なんか日常が戻り始めたらしい
森の異変が収まった。
そう言い切れるほど、世界は簡単ではなかった。
小川の水は、まだ使えない。
森側の薬草採りも禁止のまま。
黒い根の正体も、結局分からない。
ただ、朝になると鳥が鳴いた。
井戸の水は澄んでいた。
子ヤギは立った。
ルッツの傷は乾いてきた。
それだけで、村の人たちの顔は昨日より少し明るかった。
完全に戻ったわけではない。
でも、戻り始めている。
それが分かる朝だった。
⸻
アンナは朝から水を調べていた。
机の上には、透明な瓶が三つ並んでいる。
井戸水。
南側の水場の水。
森側の小川の水。
俺はアンナに抱かれたまま、その瓶を見ていた。
もちろん、森側の水は少し離れた場所に置かれている。
俺の視界に入りすぎないように、布もかけてある。
昨日の件があるので、扱いがかなり慎重になった。
ミラは青い葉を一枚ずつ水に浮かべる。
井戸水の葉は、ほとんど色が変わらない。
南側の水場も問題なさそうだった。
森側の小川だけ、葉の端がほんの少し黒ずむ。
以前よりは薄い。
でも、まだ残っている。
ミラはそれを見て、ゆっくり頷いた。
「井戸は大丈夫。南側も大丈夫。森側は、まだ駄目ね」
アンナが息を吐く。
「昨日よりは?」
「良くなってる。でも、飲み水には使えないわ」
ヨシュアが短く言った。
「なら、使用禁止は続ける」
村長も頷いた。
「分かった。森側の水は使わない。薬草採りも、もうしばらく止める」
村長の声に、少し疲れが混じっていた。
無理もない。
森はフィル村にとって大事な場所だ。
薬草、木材、狩り、家畜の餌。
そこを制限されるのは、村にとってかなり痛い。
それでも、誰も強く反対しなかった。
昨日、黒い根を見た人たちが戻ってきた。
小鳥が落ちた。
子ヤギが倒れた。
ルッツの傷もおかしくなった。
それを知っているから、無理はできない。
マルタさんが腕を組んで言った。
「まあ、パンなら焼けるしね。森に入れないくらいで腹は減らせないよ」
村長が少しだけ笑う。
「助かる」
「助かるなら、小麦の配分だけ早めに教えておくれ」
「……分かった」
日常の会話だった。
大事な話なのに、少しだけ普通の村の会話に戻っている。
俺はそれを聞いて、少し安心した。
⸻
昼前、俺は久しぶりに村の中心へ連れて行かれた。
といっても、長居はしない。
アンナが抱き、ヨシュアが近くにいる。
カリンも隣を歩いている。
完全な護送体制である。
一歳児が村の中心に行くだけで、ここまで厳重になるのはどうなのか。
いや、昨日水に触って倒れかけた赤ん坊なので、仕方ないのかもしれない。
村の井戸のそばでは、大人たちが水桶を分けていた。
井戸水用。
南側の水場用。
洗い物用。
汚れた布を入れるもの。
前より作業が細かい。
面倒だろう。
でも、みんな淡々とやっている。
ヨシュアが言っていた。
手間で済むなら安い。
たぶん、そういうことなのだろう。
俺は井戸の水を少しだけ見た。
【井戸水】
飲用可能な水。
状態:良好
よかった。
見すぎないうちに目を逸らす。
すると、アンナが俺の頭を軽く撫でた。
何も言わない。
でも、今のはたぶん、ちゃんと目を逸らせたことへの反応だった。
言葉にされるより、その方が少し嬉しかった。
⸻
ルッツが井戸のそばにいた。
腕にはまだ布を巻いているが、顔色は良い。
俺たちに気づくと、少し照れたように笑った。
「アンナさん、ミラさん。傷、だいぶ良いです」
ミラがすぐに近づく。
「見せて」
ルッツは素直に腕を出した。
もう抵抗しない。
最初に来た時は「大したことない」と言っていたのに、かなり変わった。
傷は乾いていた。
赤みも少ない。
ミラは頷いた。
「いいわね。もう少しだけ布を替えて様子見。森側にはまだ行かないこと」
「はい」
ルッツは真面目に頷いた。
そして、俺の方を見た。
「ヨウカちゃんも、ありがとな」
また言われた。
俺は少し固まった。
「あう」
どういたしまして、でいいのだろうか。
でも、俺だけが助けたわけではない。
俺はただ、変だと気づいて声を出しただけだ。
アンナが洗った。
ミラが見た。
ヨシュアが止めた。
ルッツ自身がちゃんと来た。
それが全部あったから、悪くならなかった。
俺がそう思っていると、ヨシュアが横から言った。
「礼は受け取れ。だが、一人で助けたと思うな」
俺はヨシュアを見上げた。
短い。
でも、分かりやすい。
ルッツも笑った。
「俺も、次からは早く来ます」
「次がない方がいい」
「それは本当にそうです」
村人たちが少し笑った。
緊張で固まっていた空気が、ほんの少し緩む。
俺はルッツを見て、小さく声を出した。
「あう」
今度は、少しだけ素直に受け取れた気がした。
⸻
子ヤギもいた。
飼い主の女の人に連れられて、井戸から少し離れた場所にいる。
まだ走り回るほどではないが、ちゃんと立っていた。
白い毛は少し汚れている。
でも、目は昨日よりはっきりしていた。
「ほら、ヨウカちゃんだよ」
飼い主の女の人がそう言った。
子ヤギは俺の方を見た。
めぇ、と小さく鳴く。
昨日より少しだけ元気な声だった。
俺は少し目を細めた。
【子ヤギ】
状態:回復傾向
軽度疲労
詳細不明。
回復傾向。
それを見るだけで、胸が軽くなる。
俺は声を出した。
「あう」
子ヤギはもう一度鳴いた。
意味は分からない。
でも、悪くないやり取りだった。
カリンが横でじっと子ヤギを見ていた。
「よーか、うれしい?」
「あう」
嬉しい。
カリンは少しだけ頷いた。
「わたしも」
その短い言葉が、今日はやけに穏やかに聞こえた。
⸻
村の中心では、マルタさんがパンを配っていた。
完全な祝いではない。
森側の制限は続いている。
黒い根も残っている。
油断はできない。
それでも、昨日を越えた。
だから、少し温かいものを食べよう。
そういう感じだった。
「ヨウカちゃんも、少し食べるかい?」
マルタさんが、柔らかくしたパンを見せる。
アンナが笑った。
「ほんの少しだけね」
スープに浸したパンを、アンナが冷ましてくれる。
俺は口を開けた。
うまい。
昨日よりうまい気がする。
たぶん、味が変わったわけではない。
こちらの気持ちが少し変わっただけだ。
食べられる。
水が飲める。
誰かがパンを焼いてくれる。
そういうことは、当たり前ではないらしい。
「あう」
俺が声を出すと、アンナが少し笑った。
「おいしい?」
「あう」
おいしい。
かなり。
カリンも隣で小さなパンを食べていた。
いつもより口数が少ない。
たぶん疲れている。
昨日、一日中俺のそばで耐えていたのだ。
カリンもちゃんと休むべきだ。
俺はカリンの服を軽く握った。
カリンは俺を見る。
「なに?」
「あう」
休んで。
そう言いたかった。
伝わったかは分からない。
でも、カリンは少しだけ考えてから、パンを食べ終え、アンナのそばの木箱に座った。
「すわる」
どうやら多少は伝わったらしい。
アンナがそれを見て、微笑んだ。
「いい子ね」
カリンは少しだけ誇らしそうだった。
⸻
午後、ミラは村長の家で報告書のようなものを書いていた。
隣町へ持ち帰るためらしい。
黒い根。
森側の水。
井戸水の状態。
ルッツの傷。
子ヤギの症状。
精霊らしき反応。
それらを、順番に整理している。
俺はアンナに抱かれて、少し離れたところにいた。
ミラは筆を止めずに言った。
「このまま様子を見るしかないわね。根の欠片は残っているけど、今は下手に触らない方がいい」
アンナが聞く。
「隣町に持ち帰る?」
「小さな欠片だけね。しっかり封じて持っていく。詳しく調べられる人に渡すわ」
ヨシュアが眉を寄せる。
「危険は?」
「ある。だから最小限にする。多く持ち帰ればいいというものじゃない」
ミラの声は落ち着いていた。
何でも集めれば解決に近づくわけではない。
危ないものは、持ち運ぶだけで危ない。
それも昨日学んだことだ。
村長が言う。
「王都へ知らせる必要は?」
ミラは少し考えた。
「すぐに王都、というほどではないと思う。でも、隣町で判断して、必要なら上へ上げるべきね。普通の魔物被害ではないから」
普通の魔物被害ではない。
その言葉に、俺の胸の奥が少しだけ冷えた。
やはり、あれは普通ではない。
黒い根。
強い悪性反応。
詳細不明。
その表示を思い出しそうになって、俺は目を閉じた。
見なくていい。
今は。
アンナが俺を抱く腕に少し力を入れた。
「ヨウカ?」
「あう」
大丈夫。
たぶん。
ミラはこちらを見て、筆を置いた。
「この子のことは、報告には詳しく書かないわ」
アンナの目が少し鋭くなる。
「どういう意味?」
「ヨウカちゃんが水に反応したことは、村の対応としては重要。でも、外に細かく書きすぎると、この子自身が調べられる対象になる」
家の中が静かになった。
ヨシュアの顔が険しくなる。
「書くな」
短い言葉だった。
ミラは頷いた。
「書かない。せいぜい、『村人の早期発見により』くらいにする」
アンナは少しだけ息を吐いた。
「ありがとう」
俺はその会話を聞いていた。
調べられる対象。
その言葉は、嫌だった。
俺の力は便利かもしれない。
でも、便利だから知られていいわけではない。
アンナたちはそこも守ろうとしている。
胸の奥が少し温かくなった。
同時に、怖くもなった。
世界は、フィル村だけではない。
外に出れば、俺の力を欲しがる人もいるのかもしれない。
いつかは、そういうことにも向き合う必要があるのだろう。
でも、今はまだ早い。
俺はアンナの服を握った。
アンナは何も言わず、俺の背中を撫でた。
⸻
夕方、森側の柵を見に行ったヨシュアが戻ってきた。
泥の流れは止まっている。
昨日盛った土も崩れていない。
ただ、次に強い雨が降れば、また補強が必要になるらしい。
「柵だけじゃ足りないな」
ヨシュアが言った。
村長が頷く。
「水の流れを変える溝がいるか」
「浅いものでいい。森側から村へ直接流れ込まないようにする」
村人たちが集まり、話を聞いている。
これはもう、魔法や精霊の話ではない。
土を掘る話だ。
水を逃がす話だ。
村を守るための、かなり地味な仕事。
でも、昨日の黒い根を焼くのと同じくらい大事なのだと思う。
水源を少し楽にした。
なら次は、村に悪い水が入らないようにする。
守るとは、そういう積み重ねなのだ。
ヨシュアは村の男たちに短く指示を出していた。
「深く掘りすぎるな。子どもが落ちる」
「水は南側へ逃がす」
「森側の土は素手で触るな」
「終わったら道具を洗え」
一つ一つ、現実的だった。
ヨシュアがいると、村の不安が形になる。
形になれば、対処できる。
俺はそれを見ながら思った。
この人の強さは、本当に盾だけではない。
⸻
夜になる前、ミラがアンナの家に来た。
明日の朝、隣町へ戻るらしい。
まだ完全に解決していないため、数日後にもう一度来ると言っていた。
「本当はもう少しいたいけど、隣町にも知らせないといけないから」
アンナが頷く。
「十分助かったわ」
「こちらこそ。あの黒い根のことは、私も調べたい」
ミラは少しだけ俺を見た。
でも、近づきすぎなかった。
「ヨウカちゃん」
「あう」
「水は、しばらく大人と一緒の時だけね」
これは俺に言っているのか、アンナに言っているのか、両方だろう。
俺は返事をした。
「あう」
ミラは少し笑った。
「分かってるみたいな返事をするのよね」
アンナがため息をつく。
「そうなのよ」
いつもの流れになった。
少しだけ、普通の会話に戻った気がした。
ミラは続けた。
「でも、本当に無理はさせないで。精霊と近すぎる子は、相手の痛みまで拾うことがあるから」
アンナの顔が真面目になる。
「覚えておく」
「覚えておく、じゃなくて守ってね」
「守るわ」
アンナの返事は早かった。
俺はその腕の中で黙っていた。
守られている。
そのことを、ちゃんと受け取れるようにならなければならない。
⸻
その夜、カリンは帰る前に俺のそばに来た。
今日は布人形を持っていない。
代わりに、いつものように俺の手を握った。
「よーか」
「あう」
「きょう、ないてない」
確かに、今日は泣いていない。
昨日は泣いた。
でも今日は、泣くほど苦しくはなかった。
俺は声を出した。
「あう」
カリンは少し考える。
「でも、つかれた?」
「あう」
疲れました。
かなり。
カリンは頷いた。
「じゃあ、ねる」
また睡眠指導が入った。
しかし、今日は言い返す気にはならなかった。
眠った方がいい。
俺もそう思う。
カリンは手を離す前に、少しだけ俺を見た。
「もり、また、たすける?」
俺はすぐには返事できなかった。
森はまだ治っていない。
精霊もまだ痛い。
黒い根も残っている。
きっと、また何かしなければならない時が来る。
でも、それは一人でやることではない。
俺は小さく声を出した。
「あう」
カリンはそれを聞いて、少しだけ頷いた。
「いっしょ」
「あう」
一緒。
その言葉が、今日はとても自然に聞こえた。
カリンは満足そうに俺の手を軽く握ってから、離した。
今日は「よし」とは言わなかった。
でも、何となく、それでよかった。
夜、家の中には久しぶりに静かな音が戻っていた。
アンナが薬草瓶を棚に戻す音。
ヨシュアが外で盾を拭く音。
暖炉の火が小さく跳ねる音。
森のことを忘れたわけではない。
黒い根はまだ残っている。
小川の水も使えない。
明日も井戸を調べるし、森側の柵も見に行く。
それでも、今日はパンを食べた。
ルッツは笑った。
子ヤギは立った。
カリンは「いっしょ」と言った。
それは、たぶん日常が戻ったというより、みんなで日常を戻そうとしているということだった。
俺は布人形を抱え、目を閉じた。
何かを救うのは、一度で終わることばかりじゃない。
傷を見て、水を調べて、土を掘って、眠って、また朝を迎える。
そういう小さなことを積み重ねて、ようやく昨日より少し生きやすくなる。
どうやら、日常が少し戻り始めたらしい。
そしてその日常は、誰かが当たり前に守ってくれているものらしい。




