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なんか町では小さなことも大きくなるらしい

工房通りを出たあと、俺たちは休むことになった。

 

ミラが案内してくれたのは、広場から少し外れた場所だった。

 

大きな木が一本あって、その下に石の長椅子がある。

 

近くに水場もある。

 

広場ほど人は多くない。

 

それでも、フィル村よりはずっと多い。

 

人が通り、荷物が通り、声が通る。

 

ルーベルでは、休む場所にも音があった。

 

俺は石の長椅子に座って、足を少し浮かせた。

 

歩いた。

 

薬師工房を見た。

 

黒い根を見た。

 

工房通りも見て、ドワーフのゴルダンさんにも会った。

 

頭の中が、かなりいっぱいだった。

 

カリンも隣に座っている。

 

背筋は伸びているけれど、静かだ。

 

「疲れた?」

 

俺が聞くと、カリンは考えた。

 

「少し」

 

「私も」

 

「頭?」

 

「うん。頭」

 

短いけれど、分かる。

 

今日は足より頭が疲れる。

 

ルーベルは、見るものが多すぎる。

 

ミラが水を分けてくれた。

 

「二人とも、よく歩いたわね」

 

「まだ歩ける」

 

カリンが言った。

 

ミラは笑う。

 

「歩けることと、休まなくていいことは違うわ」

 

カリンは黙った。

 

それから頷いた。

 

「休む」

 

ちゃんと言えた。

 

それが、少し嬉しい。

 

アンナは俺の額に手を当てた。

 

「熱はないわね。気持ち悪くない?」

 

「ない」

 

「眠い?」

 

「ちょっと」

 

「なら、少し座っていましょう」

 

俺は水を飲んだ。

 

冷たい。

 

その冷たさで、頭の中が静かになった。

 

黒い根のことも、火花のことも、犬人の護衛の耳も、全部が少し遠くなる。

 

忘れるわけではない。

 

ただ、少し置く。

 

それも、休むことなのかもしれない。

 

 

水場の近くで、小さな子どもが立っていた。

 

最初は、ただ待っているだけかと思った。

 

俺より少し大きいくらい。

 

五歳か、六歳か。

 

薄い黄色の服を着て、手に布の端を握っている。

 

髪に、青いリボン。

 

いや、布を細く裂いて結んだものだ。

 

その子は、水場の方を見ていた。

 

人を探しているようにも見える。

 

でも、声を出していない。

 

泣いてもいない。

 

ただ、目だけが忙しく動いている。

 

「アンナ。あの子」

 

俺は指を差さず、視線だけを向けた。

 

アンナはすぐに見てくれた。

 

「迷子かしら」

 

ヨシュアも、ミラも、そちらを見る。

 

カリンが体を起こした。

 

「行く?」

 

すぐには動かない。

 

カリンはそう聞いた。

 

それが、昨日までとは違った。

 

アンナが頷く。

 

「私とミラで声をかけるわ。ヨウカとカリンはここで待っていて」

 

「うん」

 

アンナとミラが、その子の方へ歩く。

 

子どもは、二人が近づくと肩を揺らした。

 

逃げるほどではない。

 

でも、怖がっている。

 

ミラはしゃがんで、目の高さを合わせた。

 

「こんにちは。誰かを探しているの?」

 

子どもは黙っている。

 

手に握った布を、ぎゅっと握り直した。

 

俺はその手を見た。

 

震えている。

 

声が出ないのかもしれない。

 

泣くよりも、声が出ない方が怖い時もある。

 

俺は、自分が拾われた頃を思い出した。

 

言葉が出なかった頃。

 

泣くしかなかった頃。

 

アンナが優しい声で言う。

 

「大丈夫よ。お母さん? お父さん?」

 

子どもは口を開きかけた。

 

その時だった。

 

子どもの手から、青い布が落ちた。

 

風にあおられて、ふわっと転がる。

 

道の方へ。

 

荷車の通る方へ。

 

子どもが、それを追いかけようとした。

 

カリンが動きかけた。

 

俺の隣で、体が前に出る。

 

でも、カリンは止まった。

 

自分の足を見て、すぐに声を出した。

 

「ヨシュア!」

 

ヨシュアはもう動いていた。

 

アンナもミラも振り返る。

 

子どもは道へ出かけている。

 

向こうから、小さな荷車が来る。

 

速くはない。

 

でも、子どもには十分危ない。

 

俺の胸が、ぎゅっと縮んだ。

 

「荷車!」

 

俺も声を出した。

 

裏返った。

 

それでも、出た。

 

ヨシュアが子どもの前に一歩入る。

 

無理に引っ張らず、肩を支えて道の内側へ戻す。

 

同時に、広場の方から低い声が響いた。

 

「止まれ!」

 

犬人の護衛だった。

 

さっき荷車を守っていた人だ。

 

同じ人かどうかは分からない。

 

でも、犬人の護衛が、荷車の横に素早く出て、手を上げていた。

 

荷車を引いていた男の人が、慌てて手綱を引く。

 

車輪が土をこする。

 

ぎい、と音がした。

 

荷車は止まった。

 

子どもはアンナの腕の中にいた。

 

青い布は、荷車の少し手前に落ちている。

 

誰も踏んでいない。

 

俺は息をしていなかったことに気づいて、ゆっくり吸った。

 

カリンも隣で固まっていた。

 

手がぎゅっと握られている。

 

でも、飛び出していない。

 

「カリン」

 

「なに」

 

「止まった」

 

カリンは青い布を見たまま、頷いた。

 

「……止まった」

 

声が小さい。

 

でも、ちゃんと言えた。

 

 

荷車の人は、何度も頭を下げていた。

 

「悪い、見えてなかった」

 

ヨシュアが首を横に振る。

 

「こちらも子どもが出かけた。止まれてよかった」

 

犬人の護衛は周りを見て、他の荷車が来ないことを確認している。

 

耳が動く。

 

近くの音だけでなく、遠くの音も拾っているみたいだった。

 

かっこいい。

 

今は見とれる時ではない。

 

アンナは子どもを抱き寄せすぎず、肩に手を添えている。

 

ミラが子どもの膝を見た。

 

擦りむいている。

 

道へ出かけた時に、つまずいたのかもしれない。

 

「血は少しね。深くはなさそう」

 

俺は自分の袋を見た。

 

清潔な布がある。

 

でも、勝手に出していいのか。

 

いや、これは出していい場面だ。

 

俺が処置する場面ではない。

 

俺はアンナを見た。

 

「布、いる?」

 

アンナがこちらを見て、頷いた。

 

「お願い」

 

俺は袋から小さな清潔な布を取り出した。

 

落とさないように持って、アンナへ渡す。

 

「はい」

 

「ありがとう」

 

それだけ。

 

俺がしたのは、それだけだ。

 

でも、前より少し分かっている。

 

布を渡すことも、役に立つ。

 

全部を自分でやらなくていい。

 

ミラが布を受け取り、子どもの膝をそっと押さえた。

 

「痛い?」

 

子どもは少しだけ頷いた。

 

やっと涙が出てきた。

 

ぽろぽろと落ちる。

 

声はまだ出ない。

 

泣けるなら、少し安心だ。

 

ミラは優しく言った。

 

「うん。痛いわね。でも大丈夫。少し洗って、布を当てるだけでいいわ」

 

アンナが子どもの背中をさする。

 

「お名前、言える?」

 

子どもはしゃくり上げながら、小さく言った。

 

「……ネリ」

 

「ネリちゃんね。誰と来たの?」

 

「お母さん」

 

「お母さんの名前は?」

 

ネリは考えて、また泣いた。

 

名前が、出てこないのだろう。

 

怖いと、知っていることも出てこなくなる。

 

俺にも、分かる。

 

犬人の護衛が近づいてきた。

 

槍は持っているけれど、穏やかな立ち方だった。

 

「子どもを探している女が、広場の反対側で呼んでいた。青い布の子、と言っていた」

 

耳がいい。

 

本当に、よく聞こえるのだ。

 

アンナが顔を上げる。

 

「ありがとうございます」

 

犬人の護衛は軽く頷いた。

 

「俺が呼んでくる。ここで待っていろ」

 

「お願いします」

 

犬人の護衛はすぐに広場の方へ向かった。

 

足が速い。

 

でも、走りすぎない。

 

人の流れを避けながら進む。

 

仕事の動きだ。

 

俺はそれを見て、胸が熱くなった。

 

さっき、犬人を番犬代わりと言った人がいた。

 

でも、今助けているのは、ちゃんと一人の護衛だ。

 

耳がいいから便利、だけではない。

 

状況を見て、声を聞いて、動いている。

 

カリンもその背中を見ていた。

 

「すごい」

 

「うん」

 

俺も頷いた。

 

 

ネリはミラに膝を見てもらっていた。

 

大きな怪我ではなさそうだ。

 

でも、かなり怖かったのだろう。

 

手がまだ震えている。

 

アンナが青い布を拾ってきて、土を払った。

 

「これ、大事なもの?」

 

ネリは何度も頷いた。

 

「お母さんが……」

 

そこまで言って、また泣く。

 

青い布。

 

さっきまで、ただの布に見えた。

 

ネリにとっては大事なものだった。

 

布屋の色とりどりの布を思い出す。

 

袋の奥の布人形を思い出す。

 

布は、ただの布ではないことがある。

 

誰かが作ったもの。

 

誰かにもらったもの。

 

持っていると安心するもの。

 

俺は袋の奥の布人形を意識した。

 

もしあれが風で転がったら。

 

俺は、追いかけたと思う。

 

そう思って、胸の奥が冷えた。

 

ネリのことを、危ない子だとは言えない。

 

俺も同じことをしたかもしれない。

 

だからこそ、怖かった。

 

カリンが小さく言う。

 

「ヨウカ。人形、落とさない」

 

「うん」

 

「落ちても、追いかけない」

 

少しだけ間が空いた。

 

でも、ちゃんと答えた。

 

「うん。追いかけない」

 

言葉にすると、怖い。

 

でも、言っておいた方がいい。

 

落ちたら、叫ぶ。

 

大人に言う。

 

自分で道へ出ない。

 

それを、今決めておく。

 

カリンは頷いた。

 

「私も、飛び出さない。大人に言う」

 

「うん」

 

さっき、カリンはそれができた。

 

飛び出さずに、ヨシュアを呼んだ。

 

ヨシュアが動けた。

 

犬人の護衛も止められた。

 

大人に渡したから、間に合った。

 

 

少しして、広場の方から女の人が走ってきた。

 

顔が真っ青だった。

 

「ネリ!」

 

「お母さん!」

 

今度は声が出た。

 

女の人はネリを抱きしめようとして、ミラに止められた。

 

「膝を擦りむいています。強く抱くのは少し待って」

 

「あ、ご、ごめんなさい」

 

女の人は慌てて手を止めた。

 

ネリの手はしっかり握る。

 

「よかった……よかった……」

 

声が震えている。

 

女の人は犬人の護衛にも、何度も頭を下げた。

 

「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」

 

護衛は軽く首を振った。

 

「子どもが無事ならいい」

 

低い声だった。

 

短い。

 

でも、優しかった。

 

ミラはネリの膝をもう一度確認した。

 

「深くないです。帰ったら水で洗って、布を替えてください。腫れたり、熱を持つようなら薬師へ」

 

「はい。はい」

 

女の人は何度も頷く。

 

アンナが青い布を渡した。

 

「これも、落ちていました」

 

ネリはそれを受け取って、ぎゅっと握った。

 

「ありがとう」

 

小さな声。

 

俺たちへ言ったのか、アンナへ言ったのか分からない。

 

たぶん、全部だ。

 

俺は首を横に振った。

 

「布、渡しただけ」

 

マルタさんの火傷の時も、そうだった。

 

布を持ってきただけ。

 

でも、ミラが俺を見る。

 

「その布が、今必要だったのよ」

 

俺は黙った。

 

布を渡すだけでも、必要な時がある。

 

ただし、誰に渡すかが大事だ。

 

俺がネリの膝に直接当てるのではなく、ミラに渡す。

 

それが、今の俺にできることだった。

 

カリンが小さく言った。

 

「ヨウカ、渡せた」

 

「うん」

 

「私、呼べた」

 

「うん」

 

俺たちは顔を見合わせた。

 

少しだけ、胸が温かい。

 

すぐに大きく喜ぶ気にはならなかった。

 

怖かったからだ。

 

ほんの少し遅かったら、危なかった。

 

 

ネリと母親が去ったあと、俺たちはもう少し休んだ。

 

ミラが俺とカリンを見る。

 

「二人とも、よく止まれたわね」

 

よく止まれた。

 

その言葉で、ようやく実感が来た。

 

カリンは飛び出さなかった。

 

俺も、荷車の方へ走らなかった。

 

布を出して、ミラに渡した。

 

大人を呼んだ。

 

それだけ。

 

でも、たぶんそれが必要だった。

 

ヨシュアがカリンを見る。

 

「いい判断だった」

 

カリンは背筋を伸ばした。

 

「呼んだ」

 

「ああ。呼べた」

 

「飛び出さなかった」

 

「ああ」

 

カリンは盾の紐を握った。

 

今日は盾を持っている。

 

でも、使わなかった。

 

それでも、守る手伝いができた。

 

それがカリンの中で、形になっている気がした。

 

アンナは俺を見る。

 

「ヨウカも、ちゃんと渡せたわね。直接やろうとしなかった」

 

「ミラに渡した」

 

「ええ」

 

俺は頷いた。

 

ミラは薬師で、アンナは薬草を知っていて、ヨシュアは動けて、犬人の護衛は声を聞けた。

 

それぞれが、自分のできることをした。

 

俺は、布を渡した。

 

カリンは、呼んだ。

 

小さい。

 

でも、小さくても、つながれば役に立つ。

 

 

ミラが、ふっと息を吐いた。

 

「町では、こういうことが時々あるわ。人が多いから。荷車も多い。店に気を取られる子もいるし、大人も荷物で手がふさがる」

 

「怖い」

 

「怖いわね」

 

ミラは普通にそう言った。

 

「でも、町の人たちは助け合う方法も知っているの。声を出す。道を空ける。護衛や見回りに伝える」

 

村では、顔を知っている人が多い。

 

誰の子かも分かる。

 

ルーベルでは、知らない人同士でも声を出して、近くの大人に渡す。

 

そうやって動く。

 

場所が違えば、守り方も変わる。

 

カリンも、それを聞いていた。

 

「守り方も、変わる」

 

小さく繰り返す。

 

「うん」

 

前に立つだけではない。

 

盾を出すだけではない。

 

呼ぶ。

 

待つ。

 

渡す。

 

それも、守ること。

 

カリンはそれを、今日少し実感したのだと思う。

 

 

少し休んだあと、俺たちは帰る方向へ歩き出した。

 

ミラは薬師工房まで一緒に戻る。

 

その後、俺たちはルーベルを出るらしい。

 

本当は、もっと見たい。

 

布屋も、果物も、まだ全部見ていない。

 

でも、頭が重い。

 

足も重い。

 

今日見たものを持って帰るだけで、十分だ。

 

歩きながら、俺はさっきのネリのことを思い出した。

 

青い布が落ちて、ネリが追って、荷車が来た。

 

カリンの「ヨシュア!」という声。

 

犬人の護衛の「止まれ」。

 

どれか一つがなかったら、違っていたかもしれない。

 

そう思うと、胸が冷える。

 

でも、同時に温かい。

 

ちゃんと助かったからだ。

 

「ヨウカ。人形、袋にある?」

 

俺は袋を軽く押さえた。

 

布人形の柔らかさが、奥にある。

 

「ある」

 

「よかった」

 

「落ちても、追いかけない」

 

「うん。言う」

 

「私も、言う」

 

同じ約束を、もう一度した。

 

今度は、前より重かった。

 

でも、必要な重さだった。

 

ミラが前を歩きながら言った。

 

「今日は、ちゃんと覚えることが増えたわね」

 

「多いです」

 

ミラは笑った。

 

「ルーベルは多いものね」

 

本当に多い。

 

人も、音も、匂いも、危ないことも、助け方も。

 

全部を持って帰ることはできない。

 

でも、いくつかは持って帰れる。

 

犬人の護衛が荷車を止めた声。

 

ネリが青い布を握った手。

 

カリンが飛び出さずに呼んだこと。

 

俺が布を渡せたこと。

 

それが、今日持って帰るものだ。

 

朝より少しだけ、町の音が遠く感じる。

 

慣れたのではない。

 

疲れたのだと思う。

 

でも、嫌ではなかった。

 

怖いこともあった。

 

でも、来てよかった。

 

ちゃんと、そう思えた。


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