なんか薬師工房は匂いまで違うらしい
扉の向こうで、足音がした。
軽い足音。
それから、木の扉がゆっくり開く。
中から顔を出したのは、ミラだった。
前に会った時より、髪を後ろでまとめている。
服も、旅の時とは違った。
動きやすそうな前掛け。
袖をまくっている。
手には、乾いた葉の欠片がついていた。
薬師の人だ。
いや、前から薬師だとは知っていた。
工房の扉から出てきたミラは、前よりずっと薬師に見えた。
ミラはアンナとヨシュアを見て、それから俺を見た。
目が丸くなる。
それから、ふわっと笑った。
「ヨウカちゃん、大きくなったわね」
俺は背筋を伸ばした。
「私、もう四歳です」
「うん。ちゃんと喋ってる」
そう言われて、なぜか照れた。
喋れる。
歩ける。
少し手伝える。
自分では当たり前になってきたことでも、久しぶりに会った人には違って見えるらしい。
ミラは俺の頭へ手を伸ばしかけた。
でも、途中で止めた。
「触っていい?」
俺は驚いた。
それから、頷いた。
「いいです」
ミラはそっと俺の頭を撫でた。
強くない。
確かめるような、挨拶のような手だった。
「よかった。前より、ちゃんと自分で決められるようになったのね」
その言葉に、胸の奥が温かくなる。
カリンが隣でじっと見ていた。
ミラはカリンにも顔を向ける。
「カリンちゃんも、背が伸びた?」
カリンは姿勢を正した。
「伸びたと思う」
「うん。前より凛々しいわ」
カリンは黙った。
耳のあたりが赤くなった。
「中へどうぞ」
ミラは扉を大きく開けた。
その瞬間、匂いが来た。
乾いた葉。
苦い根。
土。
煮出した薬。
それから、石のような冷たい匂い。
アンナの家の棚にも薬草の匂いはある。
ただ、ここはもっと濃い。
薬草が置かれているだけではない。
切られて、乾かされて、混ぜられて、煮出されている匂いだ。
俺は一歩、工房の中へ入った。
足元の板が、きし、と鳴った。
その音すら、知らない場所の音だった。
⸻
工房の中は、思ったより広かった。
正面に大きな棚。
瓶、木箱、布袋、束ねた薬草が並んでいる。
壁には、乾いた草の束が吊るされていた。
机の上に、小さな皿と細い匙。
石のすり鉢のようなものと、横に置かれた棒。
薬研だ。
俺はそれを見た瞬間、足がそちらへ向きかけた。
でも、すぐに止めた。
ここは人の工房だ。
勝手に近づく場所ではない。
ミラが俺を見て、笑った。
「気になる?」
「……気になります」
「正直でよろしい」
ミラは机の近くへ行き、薬研の横を軽く叩いた。
「これは薬研。薬草や実を細かくする道具ね」
「薬研」
俺は小さく繰り返した。
言葉は知っている。
実物は初めて見た。
石の皿に、丸い車輪みたいな石がついている。
押して転がすと、薬草が潰れるのだろう。
「触ってみる?」
俺は反射的に頷きかけて、アンナを見た。
アンナが頷く。
「ミラがいいと言うなら」
「はい」
俺は薬研に近づいた。
カリンも一歩ついてくる。
でも、前には出ない。
横にいる。
薬研の石に指先で触れた。
冷たい。
思ったより重そうだ。
「重い?」
「少しね。押す時は、力だけじゃなくて角度もいるの」
ミラは薬草の小さな欠片を置いた。
「見ていて」
ミラが石を動かす。
ごり。
乾いた葉が潰れる。
ごり、ごり。
薬草の匂いが強くなった。
乾いていた葉が、砕けて、香りを出す。
俺は思わず息を吸った。
苦い。
嫌な匂いではない。
「砕くと、匂いが変わる」
「そう。中に閉じていたものが出てくるの」
ミラは薬研を止めた。
「でも、細かくすればいいわけじゃない。細かすぎると、使いにくいものもある」
「細かい方が、よく効くわけじゃない?」
「そう。薬草は、強くすればいいものじゃないの」
その言葉に、引っかかった。
魔力と似ている。
使えば伸びる。
でも、使い切ればいいわけではない。
俺は薬研をもう一度見た。
ただの道具ではない。
加減を覚えるための道具だ。
⸻
次に、ミラは棚の前へ案内してくれた。
棚には、小さな木札が差してある。
アンナの家の薬草棚にも木札はある。
ただ、ここの札はもっと多くて、文字も細かい。
薬草の名前だけでなく、採れた時期や、乾かした日らしい印もついている。
読める字は、わずかしかない。
鑑定を使えば分かる。
今は、字の形を見て、木札の並びを見て、匂いを嗅ぐ。
使う人の手が届く場所を、考える。
「ここは保存棚。よく使うものは手前。湿気に弱いものは上。重い瓶は下」
「薬草にも、場所がある」
俺が言うと、ミラは目を細めた。
「いい言い方ね」
アンナが横で笑った。
「最近、薬草にも帰る場所があるって覚えたのよ」
「なるほど」
ミラは嬉しそうに頷いた。
「その通り。薬草は、置く場所を間違えると、薬になる前に駄目になるの」
薬になる前に駄目になる。
それは怖い言葉だった。
薬草は、摘んだら終わりではない。
保存して、見分けて、湿気を避けて、使う時まで保たせる。
そこまでできて、初めて薬になる。
アンナの家の薬草棚よりずっと大きい。
考え方は似ている。
フィル村でやってきた小さなことが、ここにつながっている。
そう思うと、胸の中が明るくなった。
ミラは小さな布袋を取り出した。
「これは、乾かし方が難しい葉」
「難しい?」
「乾かしすぎると効きが弱くなる。湿り気を残しすぎると、すぐ傷む」
「どっちもだめ」
「そう。薬草はわがままなの」
わがままな薬草。
少し面白い。
ミラは袋の口を開けた。
「嗅いでみる? 触らずに、匂いだけね」
俺は顔を近づけた。
青い匂い。
乾いているのに、水っぽい。
森の奥の日陰みたいな匂いだった。
「雨のあとみたい」
俺が言うと、ミラは驚いた顔をした。
「いい鼻ね。薬師には大事よ」
そう言われると、嬉しい。
でも、犬人の護衛を思い出した。
鼻が利く。
それはすごいことだ。
でも、さっき広場では、嫌な言い方をされていた。
同じことでも、言い方で違って聞こえる。
俺はその考えを、心の中にそっと置いた。
今は、ミラの工房を見る時間だ。
⸻
工房の奥に、小さな部屋があった。
ミラが扉を開ける。
「ここは乾燥室。中は狭いから、入口から見るだけね」
「はい」
俺とカリンは入口の前に並んだ。
中には、薬草の束が何列も吊るされていた。
天井から紐が渡されて、葉や根や花が下がっている。
窓は開いているが、風が入りすぎないように布がかかっている。
部屋全体が、乾いた匂いで満ちていた。
「すごい。全部、薬草?」
「薬になるものもあるし、薬に近いものもあるわ。香りをつけるもの、虫除け、傷を洗うもの」
薬だけではない。
草は薬草だけではないし、薬草も薬だけではない。
世界が、また広がる。
「乾かすだけじゃない?」
「ええ。どこで干すか、どれくらい干すか、束ね方をどうするか。全部変わる」
「むずかしい」
「難しいわよ」
ミラは笑った。
「だから薬師は、摘む人でもあり、乾かす人でもあり、待つ人でもあるの」
待つ人。
その言葉が、胸に残った。
薬師は、治す人。
薬を作る人。
そう思っていた。
でも、待つ人でもある。
乾くのを待つ。
効きが出るのを待つ。
患者が回復するのを待つ。
俺は乾燥室の薬草を見た。
風で揺れている。
あの一本一本にも、待つ時間がある。
そう思うと、静かな気持ちになった。
カリンも乾燥室を見ていた。
「カリン、どう?」
カリンは考えた。
「吊るされてる」
「うん」
「落ちてきたら、危ない」
そこか。
たしかにそうだ。
ミラは声を出して笑った。
「大丈夫。落ちないように結んであるわ」
カリンは真面目に頷いた。
「ならいい」
カリンはどこでも守るものを探すらしい。
安心して、少し面白い。
⸻
机に戻ると、小さな鍋から湯気が出ていた。
ミラが蓋をずらす。
苦い匂いが、ふわっと広がった。
俺は顔をしかめた。
カリンも、ほんの少し眉を動かした。
ミラはそれを見て笑う。
「これは煎じ薬」
「苦そう」
「苦いわ」
はっきり言った。
「飲む人、いる?」
「いるわよ。必要ならね」
「苦いのに?」
「苦くても、必要なら飲むの」
それはそうだ。
四歳の舌は納得しない。
茶色い液体に、乾いた葉と細い根が沈んでいる。
「甘くしないの?」
「甘くできるものもある。でも、甘くすると効きが変わるものもあるの」
「薬、むずかしい」
「ええ。かなり」
ミラは匙で液体をすくった。
「これは飲ませないわよ。見るだけ」
少し安心した。
飲みたいわけではない。
でも、見たい。
湯気の上がり方。
色。
葉の沈み方。
鍋の火の強さ。
全部が気になる。
ミラは火を弱めた。
「強く煮ればいい、というものでもないの。強すぎる火は、必要なものまで壊すことがある」
知りたい。
早く知りたい。
全部見たい。
俺の中の、その落ち着かない気持ちに、薬師工房はずっと加減を見せてくる。
⸻
ミラは棚の横から、古い紙束を取り出した。
「薬草を本当に深く知りたいなら、覚えることはたくさんあるわ」
「たくさん」
「葉の形、根の色、季節、土、水、干し方、組み合わせ。それから、使う人の体」
「体」
「同じ薬草でも、人によって効き方が違うことがあるの」
医学。
その言葉が、頭の奥で動いた。
薬草だけ見ても足りない。
使う人も、見なければいけない。
紙束には、細かい字と葉の絵が描いてある。
読めない字が多い。
絵だけなら少し分かる。
いや、分かった気になるだけだ。
俺は勝手に近づきすぎないように、手を後ろで握った。
ミラはそんな俺を見て、笑った。
「よく我慢してるわね」
「……見たいです」
「でしょうね」
ばれている。
アンナも笑っている。
カリンは当然みたいな顔をしている。
「ヨウカは見る」
「言わなくていい」
「うん」
言っている。
ミラは紙束を机に置いた。
「森の薬草なら、エルフたちが詳しいって言われているわ」
その言葉に、俺は顔を上げた。
「エルフ……いるんだ」
ミラは目を細めた。
「いるわよ。まあ、そう簡単に会える相手でもないけれど」
エルフ。
この世界には、エルフがいる。
獣人もいる。
犬人の護衛も見た。
なら、エルフもいるのだろう。
でも、言葉として聞くと、胸の奥が跳ねた。
「森に?」
「森に住む人たちが多いわね。外の人間をあまり信用しないとも聞くわ」
「会えない?」
「普通は、なかなかね。薬草の知識を知りたいからって、いきなり行って教えてもらえる相手ではないの」
「そっか」
残念だった。
でも、少し安心もした。
もし今日エルフにも会えると言われたら、俺の頭はいっぱいになりすぎる。
ルーベルだけで、もう多い。
そこにエルフまで来たら、胸の中が散らかってしまう。
ミラは俺の顔を見て、やわらかく言った。
「いつか会えたら、礼儀正しくね。薬草より先に、人を見る人たちだって聞くから」
「薬草より先に、人を見る」
「そう」
その言葉は、少し怖くて、少しだけかっこよかった。
薬師もそうなのかもしれない。
薬だけではなく、使う人を見る。
触っていいか聞く。
どれも、つながっている。
⸻
ミラは一通り工房を見せてくれると、奥の棚の前で立ち止まった。
そこに、小さな木箱が置いてあった。
他の薬草箱とは違って、紐がかかっている。
札もついている。
俺はその箱を見た。
胸の奥が冷える。
匂いは、ほとんどしない。
何かが違う。
鑑定を使えば、見えるかもしれない。
そう思った瞬間、ミラが静かに言った。
「それは、あとでね」
俺はびくっとした。
「はい」
ミラの声は優しい。
さっきまでの声とは違った。
アンナもヨシュアも、その箱を見ていた。
カリンも、俺ではなく箱を見ている。
黒い根の欠片。
胸の中のワクワクに、冷たいものが一滴落ちる。
でも、ミラはすぐに表情を戻した。
「まずは、お茶にしましょう。遠くから来たんだから、少し休まないと」
「苦くないものにするわ」
俺は安心した。
「よかった」
ミラが笑う。
「煎じ薬を出されたら困るものね」
「困ります」
カリンも小さく頷いた。
「困る」
その返事に、ミラがまた笑った。
工房の空気が、柔らかくなる。
黒い根の箱は、まだ棚の上にある。
でも、今すぐ開けるものではない。
薬草に乾く時間があるように、黒い根の話にも、きっと順番がある。
俺は椅子に座った。
木の椅子は高くて、足が浮いた。
カリンが隣に座る。
アンナとヨシュアも向かいに座る。
ミラは奥で茶器を用意している。
薬草の匂い。
木箱の匂い。
煎じ薬の湯気。
乾燥室から流れてくる、静かな草の匂い。
全部が混ざっている。
ルーベルは音も人も多かった。
薬師工房は、匂いが多い。
そして、その匂いの奥に、知りたいことがたくさんある。
俺は膝の上で手を握った。
ここへ来られてよかった。
本当に、そう思った。




