なんか森が息をしたらしい
朝、鳥の声で目が覚めた。
久しぶりに聞く声だった。
高くて、細くて、少し頼りない。
それでも、確かに鳥の声だった。
俺は寝床の中で、しばらく動かなかった。
体が重い。
昨日、俺はほとんど何もしていない。
水には触らなかった。
森にも行かなかった。
黒い根を焼いたわけでもない。
ただ泣いて、カリンに支えられて、遠くの声を聞いていただけだ。
それなのに、体はかなり疲れていた。
一歳児の体というのは、本当に燃費が悪い。
いや、燃費が悪いというより、容量が小さいのかもしれない。
「あう……」
声を出すと、アンナがすぐに来た。
「起きた?」
いつもの声だった。
昨日より少しだけ掠れている。
アンナも疲れているのだろう。
それでも、俺を覗き込む顔は柔らかかった。
「顔色は……昨日よりいいわね」
アンナは俺の額に手を当てる。
熱はないらしい。
俺はアンナの服を握った。
「あう」
おはよう。
そういうつもりだった。
アンナは小さく笑って、俺を抱き上げた。
「おはよう、ヨウカ」
それだけで、胸が少し温かくなった。
昨日、森から帰ってきたアンナの服には、少し煙の匂いがした。
今はもうしない。
いつもの薬草と、暖かい布の匂いだった。
それが、ちゃんと戻ってきたということに思えた。
⸻
外では、村人たちが朝から動いていた。
井戸の水を汲む人。
桶を分ける人。
森側の柵を見に行く大人。
薬草畑の様子を確認するアンナとミラ。
ヨシュアは村長と話している。
村はまだ警戒している。
森側には近づかない。
小川の水は使わない。
黒い泥や粉に触れたものは、すべて分ける。
その決まりは、昨日と変わらなかった。
けれど、空気は少し違った。
昨日までの、息を詰めるような静けさではない。
まだ怖い。
でも、少しだけ息ができる。
そんな朝だった。
アンナは俺を抱いたまま、薬草畑の端へ向かった。
そこには、前に萎れていたミズヒラ草があった。
葉の先はまだ丸まっている。
元気いっぱい、というわけではない。
でも、昨日よりは少しだけ持ち上がっていた。
ミラがしゃがみ込んで、葉を指先で確認する。
「戻りかけてるわね」
アンナが小さく息を吐いた。
「よかった」
ミラは首を振った。
「まだ油断はできないけどね。根が完全に元気になったわけじゃない。でも、悪くなり続けている感じではないわ」
俺も少しだけ見た。
【ミズヒラ草】
水気を好む薬草。
状態:回復傾向。
微弱な魔力の乱れあり。
回復傾向。
その文字を見て、胸の奥が少し緩んだ。
治ったわけではない。
でも、悪くなってはいない。
それだけで、今日は十分だった。
俺がじっと見すぎる前に、アンナが俺の視界をそっとずらした。
「今日は少しだけ」
「あう」
はい。
少しだけにします。
昨日のことがあるので、さすがに俺も反省している。
たぶん。
⸻
ルッツも来た。
腕の傷をミラに見せるためだ。
顔色はかなり良くなっている。
腕の包帯を外すと、傷は乾き始めていた。
ミラが確認し、アンナも横から見る。
「もう黒い反応はほとんどないわ」
ミラが言った。
「ただ、しばらく森側には行かないこと」
ルッツは素直に頷いた。
「はい。もう行きません。正直、あれは怖いです」
素直だ。
かなりいい。
怖いものを怖いと言えるのは、大事なのかもしれない。
俺はルッツを見た。
【ルッツ】
状態:軽度疲労
傷:回復傾向
よかった。
本当に。
ルッツは俺に気づくと、少し笑った。
「ヨウカちゃんも、元気そうでよかった」
「あう」
元気というほどではないが、生きています。
ルッツは俺が何を言ったのか分かるはずもないのに、なぜか満足そうに頷いた。
村の人たちは、最近俺の「あう」を都合よく解釈しすぎている気がする。
まあ、悪い気はしない。
⸻
子ヤギも無事だった。
森側の水たまりを舐めたらしい、あの白い子ヤギだ。
まだ少し弱っているが、朝には立てるようになったらしい。
飼い主の女の人が、ミラに何度も頭を下げていた。
「助かりました。本当に」
ミラは少し困ったように笑った。
「まだ様子見よ。今日明日は森側の草も食べさせないで」
「はい」
子ヤギは、細い声で鳴いた。
昨日より少しだけ強い声だった。
めぇ。
その鳴き声を聞いて、俺は思わず目を閉じた。
昨日まで、森は音が薄かった。
虫の声も、鳥の声も、獣の気配も、どこか遠かった。
でも今日は、少しだけ戻ってきている。
それは大きな勝利ではない。
完全な解決でもない。
でも、戻ってきている。
それだけで、村の人たちの顔は少し変わった。
⸻
昼前、村長の家の前に大人たちが集まった。
会議というほど硬いものではない。
ただ、これからどうするかを確認するための集まりだった。
俺はアンナに抱かれて、少し離れたところから聞いていた。
ヨシュアが言う。
「森側の小川は、まだ使用禁止だ。湧き場の黒い根は締めつけていた部分を焼いたが、奥に残っている」
村人たちが小さくざわめく。
完全には消えていない。
その事実は、やはり重い。
ミラが続けた。
「でも、水の流れは少し戻ってる。今すぐ村に広がる危険は下がったと思う。ただ、雨が降ったらまた確認が必要ね」
村長が頷いた。
「森側の柵と水たまりは毎日見る。井戸も朝夕に確認する。薬草採りはしばらく禁止だ」
パン屋のマルタさんが、腕を組んで言った。
「不便だけど、仕方ないねえ」
「仕方ないで済むなら安い」
ヨシュアが短く返した。
村人たちはそれに頷いた。
誰も文句を言わなかったわけではない。
不安そうな人もいる。
困った顔の人もいる。
森に入れないと困る人もいるのだろう。
それでも、村は崩れていない。
それぞれが、今できることを受け入れようとしていた。
俺はそれを見ながら思った。
守るというのは、魔物を倒すことだけではない。
危ない水を使わないこと。
不便でも森に入らないこと。
井戸を毎日見ること。
怪我を放置しないこと。
誰か一人に全部押しつけないこと。
そういう地味なものも、ちゃんと守ることなのだ。
⸻
話し合いの最後に、村長がアンナたちへ深く頭を下げた。
「助かった。全員、よく戻ってきてくれた」
アンナは少し困った顔をした。
「まだ終わってません」
「分かっている。だが、昨日よりは生きやすい」
その言葉に、村人たちも静かに頷いた。
昨日よりは生きやすい。
たぶん、それでいい。
完全に救うことだけが救いではない。
昨日より少し息ができる。
今日を越えられる。
それも、確かに助けなのだと思う。
ミラが俺の方をちらっと見た。
「この子も、よく耐えたわね」
アンナの腕に少し力が入る。
「耐えた、のかしら」
ミラは苦笑した。
「少なくとも、昨日は無理に水へ手を伸ばさなかったのでしょう?」
俺は目を逸らした。
見られている。
カリンが横から静かに言った。
「ないた」
ミラは少し驚いた顔をして、それから笑った。
「そう。なら、とても大事なことをしたわね」
泣いたことを褒められた。
前世の俺なら、たぶん変な顔をしていただろう。
でも今は、少し分かる。
泣くことは、助けを呼ぶこと。
苦しいと伝えること。
一人で背負わないこと。
昨日の俺は、水に手を伸ばす代わりに泣いた。
それが良かったのだとしたら、少しだけ成長したのかもしれない。
ほんの少しだけ。
赤ん坊の一歩くらい。
⸻
夕方、アンナは俺を抱いて家の裏へ行った。
薬草畑の向こうに、森が見える。
近づきはしない。
ただ、少し離れた場所から眺めるだけ。
カリンも隣にいた。
今日は木剣も布人形も持っていない。
ただ、俺の服の端を軽く握っている。
森は、昨日と同じ森に見える。
木があり、葉があり、影がある。
でも、音が違った。
虫の声がある。
鳥の声がある。
遠くで小さな獣が草を踏むような音もした。
弱い。
まだ少ない。
でも、ある。
森が、少しだけ息をしている。
そんな感じがした。
その時、胸の奥に小さな気配が触れた。
いたい。
まだ、それはある。
完全には消えていない。
でも、そのあとに、別の響きが続いた。
ありがとう。
小さくて、頼りない声だった。
俺は目を閉じた。
返事をしようとはしなかった。
水も使わない。
魔力も動かさない。
ただ、聞くだけ。
聞いて、忘れないだけ。
アンナが俺の顔を覗き込んだ。
「何か聞こえた?」
俺は少しだけ声を出した。
「あう」
アンナはそれ以上聞かなかった。
ただ、俺の背中を撫でた。
「そう」
それだけだった。
その短さがありがたかった。
全部を聞かれても、俺には答えられない。
言葉にできないものは、まだ多すぎる。
⸻
カリンがぽつりと言った。
「もり、なおった?」
俺は答えられない。
アンナもすぐには答えなかった。
少しだけ森を見てから、静かに言う。
「治りかけ、かな」
「なおりかけ」
カリンはその言葉を繰り返した。
「まだ、いたい?」
アンナは俺を見た。
俺はカリンを見た。
たぶん、まだ痛い。
でも、昨日ほどではない。
俺は声を出した。
「あう……」
カリンはしばらく考えてから、俺の服を握る手に少しだけ力を入れた。
「じゃあ、また、たすける」
その言い方は、幼い。
でも、まっすぐだった。
また助ける。
一度で全部終わらないなら、また助ける。
それは単純で、でも、とても大事な考え方だった。
アンナが少し笑った。
「そうね。でも、今度はちゃんと大人と一緒にね」
カリンは頷いた。
「うん」
俺も小さく声を出した。
「あう」
大人と一緒に。
カリンと一緒に。
みんなと一緒に。
それを忘れないようにしなければならない。
⸻
夜、家の中は久しぶりに少しだけ穏やかだった。
ヨシュアはいつもより早く戻ってきた。
盾の黒い跡は、まだ完全には落ちていないらしい。
外で丁寧に拭いていた。
「削る必要があるな」
ヨシュアが言う。
アンナが眉を寄せる。
「大丈夫なの?」
「ああ。表面だけだ」
ミラが残していった薬草液で洗い、黒い跡を布で分ける。
本当に地味な作業だ。
でも、こういう後始末が大事なのだろう。
戦いは、終わった後も続く。
汚れを落とす。
道具を見る。
怪我を確認する。
水を調べる。
そうしないと、本当の意味では終わらない。
ヨシュアは盾を拭きながら、俺を見た。
「ヨウカ」
「あう」
「昨日のことは、助かった」
俺は少し固まった。
ヨシュアがはっきり礼を言うのは、少し珍しい気がした。
「だが、次は大人を使え」
大人を使え。
変な言い方だった。
アンナが少し呆れた顔をする。
「言い方」
ヨシュアは首を傾げた。
「間違ってるか?」
「間違ってはいないけど」
俺は思わず小さく声を出した。
「あう」
たぶん、それは少し分かりやすかった。
自分で水に手を伸ばすのではなく。
自分で全部見ようとするのではなく。
大人を使う。
アンナに言う。
ヨシュアに頼る。
ミラに渡す。
カリンに止めてもらう。
助けたいなら、助けを呼ぶ。
たぶん、そういうことだ。
ヨシュアは俺の頭を軽く撫でた。
「一人でやるな」
短い。
でも、十分だった。
⸻
その夜、カリンは帰る前に布人形を持ってきた。
昨日まで貸してくれていた人形だ。
「なおした」
見ると、少しだけ縫い目が増えていた。
黒い布の髪は相変わらずずれている。
目も少し歪んでいる。
でも、前よりほどけにくそうになっていた。
カリンの母親に手伝ってもらったのかもしれない。
カリンはそれを俺の横に置いた。
「また、かす」
「あう」
ありがとう。
カリンは少し眠そうだった。
昨日も今日も、ずっと俺のそばにいた。
疲れて当然だ。
俺はカリンの手に触れた。
小さな手。
俺より大きいが、まだ幼い手。
この手が、昨日俺を森の奥から引き戻してくれた。
俺は声を出した。
「あう」
カリンは俺を見た。
たぶん、何かを察したのだろう。
少しだけ表情を緩めた。
「うん」
それだけだった。
今日は「よし」とは言わなかった。
言わない方が、何となく合っていた。
⸻
眠る前、俺は自分の中を少しだけ見た。
無理には見ない。
ただ、状態だけ。
【ヨウカ】
状態:疲労
魔力:やや消耗
詳細不明。
疲労。
やや消耗。
その程度で済んだのなら、よかったのかもしれない。
いや、よくはない。
でも、戻ってこられた。
それは大事だ。
俺は布人形を抱えた。
遠くで、水の気配がした。
ありがとう。
まだ、いたい。
でも、ながれる。
その声は、とても小さかった。
俺は目を閉じる。
返事はしない。
今は、聞くだけ。
そして、眠る。
俺の仕事はまだ、食って、寝て、育つことだ。
でも、それだけではなくなってきている気もする。
気づくこと。
渡すこと。
泣くこと。
頼ること。
待つこと。
それも、今の俺にできることだった。
フィル村は、まだ完全に安全ではない。
森も、完全には治っていない。
黒い根の正体も分からない。
でも、今日の森には鳥の声があった。
薬草は少し戻り、子ヤギは立ち、ルッツの傷は乾いた。
昨日より、生きやすい。
それで十分な日もある。
どうやら、森は少し息をしたらしい。
そして俺も、この村で生きるということを、ほんの少しだけ覚えたらしい。




