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なんか黒い根はまだ名前をつけられないらしい

ミラが出してくれたお茶は、思ったより苦くなかった。

 

草の匂いがする。

 

煎じ薬みたいな苦さではない。

 

口に入れると、最初に温かくて、そのあと少しだけ甘い。

 

俺は両手で器を持った。

 

薄い湯気が上がっている。

 

そこに、薬草の匂いと、乾燥室から流れてくる草の匂いが混ざる。

 

ルーベルの広場は、音が多かった。

 

ミラの薬師工房は、匂いが多い。

 

同じ「多い」でも、全然違う。

 

カリンは隣で、慎重にお茶を飲んでいた。

 

「苦い?」

 

俺が小さく聞くと、カリンは考えた。

 

「少し」

 

「飲める?」

 

「飲める」

 

「よかった」

 

カリンは俺を見る。

 

「ヨウカは?」

 

「飲める」

 

「よかった」

 

同じことを返された。

 

ミラはそれを見て笑った。

 

「二人とも、ちゃんと味を見るのね」

 

「味、見る?」

 

「薬師はね、匂いも色も味も見るの。もちろん、危ないものは口にしないけど」

 

「味も、見る」

 

「ええ。苦い、渋い、甘い、舌に残る。そういうのも、大事な手がかりになることがあるわ」

 

なるほど。

 

薬草は、目で見るだけではない。

 

匂い、形、乾き方、置き場所、そして味。

 

知る方法が、たくさんある。

 

このお茶だけでも、俺はまだ少ししか分からない。

 

ミラには、もっといろいろ分かっているのだろう。

 

すごい。

 

そう思った。

 

「さて」

 

ミラが器を置いた。

 

その声で、工房の空気が変わった。

 

さっき薬研を見せてくれていた時とは違う。

 

柔らかいけれど、軽くはない。

 

俺は自然と背筋を伸ばした。

 

アンナも器を置く。

 

ヨシュアは黙ってミラを見ている。

 

カリンも、器を両手で持ったまま動きを止めた。

 

ミラの視線が、奥の棚へ向かった。

 

紐のかかった、小さな木箱。

 

さっき「あとで」と言われた箱。

 

俺の胸の奥が、冷えた。

 

黒い根の欠片。

 

ミラは静かに立ち上がった。

 

「リディアも、そろそろ来るはずよ」

 

「リディアさんも?」

 

「ええ。あの欠片は、私だけで見るものじゃないから」

 

私だけで見るものじゃない。

 

その言葉で、黒い根がただの薬草でも、ただの毒でもないことが分かる。

 

いや、分かっていた。

 

でも、言葉にされると重い。

 

その時、入口の扉が軽く叩かれた。

 

こん、こん。

 

ミラが扉を開ける。

 

そこにいたのは、リディアだった。

 

以前と同じ、静かな雰囲気。

 

森で会った時より、町の人らしい外套を羽織っている。

 

リディアはミラに軽く頷き、アンナ、ヨシュアへ目を向けた。

 

最後に、俺とカリンを見る。

 

「久しぶりね、ヨウカ。カリン」

 

「こんにちは」

 

俺もカリンも頭を下げる。

 

リディアの目が柔らかくなった。

 

「ちゃんと挨拶できるのね」

 

「できます」

 

俺が言うと、リディアは少し笑った。

 

「そうね。もう四歳だものね」

 

また言われた。

 

もう四歳。

 

昨日までは、ただの年齢だった。

 

でも、ルーベルへ来てから、いろんな人に「大きくなった」「話せる」「四歳」と言われる。

 

そのたびに、自分の形を外から確認されている気がした。

 

俺はもう、ただ抱かれているだけの赤ん坊ではない。

 

でも、大人でもない。

 

四歳。

 

その場所に、今いる。

 

リディアはカリンにも目を向けた。

 

「カリンも、一緒に来たのね。ヨウカを守るため?」

 

カリンは少しだけ止まった。

 

そして、まっすぐ答えた。

 

「守るだけじゃなくて、見るため」

 

リディアは一瞬だけ目を丸くした。

 

それから、ゆっくり頷いた。

 

「いい答えね」

 

カリンは目を伏せた。

 

照れているのかもしれない。

 

ミラがリディアにお茶を出した。

 

リディアは器を受け取ると、棚の木箱を見た。

 

「状態は?」

 

「変化は少ないわ。ただ、普通の枯れ方ではない」

 

ミラの声は低かった。

 

俺は木箱を見る。

 

見たい。

 

いや、見なければいけない気がする。

 

勝手に開けるものではない。

 

ミラとリディアが扱うものだ。

 

ヨシュアが言った。

 

「子どもたちに見せていいものか」

 

その声は、いつもより硬かった。

 

ミラは考えた。

 

リディアも、俺とカリンを見る。

 

俺は膝の上で手を握った。

 

見たい。

 

怖い。

 

でも、ここまで来た理由の一つが、それだ。

 

黒い根。

 

フィル村の森にあったもの。

 

精霊たちを怯えさせ、水をおかしくし、まだ終わっていないもの。

 

リディアが静かに言った。

 

「全部を見せる必要はないわ。でも、何も知らないままにするのも違う」

 

ミラも頷く。

 

「ヨウカちゃんたちに背負わせるためじゃない。でも、あの森で何が起きたのか、少しは知っておいた方がいい」

 

背負わせるためじゃない。

 

その言葉に、息がしやすくなった。

 

俺は知りたい。

 

でも、全部背負えるわけではない。

 

四歳の俺が、全部持つものではない。

 

アンナが俺を見る。

 

「ヨウカ。怖くなったら、言うのよ。見たくなくなったら、見なくていい」

 

俺は頷いた。

 

「うん」

 

カリンも小さく頷く。

 

「私も」

 

ミラは棚から木箱を下ろした。

 

机の上に置く。

 

ことん。

 

小さな音。

 

それだけで、工房の空気がさらに静かになった。

 

 

ミラは木箱の紐をほどいた。

 

蓋を開ける。

 

中に、布が何重にも入っていた。

 

白い布。

 

その内側に、灰色の布。

 

ミラは直接手で触らず、細い木のピンセットのような道具を使った。

 

それだけで、これが普通の薬草ではないと分かる。

 

布が開かれる。

 

中に、小さな黒い欠片があった。

 

根のように見える。

 

ただ、根にしては黒すぎる。

 

炭のような黒ではない。

 

濡れているわけでもないのに、光を吸い込むような黒。

 

細く曲がって、先が割れている。

 

俺は息を止めた。

 

森で見た時の感じが、戻ってくる。

 

冷たい。

 

嫌な感じ。

 

今ここにあるのは小さな欠片なのに、胸の奥がざわついた。

 

カリンの手が、膝の上で動いた。

 

俺は横を見る。

 

カリンの顔は固い。

 

それでも、前に出てはいない。

 

ちゃんと座っている。

 

リディアが言った。

 

「近づきすぎないで。触らないでね」

 

「はい」

 

俺とカリンは同時に答えた。

 

ミラは黒い欠片を少しだけ持ち上げた。

 

「乾いているように見えるでしょう? でも、普通の乾燥とは違うの。水を吸わない。火に近づけても、焦げ方が変。薬草でも、毒草でも、魔物の一部でもない」

 

魔物でも、毒草でも、薬草でもない。

 

では、何なのか。

 

俺は黒い欠片を見た。

 

鑑定。

 

その言葉が、頭の奥に浮かぶ。

 

使えば、何か出るかもしれない。

 

名前。

 

状態。

 

危険。

 

でも、ここで勝手に使っていいのだろうか。

 

黒い根に、こちらから手を伸ばしていいのか。

 

俺が迷っていると、アンナが小さく俺の背中に触れた。

 

「無理に見なくていいわ」

 

その言い方で、アンナには分かっているのだと思った。

 

俺が何かをしようとしていたこと。

 

俺は小さく頷いた。

 

今は、やめる。

 

目で見るだけ。

 

ミラは俺の様子を見て、何も聞かなかった。

 

そのまま話を続ける。

 

「切って中を見ようとしたけれど、刃が嫌な入り方をしたわ。硬いというより、刃を受け入れない感じ」

 

「刃を、受け入れない?」

 

「変な言い方だけどね。でも、そうとしか言えないの」

 

リディアが続けた。

 

「精霊たちの反応も普通ではないわ。怖がる。近づきたがらない。でも、完全に逃げるだけでもない」

 

「逃げるだけじゃない?」

 

「ええ。怒りに近い反応をする精霊もいた」

 

怒り。

 

精霊が、黒い根に怒る。

 

俺は欠片を見る。

 

本当に小さい。

 

こんなものに、精霊が怯えて怒る。

 

それが、怖かった。

 

「これは、何?」

 

声が小さくなった。

 

ミラとリディアが顔を見合わせる。

 

短い沈黙。

 

それから、ミラが言った。

 

「分からないわ」

 

はっきり言った。

 

「普通の魔物でも、毒でもない。薬草でもない。呪いと呼ぶには、まだ分からないことが多すぎる」

 

リディアが静かに続ける。

 

「邪悪なもの、という言い方ならできるかもしれない。でも、それも雑すぎる」

 

「雑?」

 

「怖いものに、すぐ怖い名前をつけると、それ以上見なくなることがあるの」

 

その言葉は、難しかった。

 

なんとなく分かった。

 

毒、魔物、呪い、邪悪。

 

そう呼べば、分かった気になる。

 

分かった気になって、それ以上は見なくなる。

 

ミラが黒い欠片を布の上に戻した。

 

「だから、まだ名前はつけない」

 

静かな声だった。

 

俺は黒い欠片を見た。

 

怖い。

 

でも、ミラもリディアも、勝手に名前をつけない。

 

それが、大人のやり方なのだと思った。

 

 

リディアは、机の上に小さな紙を広げた。

 

簡単な絵と、いくつかの印。

 

森の形。

 

川。

 

黒い根が見つかった場所。

 

地図だ。

 

フィル村の森の地図。

 

全部は読めない。

 

形は分かる。

 

リディアは指で一点を示した。

 

「黒い根が見つかったのは、このあたり。水の精霊が弱っていたのも、近い場所」

 

ミラが別の印を指す。

 

「欠片を持ち帰ってから、薬草や水に近づける実験はしたわ。でも、はっきりした変化は少ない」

 

「変化、少ない?」

 

「ええ。強い毒のように、すぐ腐らせるわけではない。魔物の肉のように腐敗するわけでもない」

 

リディアが言う。

 

「ただ、精霊の気配が鈍る場所がある。近づきたがらない。声が小さくなる」

 

俺は自分の胸の奥を探るようにした。

 

ここにある欠片から、精霊の声が聞こえるわけではない。

 

それでも、嫌な静けさはある。

 

音がないのに、静かすぎる。

 

森で黒い根を見た時に、似ている。

 

「ヨウカ」

 

アンナが呼んだ。

 

「大丈夫?」

 

「ちょっと怖い。でも、大丈夫」

 

アンナは頷いた。

 

「それでいいわ」

 

カリンが横で小さく言った。

 

「怖い」

 

俺はカリンを見た。

 

カリンは黒い欠片を見ている。

 

「でも、座ってる」

 

自分でそう言った。

 

俺は胸が温かくなった。

 

カリンは怖いと言えた。

 

それでも飛び出していない。

 

盾も出していない。

 

座っている。

 

それは、すごいことだ。

 

リディアもカリンを見て、静かに頷いた。

 

「怖いものの前で座っていられるのは、強いことよ」

 

カリンは目を伏せた。

 

でも、耳のあたりが赤くなっていた。

 

 

ミラは黒い欠片を布で包み直した。

 

一枚。

 

もう一枚。

 

さらにもう一枚。

 

木箱に戻して、蓋を閉め、紐をかける。

 

その動作は、とても丁寧だった。

 

乱暴に扱わない。

 

怖がって投げ出さない。

 

分からないものを、きちんとしまう。

 

それも、薬師の仕事なのだろうか。

 

ミラは箱を棚に戻すと、息を吐いた。

 

「今のところ、村にすぐ危険が戻る、という兆候はないわ」

 

その言葉で、空気が緩んだ。

 

俺も、カリンも、息を吐いた。

 

「でも、安心しきっていいものでもない」

 

ヨシュアが言った。

 

ミラは頷く。

 

「ええ。だから、今後もリディアと調べる。アンナにも、気づいたことがあれば教えてほしい」

 

アンナが頷いた。

 

「もちろん」

 

リディアは俺を見る。

 

「ヨウカも。何か変なものを見つけたら、一人で調べないこと。分かったことがあっても、すぐ触らないこと。大人に渡すこと」

 

また、渡す。

 

俺は頷いた。

 

「はい」

 

「それから、分からないことを急いで分かろうとしないこと」

 

その言葉は、胸に刺さった。

 

俺は知りたい。

 

分からないものを見ると、答えが欲しくなる。

 

でも、急いで間違った名前をつけるより、分からないまま、よく見る。

 

それが、難しい。

 

「むずかしい」

 

俺が言うと、リディアは少し笑った。

 

「難しいわ。でも、薬師にも精霊術師にも、大事なことよ」

 

 

重い話が終わると、ミラはわざと明るい声を出した。

 

「さて。怖い話はここまで」

 

たしかに怖かった。

 

でも、それだけではなかった。

 

知らないものを、知らないまま扱う大人の姿を見た。

 

それは怖くて、少しだけかっこよかった。

 

ミラは棚から小さな瓶を取り出す。

 

「これは、さっきのお茶に使った乾燥花」

 

「花?」

 

「ええ。苦さをやわらげるのに使うの。嗅いでみる?」

 

瓶の中に、薄い黄色の花びらが入っている。

 

ミラが蓋を開け、俺たちの方へ寄せた。

 

甘い。

 

でも砂糖みたいな甘さではない。

 

花の甘さ。

 

乾いていて、温かい。

 

さっきまで黒い根を考えていた胸の中に、別の匂いが入ってくる。

 

カリンも嗅いだ。

 

「甘い」

 

「ええ。薬は苦いものばかりじゃないのよ。怖い話のあとには、甘い匂いも必要でしょう?」

 

たしかに、楽になった。

 

ミラは大人だ。

 

怖いものを見せたあと、ちゃんと戻してくれる。

 

黒い根だけで終わらせない。

 

それも、すごいと思った。

 

リディアもお茶を飲みながら言った。

 

「帰る前に、少し町を見ていくといいわ。ルーベルは薬師工房だけではないから」

 

「ほかも?」

 

ミラが頷く。

 

「工房通りもあるわよ。鍛冶や金物を扱う職人がいるの。ドワーフの職人もいる」

 

ドワーフ。

 

新しい言葉が、胸の中で跳ねた。

 

「ドワーフ……いるんだ」

 

「いるわよ。今日はびっくりすることが多いわね」

 

「多いです」

 

本当に多い。

 

犬人、冒険者、エルフの話、黒い根、そしてドワーフ。

 

でも、黒い根を見た後でも、その言葉に胸が弾んだ。

 

怖いものを見ても、ワクワクが消えたわけではない。

 

それが、少し嬉しかった。

 

カリンが静かに言った。

 

「鍛冶」

 

「気になる?」

 

カリンは小さく頷いた。

 

「盾の、ふち」

 

「見るところがカリンちゃんらしいわね」

 

カリンは真面目な顔だった。

 

「大事」

 

「ええ。大事ね」

 

ヨシュアがアンナを見る。

 

アンナは考えてから頷いた。

 

「帰る前に、少しだけなら」

 

その言葉で、俺とカリンは同時に顔を上げた。

 

ミラが楽しそうに笑う。

 

「じゃあ、黒い根の話はここまで。次は、町らしいものを見に行きましょうか」

 

工房通り。

 

ドワーフ。

 

盾のふち。

 

俺の胸が、また忙しくなる。

 

黒い根は怖かった。

 

まだ名前もない。

 

分からないままだ。

 

でも、ルーベルには、怖いものだけではない。

 

甘い花のお茶もあるし、まだ見ていない通りもある。

 

俺は椅子から降りる前に、奥の棚を一度だけ見た。

 

黒い根の箱は、もう閉じられている。

 

見えない。

 

でも、そこにある。

 

今は、それでいい。

 

俺はミラたちの方へ向き直った。


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