なんか少し成長したらしい
ミラが隣町へ戻る朝、フィル村には薄い霧が出ていた。
森から流れてきた霧ではない。
畑の上にうっすらとかかる、いつもの朝の霧だ。
少し前なら、霧というだけで大人たちは森側を警戒していたと思う。
今も警戒はしている。
でも、慌ててはいない。
井戸水を調べ、桶を分け、森側の柵を確認し、薬草畑の端を見る。
それが村の朝の仕事に加わった。
厄介な日課だ。
けれど、日課になったということは、村がそれを受け止め始めたということでもある。
ミラは村長の家の前で荷物をまとめていた。
腰には薬草の袋。
背中には旅用の荷物。
そして、小さな鉄箱を布で何重にも包んだものを持っている。
黒い根の欠片が入っている箱だ。
かなり小さい。
それでも、あれが普通ではないことは分かる。
俺はアンナに抱かれたまま、少し離れた場所から見ていた。
近づきすぎない。
触らない。
見すぎない。
これはもう、俺だけでなく村全体の合言葉みたいになっていた。
ミラは村長に言った。
「隣町で調べて、必要なら上へ知らせます。ただ、焦って王都に大げさな報告を上げるより、まずは確かな情報を集めた方がいい」
村長は深く頷いた。
「頼む」
「森側の水は、最低でもしばらく使わないでください。雨のあとは必ず確認。黒い泥や粉を見つけたら、触らずアンナさんへ」
「分かっている」
ミラは次にアンナを見た。
「あなたも無理しないで。火で処理できるからって、全部焼こうとしないこと」
アンナは少しだけ苦笑した。
「分かってるわ」
「本当に?」
「……分かってる」
ヨシュアが横から言った。
「見ておく」
ミラは満足そうに頷いた。
「それなら安心ね」
アンナは少し不満そうだったが、言い返さなかった。
たぶん、言い返せないだけの自覚があるのだろう。
豪炎の魔女も、何でも燃やせばいいわけではない。
この数日で、それは俺にもよく分かった。
⸻
ミラは俺の方へ歩いてきた。
アンナの腕の中にいる俺を見て、少ししゃがむ。
「ヨウカちゃん」
「あう」
「元気そうね」
元気かどうかは微妙だった。
まだ少し疲れが残っている。
でも、寝込むほどではない。
ミラは俺に触れず、少し距離を保ったまま言った。
「あなたのことは、報告には詳しく書かないわ」
俺はミラを見た。
「水に変な反応があった。村人の早い発見があった。そういう書き方にする」
アンナの腕が、ほんの少し強くなった。
ヨシュアも黙っている。
ミラは続けた。
「あなたは便利な道具じゃない。分かる?」
俺は小さく声を出した。
「あう」
分かる。
分かりたい。
たぶん、まだ全部は分かっていない。
でも、その言葉を覚えておく必要があることだけは分かった。
便利な道具ではない。
俺の力は、何かを見つけるかもしれない。
誰かを助けるきっかけになるかもしれない。
でも、だからといって使い潰していいものではない。
それを大人が先に言ってくれる。
ありがたかった。
ミラは少しだけ笑った。
「本当に分かってそうな顔をするのよね」
アンナがため息をつく。
「そうなのよ」
このやり取りにも、少し慣れてきた。
ミラは立ち上がり、最後にカリンの方を見た。
「カリンちゃん」
カリンは俺の隣に立っていた。
今日は木剣を持っていない。
ただ、まっすぐミラを見ている。
「ヨウカちゃんを止めてくれてありがとう」
カリンは少しだけ考えてから、短く言った。
「よーか、むちゃする」
その通りすぎて、俺は目を逸らした。
ミラは笑った。
「そうね。でも、止める人も休まないと駄目よ」
カリンは少し意外そうな顔をした。
たぶん、自分も休む側だとは思っていなかったのだろう。
「私も?」
「そう。あなたも」
カリンは俺を見た。
そして、小さく頷いた。
「わかった」
本当に分かったのかは、少し怪しい。
でも、言葉として受け取っただけでも十分なのかもしれない。
⸻
ミラが村を出たあと、ヨシュアはすぐに村の男たちと森側の柵へ向かった。
黒い根の事件は一応収まった。
けれど、仕事は終わっていない。
むしろ、これからの後始末の方が多い。
森側から雨水が流れ込まないように、浅い溝を掘る。
水たまりができやすい場所に土を盛る。
道具を洗う場所を決める。
森側へ出入りした人の靴を確認する。
地味だった。
かなり地味だった。
けれど、たぶんこれが大事なのだ。
アンナが黒い根を焼くことだけが解決ではない。
ヨシュアが盾で黒い泥を止めることだけが防衛ではない。
その後に、同じことが起きにくいように村を整える。
それも、ちゃんと戦いの続きなのだと思った。
俺はアンナに抱かれたまま、作業を見ていた。
ヨシュアは溝の深さを見ている。
「深すぎる。子どもが足を取られる」
村の男が慌てて土を戻す。
「これくらいですか?」
「もう少し浅くていい。水が逃げれば十分だ」
別の男が聞く。
「幅は?」
「広げすぎるな。家畜が踏む」
指示が具体的だ。
ヨシュアがいると、怖いものが少しずつ作業に変わっていく。
漠然とした不安が、溝を掘る、桶を分ける、靴を洗う、という形になる。
形になれば、人は動ける。
鉄壁の要塞。
その異名は、本当に盾だけの意味ではないのだろう。
⸻
カリンは俺のそばにいた。
けれど今日は、ずっと俺を見張っているわけではなかった。
村の大人たちが溝を掘る様子を見ている。
時々、ヨシュアの足元を見る。
盾は持っていない。
木剣も持っていない。
でも、目は真剣だった。
「カリン」
ヨシュアがふと声をかけた。
カリンはすぐに顔を上げる。
「うん」
「守る時に、何を見る」
カリンは少し考えた。
そして、俺を見た。
たぶん最初に出かけた答えは「ヨウカ」だったのだろう。
でも、それは飲み込んだらしい。
次に、溝を見る。
森を見る。
大人たちを見る。
それから答えた。
「みんな」
ヨシュアは少しだけ目を細めた。
「悪くない」
カリンの顔がわずかに明るくなった。
「ヨウカだけ見てると、ヨウカを危なくすることもある」
カリンは黙った。
その言葉は、少し難しかったと思う。
でも、何となくは分かったのだろう。
カリンは俺の服の端を軽く握った。
「よーかも、みんな?」
ヨシュアが頷く。
「そうだ。ヨウカも、みんなの中にいる」
その言葉は、俺にも刺さった。
ヨウカも、みんなの中にいる。
俺はつい、自分を別枠に置いてしまう。
前世の記憶がある。
変なスキルがある。
加護がある。
赤ん坊なのに大人のように考えてしまう。
だから、自分だけが何かしなければならないような気がする。
でも、違う。
俺も村の中の一人だ。
守る側だけではない。
守られる側でもある。
助ける側だけではない。
助けてもらう側でもある。
そこを忘れると、たぶんまた無茶をする。
カリンは小さく頷いた。
「わかった」
今度は、少し本当に分かったように見えた。
⸻
昼過ぎ、アンナは薬草畑の整理をした。
ミズヒラ草はまだ弱っている。
森側の端にあった株は、完全には戻らなかった。
何本かは抜くことになった。
黒い影響を受けすぎた根は、無理に残しても周りへ悪さをするかもしれないらしい。
アンナは一本ずつ状態を見て、残すものと処理するものを分けていた。
「全部助けるのは、無理なのね」
アンナがぽつりと言った。
俺に言ったというより、自分に言ったような声だった。
俺はその言葉を聞いて、胸の奥が少し重くなった。
全部助けるのは無理。
それは、かなり嫌な言葉だ。
でも、たぶん本当だ。
弱りすぎた根を残せば、周りの草まで悪くなるかもしれない。
一本を諦めることで、他の薬草を守る。
そういう判断もある。
アンナは処理する草を陶器の皿に置き、小さな炎で焼いた。
黒い煙はほとんど出なかった。
でも、念のために火で包んで処理する。
派手さはない。
ただ、丁寧だった。
俺はその様子をじっと見た。
助けるというのは、きれいなことだけではない。
残すものを選ぶ。
処理するものを決める。
危ないものを広げない。
そういう判断が必要になる。
俺はまだ、それを全部受け止められるほど強くない。
でも、見ないふりをしていいものでもないのだろう。
アンナは作業を終えると、俺の頭を撫でた。
「難しい顔」
「あう」
難しいです。
かなり。
アンナは少し笑った。
「今は、全部分からなくていいわ」
それだけ言って、薬草の籠を持ち上げた。
全部分からなくていい。
それもまた、覚えておくべき言葉だった。
⸻
夕方、村の中心で簡単な食事が配られた。
祝いというより、作業をした人たちへの労いだった。
マルタさんのパン。
野菜のスープ。
少しだけ干し肉。
森側の水が使えないので、水の扱いはいつもより慎重だった。
それでも、湯気の立つ鍋を囲むと、村の空気はかなり柔らかくなった。
俺はアンナの膝の上で、柔らかくしたパンを少しもらった。
うまい。
やはりうまい。
スープに浸したパンは、赤ん坊にも優しい。
「あう」
声を出すと、マルタさんが笑った。
「ヨウカちゃんは本当においしそうに食べるねえ」
食べるのは大事だ。
俺の仕事のひとつである。
ヨシュアも器を持って近くに座った。
「よく食え。育て」
いつもの短い言葉。
でも今日は、その言葉が少し違って聞こえた。
育て。
強くなるために。
無茶をしないために。
誰かを助けたいと思った時、自分も壊れないために。
食って、寝て、育つ。
それは赤ん坊だから必要なのではなく、生きるために必要なのだ。
カリンも隣でパンを食べていた。
いつもより少し眠そうだ。
「カリンも食べなさい」
アンナが言う。
カリンは素直に頷いた。
「うん」
そして、いつもより少し大きくパンをかじった。
俺はそれを見て、少し安心した。
カリンもちゃんと食べている。
守る人も、食べなければならない。
当たり前だけど、大事なことだ。
⸻
食事の後、村長が短く話をした。
長い演説ではなかった。
「森はまだ戻っていない。小川も使えない。だが、村は今日も回った」
村人たちは静かに聞いていた。
「明日も水を見る。柵を見る。溝を直す。薬草は無理に採らない。怪しいものは触らない。困ったら一人で抱えず言う」
そこで、村長は一度言葉を切った。
「この数日、それで助かった者がいる」
ルッツが少し気まずそうに腕を押さえる。
子ヤギの飼い主も、静かに頷いていた。
「怖いなら、怖いと言え。分からないなら、分からないと言え。村は一人で守るものじゃない」
その言葉に、俺は少しだけ目を伏せた。
村は一人で守るものじゃない。
たぶん、この章の答えはそれなのだと思った。
いや、章という言い方はおかしい。
俺の人生の、最初の大きな学び。
一人で全部やるな。
気づいたら伝えろ。
怖ければ泣け。
できる人に渡せ。
そして、自分も守られる側に入れ。
全部、同じところに繋がっている。
村長は最後に言った。
「よく耐えた。明日も耐えよう」
派手な勝利宣言ではない。
でも、フィル村にはそれで十分だった。
⸻
夜。
家に戻ると、アンナは俺を寝床に置く前に、少しだけ抱きしめた。
「ヨウカ」
「あう」
「あなたを拾ってよかった」
不意に言われて、俺は固まった。
アンナは俺の顔を見て、少し照れたように笑った。
「急に言いたくなっただけ」
俺は何も言えなかった。
いや、いつも言えない。
でも、今回は特に言葉が出なかった。
拾われた。
あの日、俺は捨てられていた。
実の親は冒険者で、もういない。
前世では、家に安心できなかった。
父は暴れ、母は俺を見ず、俺はどこかで、自分が本当に誰かに選ばれることを諦めていたのかもしれない。
でも今、アンナは言った。
拾ってよかった。
それは、俺が何か役に立ったからではないと思いたかった。
黒い根の場所を伝えたから。
ルッツの傷に気づいたから。
精霊の声を聞いたから。
そういう理由だけではないと、思いたかった。
アンナは俺の額に自分の額を軽く当てた。
「何かできるからじゃないわよ」
胸の奥が、ぎゅっとなった。
この人は本当に、読んでくる。
「ヨウカだから」
それだけだった。
俺はアンナの服を握った。
「あう……」
泣きそうだった。
いや、少し泣いた。
今日は怖くて泣いたわけではない。
苦しくて泣いたわけでもない。
うまく説明できない。
ただ、胸の奥から何かが溢れた。
アンナは何も言わず、俺を抱いていた。
⸻
ヨシュアは少し離れたところで、それを見ていた。
やがて、静かに言った。
「育て」
またそれか。
でも、今度は少し笑いそうになった。
ヨシュアは続ける。
「大きくなれ。強くなるのは、その後でいい」
俺は涙でぼやけた目で、ヨシュアを見た。
「あう」
分かった。
たぶん。
ヨシュアは頷いた。
「まず生きろ」
短い言葉。
でも、重い。
きっとこの人は、守れなかった命も知っている。
だから、俺に何度も言うのだ。
まず生きろ。
カリンも、帰る前に俺の手を握った。
「よーか」
「あう」
「いっしょに、おおきくなる」
俺はカリンを見た。
一緒に大きくなる。
その言葉は、今日一番未来に向いていた。
俺は声を出した。
「あう」
カリンは少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
でも、確かに笑った。
「うん」
今日は、それで十分だった。
⸻
その夜、俺は久しぶりに深く眠れそうだった。
森の声は聞こえない。
水の痛みも、今日は遠い。
ただ、家の音がした。
アンナが薬草をしまう音。
ヨシュアが戸締まりをする音。
暖炉の火が小さく跳ねる音。
それから、外で誰かが笑う声。
フィル村の夜だった。
完全に平和な夜ではない。
森側の柵には見張りがいる。
小川の水は使えない。
黒い根の正体も分からない。
それでも、今日は眠れる。
俺は布人形を抱いた。
不格好な人形。
カリンが作って、直して、貸してくれたもの。
この人形を見ると、この数日を思い出す。
怖かった。
痛かった。
助けたかった。
助けられた。
泣いた。
待った。
戻ってきた。
俺は一歳児だ。
できることは少ない。
でも、何もできないわけではなかった。
気づくことはできた。
伝えることも、少しだけできた。
泣くこともできた。
待つこともできた。
そして、俺一人では何も終わらないことも知った。
誰かを救いたいなら、自分も誰かに支えられなければならない。
それは前世の俺が、あまりうまくできなかったことだ。
でも今世では、覚えていけるかもしれない。
アンナがいる。
ヨシュアがいる。
カリンがいる。
フィル村がある。
俺は目を閉じた。
明日も、井戸の水を見る人がいる。
溝を直す人がいる。
パンを焼く人がいる。
薬草を分ける人がいる。
子どもの手を握る人がいる。
そうやって、日常は続いていく。
どうやら俺は、少しだけ成長したらしい。
そしてこの村で、もう一度ちゃんと育っていけるらしい。




