なんかみんなで助けるらしい
昨日のことは、カリンの短い説明でだいたい分かった。
俺が水に触れた。
水が光った。
俺が疲れて、倒れかけた。
カリンの説明はそれだけだった。
けれど、それだけで十分だったらしい。
ミラは、木の杯に残った井戸水を見て言った。
「水を媒介にした共鳴、みたいなものね」
共鳴。
その言葉は、妙にしっくりきた。
俺が魔法を使ったというより、向こうの痛みに引っ張られて、こちらの水まで震えた。
その震えに、言葉にならないものを乗せた。
そんな感覚だった。
アンナは俺を抱いたまま、静かに言った。
「助かったわ」
俺はアンナを見上げた。
「あう……」
「でも、もう勝手に水に触っちゃ駄目」
その声は、怒っているというより、怖がっていた。
「あなたが痛くなる」
俺は何も言えなかった。
いや、もともと言えないのだが、そういうことではない。
反論する資格がなかった。
カリンは俺の隣で、ずっと黙っていた。
ただ、俺の手だけは離さなかった。
⸻
黒い根は、昨日よりも細く見えたらしい。
けれど、弱ったわけではなかった。
湧き石の奥に入り込んだ芯だけが残り、水の流れをまだ締めつけている。
ミラは青い葉を水面に浮かべ、眉を寄せた。
「表は焼けた。でも、奥が残ってる」
アンナは指先に火を灯した。
炎は小さい。
牙猪を焼いた時の炎とはまるで違う。
針の先ほどの、白く細い火だった。
「ここを焼けばいいのね」
「たぶん。でも、水が揺れたら止めて」
ヨシュアは盾を構えたまま、周囲を見ていた。
「来るなら止める」
短い言葉だった。
それだけで、アンナは頷いた。
その頃、俺は村で泣いていた。
⸻
胸の奥が強く震えた。
いたい。
こわい。
にげたい。
声が重なって、俺は布人形を抱えたまま泣いた。
昨日のように水へ手を伸ばしはしなかった。
水差しは、手の届かない場所に置かれている。
カリンは何も言わなかった。
ただ、俺の背中に手を回した。
三歳の腕だ。
小さくて、頼りない。
それでも、俺を森の奥から引き戻すには十分だった。
俺は泣いた。
泣いて、カリンに支えられた。
自分でどうにかしようとしなかった。
それだけで、昨日よりは少しましだった。
⸻
森の奥で、アンナの火が黒い芯に触れた。
ぱち、と嫌な音がした。
普通の植物が燃える音ではない。
湿った骨を焼くような、ひどく嫌な音だったと、後でミラが言っていた。
黒い煙が上がる。
アンナはすぐに、その煙ごと炎で包んだ。
森に広げない。
水に落とさない。
吸わせない。
燃やすというより、閉じ込めて消す。
けれど、黒い根は黙って焼かれてはくれなかった。
湧き水が大きく波打つ。
黒い泥のようなものが、水の中から盛り上がった。
小さな獣の形にも見えたらしい。
子ヤギほどの大きさ。
でも、目はない。
口もない。
ただ、黒い泥と根が絡まって動いている。
「下がれ」
ヨシュアの声が低く響いた。
泥の獣が跳ねる。
次の瞬間、ヨシュアの盾がそれを受け止めた。
鈍い音が森に響く。
黒い泥が盾にぶつかり、弾けた。
ミラが叫ぶ。
「根から剥がれた汚れよ! 本体じゃない!」
「燃やしていい?」
アンナが聞く。
「水から離れた分だけなら!」
アンナは即座に火を放った。
大きな炎ではない。
逃げ道を塞ぐような、小さく速い炎。
黒い泥が焼ける。
煙が上がりかける。
それすらも、アンナは炎で包んで消した。
豪炎の魔女。
その異名に反して、今のアンナの炎は派手ではなかった。
けれど、必要なものだけを焼くという意味では、今までで一番すごい炎だったのかもしれない。
⸻
俺は泣きながら、遠くの気配を感じていた。
見えているわけではない。
水にも触れていない。
それでも、震えは届く。
こわい。
いたい。
でも、その奥に、少しずつ別のものが混ざり始めた。
ゆるむ。
ながれる。
黒い根が、少しずつ緩んでいる。
水が流れようとしている。
精霊の声が、ほんの少し呼吸を取り戻している。
俺は布人形を握りしめた。
カリンはずっと黙っていた。
ただ、俺の背中を撫でていた。
ぎこちない手つきだった。
でも、ちゃんと優しかった。
「よーか」
一度だけ、カリンが俺の名前を呼んだ。
それだけだった。
その一言で、俺はまだ村にいるのだと思い出せた。
森ではない。
黒い根の前ではない。
俺はアンナの家にいる。
カリンがそばにいる。
だから、戻れる。
⸻
森の奥では、処置が続いていた。
アンナが黒い芯を焼く。
ミラが水の反応を見る。
ヨシュアが湧き場の前に立ち、黒い泥が出るたびに盾で受けた。
何度もではない。
けれど、二度、三度、小さな泥の塊が水から跳ねたらしい。
そのたびにヨシュアが止め、アンナが焼いた。
ミラは青い葉を取り替えながら、短く伝える。
「そこは深い」
「止めて」
「もう少し左」
「今。水が引いた」
三人は、それぞれ違うことをしていた。
でも、同じものを守ろうとしていた。
水源。
弱った精霊。
そして、フィル村。
誰か一人でも欠ければ、たぶん無理だった。
アンナだけなら、水源まで焼いてしまう危険がある。
ミラだけなら、根を処理できない。
ヨシュアだけなら、相手にならない。
ダンがいなければ、そこまで迷わず行けない。
村長がいなければ、村の守りが乱れる。
カリンがいなければ、俺はまた水に手を伸ばしていたかもしれない。
俺が昨日伝えなければ、根元は分からなかったかもしれない。
全部が必要だった。
誰か一人が救ったわけではない。
そういう出来事だった。
アンナの炎が、黒い芯の一部を焼き切った瞬間。
湧き水が一度、大きく震えたらしい。
ミラが青い葉を見た。
葉の黒ずみが、ゆっくり薄くなっていく。
完全に戻ったわけではない。
でも、さっきより明らかに薄い。
水面の奥で、小さな光が揺れた。
ミラは息を呑んだ。
「いる……」
アンナは炎を止めた。
水の中に、雫のような光があった。
小さな魚にも見える。
子どもの手のひらほどの、淡い光。
それは少しだけ震えながら、水の流れに身を任せていた。
黒い根は、まだ石の奥に欠片のように残っている。
でも、締めつけは外れた。
水が流れる。
細く。
弱く。
けれど、ちゃんと流れる。
ミラは小さく言った。
「助かった、のかもしれない」
アンナはその光を見て、静かに息を吐いた。
「まだ痛そうね」
「ええ。でも、さっきよりはずっといい」
ヨシュアは盾を下ろさなかった。
「戻れるか?」
「戻れるわ」
ミラが頷く。
「これ以上は触らない方がいい。今は、流れが戻ったところで止めるべき」
アンナも頷いた。
「分かった」
そこで終わり。
完全に消すのではない。
完全に治すのでもない。
これ以上悪くしないところで止める。
それも、大事な判断だった。
⸻
最初の知らせは、ダンが持って帰ってきた。
村長が駆け寄る。
「どうだ?」
ダンは息を整えながら答えた。
「水が……少し戻りました。黒い根は、全部じゃないけど、締めていたところは焼けたって」
村人たちがざわめく。
「本当か」
「鳥も戻ってたぞ」
「井戸は?」
「井戸は今のところ無事だ」
村長が声を張った。
「まだ森側には近づくな! だが、落ち着いて動け! 水の確認は続ける!」
その声を聞いて、村の空気が少しだけ緩んだ。
完全な安心ではない。
でも、絶望でもない。
俺はカリンの腕の中で、泣き疲れていた。
カリンは何も言わない。
ただ、俺の手を握っていた。
その手の力が、少しだけ抜けた。
カリンも、ずっと限界だったのだ。
俺だけではない。
みんな怖かった。
それでも、みんな自分の場所で耐えていた。
⸻
夕方、アンナたちが戻ってきた。
靴は外で脱がれた。
服についた泥は分けられた。
ミラは青い葉を入れた袋を慎重に持っている。
ヨシュアの盾には、黒い跡がいくつか残っていた。
アンナの顔は疲れていた。
それでも、歩いていた。
帰ってきた。
俺は寝床の上で体を起こそうとした。
うまくいかなかった。
泣いたし、疲れているし、眠い。
それでも、手だけは伸びた。
「あう……」
アンナが俺のそばに来た。
「ただいま」
俺を抱き上げる。
服は着替えていたのに、少しだけ煙の匂いがした。
アンナの匂いだった。
俺はその服を握った。
「あう」
おかえり。
本当に。
アンナは俺を抱いたまま、しばらく何も言わなかった。
それから、小さく言った。
「助けたのは、みんなよ」
俺はアンナを見上げた。
「ヨウカだけじゃない。私だけでもない。ヨシュアも、ミラも、ダンも、村長も、カリンも。みんなで少しずつやったの」
その言葉が、胸に落ちた。
救った。
と言えるのかは、まだ分からない。
精霊はまだ弱っている。
黒い根も全部消えたわけではない。
森が完全に元通りになったわけでもない。
でも、水は少し流れた。
鳥は戻り始めた。
村はまだ立っている。
それは、誰か一人の力ではなかった。
俺は気づいた。
アンナは焼いた。
ヨシュアは守った。
ミラは見極めた。
ダンは道をつないだ。
村長は村を動かした。
カリンは俺を止めて、支えた。
みんなで、少しだけ助けた。
それでいいのだと思った。
いや、それがいいのかもしれない。
一人で全部救うなんて、たぶん危ない。
救われる側も。
救う側も。
⸻
夜。
俺はアンナの膝の上にいた。
カリンも帰る前に、俺のそばに座った。
その目は眠そうだった。
「よーか」
「あう」
カリンは少しだけ俺の顔を見た。
「ないた」
「あう……」
泣きました。
「よかった」
俺は少し驚いた。
泣いたのが、よかった。
そう言われた。
カリンは続けた。
「ひとり、しなかった」
その言葉に、俺は黙った。
そうか。
昨日の俺は、水に触れて、無理をした。
でも今日は、水に触れなかった。
苦しくなった時、泣いた。
カリンに抱えられた。
自分で何とかしようとしなかった。
それを、カリンは「よかった」と言っている。
俺はカリンの服を握った。
「あう」
ありがとう。
今度は少し伝わった気がした。
カリンは小さく頷いた。
いつもの確認の言葉は、今日は出なかった。
ただ、静かに俺の手を握った。
その手は温かかった。
⸻
眠る前、遠くで水の気配がした。
昨日までのような、胸を締めつける痛みではない。
まだ弱い。
まだ細い。
でも、流れている。
声がした。
ありがとう。
それから、少し遅れて。
まだ、いたい。
俺は目を閉じた。
全部は終わっていない。
それでも、少し助けられた。
今は、それでいい。
俺一人で救ったわけではない。
俺一人で背負う必要もない。
それを忘れないようにしようと思った。
どうやら、みんなで助けるらしい。
そして俺は、誰かを救いたいなら、自分もその「みんな」の中に入れてもらわなければならないらしい。




