でも、もういい。

 

今日は外へ行って、帰ってきた。

 

人形を出してもいい日だ。

 

アンナは布人形を俺に渡した。

 

カリンが見ている。

 

「落とさなかった」

 

「うん」

 

「出さなかった」

 

「うん」

 

俺は布人形を見た。

 

ルーベルで出したわけではない。

 

誰かに見せたわけでも、何かを解決したわけでもない。

 

でも、袋の奥にあるだけで、安心できた。

 

帰る場所を、忘れずにいられた。

 

「持っていってよかった。ありがとう」

 

「昔の」

 

「うん。でも、ありがとう」

 

カリンは何も言わなかった。

 

ただ、少しだけ頷いた。

 

俺は布人形を胸に当てた。

 

「ただいま」

 

小さく言った。

 

カリンが俺を見る。

 

「人形に?」

 

「うん」

 

「変」

 

「今日はいい」

 

カリンは少し考えて、頷いた。

 

「今日はいい」

 

許された。

 

なぜカリンに許可されているのか分からないが、まあいい。

 

 

夜。

 

俺は早めに寝床へ入った。

 

布人形を抱いている。

 

袋ではなく、腕の中。

 

今日は、それでいい。

 

アンナが灯りを落としに来た。

 

「眠れそう?」

 

「うん」

 

「楽しかった?」

 

「楽しかった」

 

「怖かった?」

 

「怖かった」

 

「疲れた?」

 

「疲れた」

 

アンナは笑った。

 

「全部ね」

 

「うん。全部」

 

ルーベルは、全部多かった。

 

楽しいも、怖いも、疲れたも、全部多かった。

 

俺の中には、まだ入りきっていない。

 

でも、少しずつ置いていけばいい。

 

今日見たものも、心の中で少しずつ場所を決める。

 

アンナが言った。

 

「今日は、よく帰ってきたわね」

 

よく帰ってきた。

 

その言葉は、今日聞いた中で一番胸に残った。

 

行って、見て、驚いて、怖くて、助けて、助けられて、帰ってきた。

 

帰ってくるまでが、外へ出ることなのだ。

 

「うん。帰ってきた」

 

アンナは俺の頭を撫でた。

 

今度は、聞かなくてもいい手だった。

 

家族の手。

 

俺は目を閉じた。

 

ルーベルの音が、まだ耳の奥にある。

 

かん、かん、かん。

 

荷車の音。

 

歌。

 

犬人の護衛の声。

 

ネリの泣き声。

 

それから、村長の「おかえり」。

 

たくさんの音の中で、最後に残ったのは、おかえりだった。

 

この静かな村の外には、ルーベルがある。

 

その先には、まだ知らない場所があるのだろう。

 

エルフのいる森。

 

ドワーフの工房。

 

黒い根がどこから来たのか分からない場所。

 

俺がまだ知らない世界。

 

怖い。

 

でも、見たい。

 

その気持ちは、やっぱり消えていなかった。

 

ただ、前とは少し違う。

 

外を見るには、帰る場所がいる。

 

俺には、フィル村がある。

 

アンナとヨシュアがいる。

 

カリンがいる。

 

だから、また外を見られる。

 

俺は眠気の中で、そう思った。


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