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なんか初めて村の外へ出るらしい

朝は、いつもより早かった。

 

空気がまだ冷たい。

 

庭の草に、露がついている。

 

俺は玄関の前で、小さな袋を両手で持っていた。

 

水筒。

 

布。

 

木札。

 

薬草の小袋。

 

そして、袋の奥に布人形。

 

カリンが昔作ってくれた人形だ。

 

町では出さない。

 

でも、持っていく。

 

それだけは決めていた。

 

アンナが俺の襟元を直す。

 

「苦しくない?」

 

「うん」

 

「眠い?」

 

「ちょっと」

 

アンナは笑った。

 

「正直でよろしい」

 

ヨシュアは荷物を確かめていた。

 

水。

 

布。

 

薬。

 

ミラへの返事。

 

大人の荷物は、俺のよりずっと多い。

 

それでも、平気な顔で背負う。

 

体が大きいからではない。何を持つべきか分かっているのだ。

 

俺の袋は軽いのに、重く感じた。

 

これくらいが、今の俺の持てる量なのだ。

 

「ヨウカ」

 

声に顔を上げると、カリンが来ていた。

 

背中には盾。

 

手には持っていない。

 

肩から水筒。

 

腰に小さな袋。

 

いつもより、旅をする子に見えた。

 

「眠れた?」

 

「少し」

 

「私も。人形は?」

 

「入ってる。町では出さない」

 

「出したくなったら?」

 

「アンナに聞く」

 

カリンは満足そうに頷いた。

 

なぜカリンが確認する側なのだろう。

 

もう慣れた。

 

ヨシュアが家の戸を閉める。

 

「行くぞ」

 

その一言で、胸の奥が跳ねた。

 

本当に行く。

 

フィル村の外へ。

 

俺は袋の紐を握り直した。

 

 

村の中は、まだ静かだった。

 

細い煙。

 

鶏の声。

 

井戸で水を汲む音。

 

全部、知っている音だ。

 

今日は、その音の間を抜けて外へ出る。

 

だからいつもの村が、いつもより広く見えた。

 

マルタさんの家の前で、パンの匂いがした。

 

思わずそちらを見ると、カリンがすぐ言う。

 

「ヨウカ」

 

「見ただけ」

 

「匂いも見てた」

 

匂いも見ていた。

 

よく分からないが、合っている。

 

俺は前を向いた。

 

パンは強い。

 

今日は、その先の方が強い。

 

村長の家の前で、村長が待っていた。

 

「おお、行くか」

 

「はい」

 

俺もカリンも頭を下げる。

 

「見たいものが多くても、足は勝手に動かさないようにな」

 

「はい」

 

見たいものが多くても。

 

村長にも分かっているらしい。

 

俺は恥ずかしくなった。

 

村長はヨシュアに目を向けた。

 

「ミラさんによろしく。黒い根のことも、分かったらまた話を」

 

ヨシュアが頷く。

 

その一言で、空気がわずかに重くなった。

 

ルーベルへ行くのは、ただの見物ではない。

 

薬師工房も、薬草も、楽しみだ。

 

でもその奥には、黒い根の欠片がある。

 

まだ終わっていないものが、待っている。

 

アンナが俺の背中にそっと触れた。

 

「大丈夫」

 

俺は頷いた。

 

大丈夫。

 

一人ではないから。

 

 

村の端まで来た。

 

いつも遊ぶ場所より先。

 

薬草を取りに行く道より、さらに先。

 

低い柵の向こうに、外へ続く道が伸びていた。

 

そこで、俺は立ち止まった。

 

カリンも隣で止まる。

 

袖は引かない。

 

ヨシュアも急かさない。

 

村の境目だ。

 

ここを越えたら、俺が知っている世界の外側になる。

 

俺は一度、後ろを見た。

 

家。

 

畑。

 

煙。

 

人の声。

 

拾われてから、ずっといた場所。

 

何も知らなかった俺が、歩いて、話して、手伝えるようになった場所。

 

息を吸って、声に出した。

 

「行く」

 

一歩、柵の外へ出る。

 

地面は地面だ。

 

空も、風も、変わらない。

 

何も起きない。

 

でも、胸の中だけは違った。

 

俺は本当に、村の外に出た。

 

「転んでない」

 

カリンが言う。

 

「うん」

 

「まだ」

 

まだ、とは何だ。

 

でも、心配しているらしい。

 

ヨシュアが少し笑った。

 

「まだ出たばかりだ。先は長いぞ」

 

先は長い。

 

その言葉すら、嬉しかった。

 

 

道は思ったより広かった。

 

村の中の道より、ずっと踏み固められている。

 

乾いた土に、車輪の跡が二本走っていた。

 

深いところと、浅いところがある。

 

荷物が重い時に深くなるのだろうか。

 

雨の日はぬかるむのだろうか。

 

考えていると、足が遅くなった。

 

「ヨウカ、見すぎ」

 

カリンが横で言う。

 

「車輪の跡」

 

「歩きながら」

 

「うん」

 

一回だけ言われて、俺は前を向いた。

 

それで足りた。

 

道の横には草が生えている。

 

村の中で見るのと、葉の色が違う。

 

日当たりか、土か。

 

鑑定すれば名前が分かる。

 

今日は、目で見るだけにした。

 

知らない草が、知らない色で揺れている。

 

それだけで面白い。

 

後ろから音がした。

 

ごとごと、と木の軋む音。

 

「道の端」

 

ヨシュアが言う。

 

俺とカリンはすぐ端へ寄った。

 

カリンは前に出ず、俺の肩に手を添えるだけ。

 

昨日までの練習の形だ。

 

ロバの引く荷車が近づいてくる。

 

荷台に袋が積まれ、横に男の人が座っている。

 

知らない人だ。

 

荷物も、ロバも、車輪も、全部見たい。

 

でも端から動かない。

 

男の人は俺たちを見て、軽く手を上げた。

 

「おはようさん」

 

ヨシュアが返す。

 

俺も遅れて頭を下げた。

 

荷車はそのまま通り過ぎ、土と乾いた袋の匂いを残していく。

 

「今のはよかった」

 

ヨシュアが後ろから言った。

 

胸が温かくなる。

 

でも、道はまだ続いている。

 

 

しばらく歩くと、畑が減って、低い草地と小さな林が増えた。

 

村から見ていた森とは違う。

 

浅くて、道に近い林。

 

鳥の声がして、風で葉が揺れる。

 

俺は耳を澄ませた。

 

精霊の気配がある。

 

村の中とは違う。

 

水場の近くに、薄く流れる気配。

 

遠くで、こちらを見ているような、見ていないような気配。

 

「どうしたの?」

 

アンナが聞く。

 

「森の感じ、ちがう」

 

「場所が変われば、空気も変わるわ」

 

「精霊も?」

 

アンナは俺を見て、小さく頷いた。

 

「たぶんね」

 

家族は、俺が何かを感じていることをなんとなく知っている。

 

それでも、全部は言葉にしない。

 

俺も全部は言わない。

 

気配が違う。

 

今は、それでいい。

 

「怖い?」

 

カリンが聞く。

 

俺は林を見た。

 

少し怖い。

 

でも、黒い根の時の怖さとは違う。

 

ここはただ、知らないだけだ。

 

「ちょっと。でも、きれい」

 

カリンも林を見て、短く頷いた。

 

守るためだけでなく、ちゃんと見ている。

 

それが嬉しかった。

 

 

途中で一度、大きな木の下で休んだ。

 

ヨシュアが水を出し、アンナが布を敷く。

 

歩いただけなのに、思ったより疲れていた。

 

道が長い。

 

音も、匂いも違う。

 

見るものが多い。

 

それだけで、体が疲れる。

 

「疲れたか」

 

ヨシュアが聞いた。

 

行きたい。

 

疲れていないと言いたい。

 

でも、嘘は危ない。

 

「少し」

 

「よし」

 

疲れたのに、よし。

 

不思議そうにしていると、ヨシュアが言った。

 

「言えたならよしだ」

 

疲れていないふりをするのが駄目なのだ。

 

カリンも水を飲んでいる。

 

「カリンは?」

 

「少し」

 

「同じ」

 

「うん」

 

木の上で、知らない鳥が鳴いた。

 

どこにいるのか探したい。

 

見上げすぎると首が痛くなる。

 

少しだけ見て、やめた。

 

その加減を、俺は覚えている途中だ。

 

 

休憩のあと、道は広くなり、行き交う人も増えた。

 

荷物を背負った男。

 

布を抱えた女。

 

子どもを連れた親子。

 

腰に短い剣を下げた人。

 

冒険者だろうか。

 

それとも、護身用か。

 

見たい。

 

聞きたい。

 

それでも、知らない人にじっと目を向けすぎない。

 

前を見て、時々足元を見て、時々大人の位置を見る。

 

カリンは横で忙しそうだった。

 

俺を見て、道を見て、荷車を見て、また俺を見る。

 

「目が忙しい」

 

俺が言うと、カリンも返す。

 

「ヨウカも」

 

「うん。私も」

 

二人とも忙しい。

 

おかしくなって、笑いそうになった。

 

カリンは真面目な顔のままだったが、口元が動いた。

 

気のせいではない。

 

道の先から、二人組の旅人が来た。

 

一人は大きな荷物。

 

もう一人はフードを深くかぶっている。

 

顔は見えない。

 

靴だけが見えた。

 

村の人のものと違う、丈夫で、汚れ方も違う靴。

 

遠くから来た人かもしれない。

 

すれ違う時、相手がこちらを見た。

 

一瞬の、ただの視線。

 

それが、村の人の視線とは違った。

 

俺を知らない目。

 

少し怖い。

 

でも、それが外なのだと思った。

 

アンナの手が背中に軽く触れる。

 

俺は頷いた。

 

旅人たちは何も言わずに通り過ぎた。

 

それだけ。

 

何も起きない。

 

それなのに、胸は早く動いていた。

 

知らない人とすれ違うだけで、こんなふうになる。

 

ルーベルには、もっとたくさんいるのだろう。

 

 

昼に近づく頃、道の向こうに屋根が見えてきた。

 

木々の間に、いくつもの煙。

 

村の煙より、ずっと多い。

 

道が緩く曲がると、その先に柵と門が見えた。

 

足を止めそうになる。

 

止まる前に、カリンが小さく言った。

 

「歩く」

 

「うん」

 

歩きながら見た。

 

フィル村よりずっと大きい。

 

屋根が重なり、家が密集している。

 

遠くからでも、人の声が聞こえる。

 

木を打つ音。

 

金属を叩くような音。

 

荷車の音。

 

犬の声。

 

いや、犬だけではない。

 

いろんな音が混ざって、こちらへ流れてくる。

 

門に近づくほど、音が大きくなる。

 

匂いも増える。

 

土。

 

煙。

 

食べ物。

 

動物。

 

それから、知らない匂い。

 

全部が一度に来て、頭の中が忙しくなった。

 

鑑定を使いたくなる。

 

でも、まだ使わない。

 

まず目で見て、耳で聞いて、足で立つ。

 

カリンが俺の横で、小さく息を吸った。

 

「来た」

 

「うん」

 

「ルーベル」

 

俺は前を見た。

 

フィル村の外。

 

初めての町。

 

ミラのいる場所。

 

知らない人と、知らない店と、知らない音がある場所。

 

怖い。

 

でも、見たい。

 

その気持ちは、今が一番強かった。

 

俺は、もう一歩進んだ。

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