なんか声が届くらしい
アンナは、炎を出さなかった。
黒い根を前にして、指先に魔力を集めたまま、じっと止まっていたらしい。
後から聞いた話だ。
森の奥の湧き場には、昨日と同じ黒い根があった。
苔むした湧き石の割れ目に入り込み、水の出口を締めつけるように絡みついている。
水は流れている。
けれど、流れているというより、無理やり絞り出されているようだったという。
ミラは水面に青い葉を浮かべ、顔をしかめた。
「昨日より濃いわ」
ヨシュアが盾を構えたまま聞く。
「悪くなっているのか」
「流れが止まりかけてる。根が奥に食い込んでるのかもしれない」
アンナは答えなかった。
ただ、黒い根の表面を見ていた。
焼ける。
それは分かる。
アンナの炎なら、表に出ている黒い根を焼き払うことはできる。
だが、焼いていいのか。
そこが分からない。
黒い根は水源に絡みついている。
水源には、弱った精霊らしき反応がある。
火を間違えれば、汚れだけでなく、水の流れそのものを傷つけるかもしれない。
「表面を焼く?」
ミラが聞いた。
アンナは小さく息を吐いた。
「……まだ」
豪炎の魔女と呼ばれる人が、炎を出さずに止まっている。
たぶんそれだけで、その場の危うさは十分だった。
⸻
その頃、俺は村にいた。
アンナの家の寝床で、カリンが作った布人形を握っていた。
森は見えない。
湧き場も見えない。
黒い根も見えない。
それなのに、胸の奥だけが冷たく震えていた。
いたい。
その声が、昨日より近い。
いや、近いのではない。
アンナたちが、声のする場所まで行ってしまったのだ。
俺は布人形を握りしめた。
隣にいたカリンが、何も言わずに俺の手を包む。
いつもなら、何か短く止めるところだ。
でも、今日は言わなかった。
たぶん、カリンにも分かっていた。
俺はもう、見ようとしているのではない。
向こうから、届いてしまっている。
いたい。
ちがう。
そこ、いたい。
その声が響いた瞬間、俺は息を詰まらせた。
森の奥で、アンナの炎が黒い根に触れようとしている。
だが、そこではない。
そこを焼けば、痛がっているものまで傷つく。
根元は、もっと奥。
石の下。
水の出口ではなく、水が生まれる場所。
俺は声を出した。
「あ、あう……!」
カリンの手に力が入る。
「よーか?」
伝えなければならない。
でも、言葉がない。
俺は赤ん坊で、森にいるアンナたちには届かない。
届かない。
届かないはずだった。
けれど、目の前に水差しがあった。
村の井戸水。
アンナが置いていった、きれいな水。
俺はそれを見た。
水なら。
なぜそう思ったのかは分からない。
ただ、精霊の声は水に乗っていた。
なら、こちらの水からも、何かを返せるかもしれない。
俺は水差しに手を伸ばした。
カリンが一瞬、俺の手を止めた。
目が合う。
カリンの黒い瞳が揺れている。
怖いのだと思う。
水に触らせていいのか。
また俺が苦しむのではないか。
でも、今止めていいのか。
三歳の子どもに考えさせるには、重すぎる。
それでもカリンは、俺の手を離さなかった。
離さないまま、小さな木の杯に井戸水を注いだ。
そして、俺の指先が届くところまで近づける。
「ちょっと」
それだけ言った。
ちょっとだけ。
それ以上は駄目。
そういう意味だろう。
俺は小さく声を出した。
「あう」
分かった。
分かったつもりで、指先を水面に触れた。
冷たい。
普通の水だ。
村の井戸から汲んだ、何の異常もない水。
そのはずなのに、俺の胸の奥にあった震えが、水面へ落ちた。
波紋が広がる。
一つ。
二つ。
三つ。
水面の輪が、どこか遠くへ伸びていくような感覚があった。
俺は息を止めた。
ちがう。
そこじゃない。
いしのした。
ねもと。
言葉にならない言葉を、水へ押し込む。
いや、押し込むというより、流す。
小さな水面を通して、遠くの水へ。
森の奥の湧き水へ。
痛がっている何かへ。
そして、そこにいるアンナたちへ。
杯の水が、一瞬だけ淡く光った。
ほんのわずか。
見間違いのような光。
けれど、その直後、体の中から力が抜けた。
「あ……」
頭が重い。
胸の奥が空っぽになる。
何かを使った。
魔法を使った、というほどはっきりした感覚ではない。
でも、確実に何かを持っていかれた。
精霊魔法。
たぶん、それに近い。
カリンが俺を支える。
「よーか!」
声が近い。
でも、少し遠い。
まずい。
やりすぎた。
そう思った時には、もうまぶたが落ちかけていた。
カリンの手が、俺の頬を包む。
「ねない」
命令みたいな声だった。
俺はなんとか目を開けた。
目の前にカリンがいる。
泣きそうな顔だった。
「あう……」
ごめん。
そう思った。
また心配させた。
カリンは何も言わなかった。
ただ、俺の手を握ったまま、杯を遠ざけた。
⸻
森の奥では、湧き水が震えた。
これも後から聞いた。
アンナが黒い根の表面に火を近づけようとした瞬間だったらしい。
湧き石の下から、細い波紋が広がった。
風はない。
水に触れた者もいない。
ミラが水面を見る。
「待って」
アンナは炎を止めた。
ヨシュアがすぐに周囲を見る。
「何か来たか?」
「違う」
ミラは水面を見つめたまま言った。
「これ、水の反応……いや、違う。誰かが水を通してる」
アンナの顔が変わる。
「ヨウカ?」
誰もすぐには答えられなかった。
だが、湧き水の波紋は、ただ揺れているだけではなかった。
輪がいくつも重なり、石の下へ流れていく。
水面に、白い筋が浮かんだ。
細い光だった。
湧き石の割れ目から、さらに下へ。
黒い根は、表面に見えているものだけではない。
石の下に、もっと太い芯があった。
そこから、細い根が水の出口へ伸びていた。
ミラは息を呑んだ。
「根元は下。表面じゃない」
アンナは炎を消した。
「表面を焼いてたら?」
「精霊の反応を傷つけたかもしれない」
ミラの声は硬かった。
ヨシュアが低く言う。
「あいつ、無理をしたな」
アンナは少しだけ村の方を見た。
怒っている顔だったらしい。
でも、すぐに湧き石へ向き直った。
「帰ったら怒る」
ヨシュアが短く返す。
「先に礼を言え。怒るのはその後だ」
アンナは答えなかった。
ただ、もう一度指先に炎を集めた。
今度は、表面の根ではない。
石の割れ目の下。
水の流れを完全には塞がず、黒い芯だけを焼く。
そんな無茶な作業だった。
豪炎の魔女が、豪炎を使えない。
必要なのは、大きな火ではなく、針のように細い火。
黒い根だけを焼き、湧き水を傷つけない炎。
アンナは深く息を吐いた。
「ミラ、揺れたら止めて」
「分かった」
「ヨシュア、周りを」
「任せろ」
三人の声が短く重なる。
そして、処置が始まった。
⸻
俺は家で、カリンに支えられていた。
水の杯は遠くに置かれている。
俺の手が届かない場所だ。
カリンが動かしたのだろう。
俺はかなりだるかった。
頭がぼんやりする。
胸の奥はまだ少し震えている。
でも、さっきのような強い痛みではない。
何かが、少しだけずれた。
締めつけていたものが、ほんのわずかに緩んだような感覚。
「あう……」
声が漏れる。
カリンが俺の顔を覗き込んだ。
「いたい?」
俺は少し迷った。
痛いわけではない。
苦しいわけでもない。
ただ、疲れた。
かなり疲れた。
「あう……」
カリンは唇を噛んだ。
そして、小さく言った。
「やった」
責めるような声ではなかった。
でも、軽くもなかった。
俺は目を逸らした。
やった。
また、やった。
助けたいと思った。
伝えなければと思った。
それは嘘ではない。
でも、カリンが怖がると分かっていたのにやったのも本当だった。
俺は自分のことを勘定に入れるのが下手だ。
前世からそうだったのかもしれない。
困った時に助けを求めるのも下手だったし、自分が痛いことにも鈍かった。
今世では、それを直さなければならない。
何度もそう思っているのに、また同じことをしている。
カリンは俺の額に、自分の額をそっと当てた。
「よーかも、だいじ」
短い言葉。
でも、今の俺には十分すぎるくらい重かった。
俺はカリンの服を握った。
「あう」
ごめん。
そう思った。
今度こそ、ちゃんと。
カリンはしばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐いた。
「あとで、アンナ」
アンナに怒られるらしい。
それは避けられない。
俺は目を閉じた。
仕方ない。
今回は、たぶん怒られた方がいい。
⸻
森の奥では、黒い根の処置が続いていた。
アンナの炎は、いつもの炎とはまったく違ったらしい。
大きく燃え上がるのではなく、石の割れ目に沿って細く走る。
黒い根に触れた瞬間、ぱち、と嫌な音がする。
普通の植物が燃える音ではない。
湿った骨を焼くような、ひどく嫌な音だったと、後でミラが言っていた。
黒い煙が出る。
アンナはそれをすぐに炎で包み、外へ逃がさなかった。
森に広げない。
水に落とさない。
吸わせない。
燃やすのではなく、封じながら消す。
その間、ヨシュアはずっと周囲を見ていた。
黒い根を焼かれて、何かが来るかもしれない。
汚れを浴びた動物が暴れるかもしれない。
水場に引かれて魔物が現れるかもしれない。
何も起きないなら、それでいい。
起きた時に止めるために立っている。
それがヨシュアの役目だった。
ミラは青い葉を水に浮かべ、色の変化を見ていた。
葉が黒ずめば危険。
色が少し戻れば、流れが戻っている。
「左、まだ濃い」
「そこはやめて。反応が揺れてる」
「少し下。そう、その線」
アンナはその言葉だけを聞いて、火を動かす。
三人は、別々のことをしている。
でも、同じものを守ろうとしていた。
水源。
弱った精霊。
そして、フィル村。
黒い根は、簡単には燃えなかった。
石の下に食い込み、湧き水の流れを締めつけている。
根元の一部を焼くたびに、水が震える。
そのたびにミラが止める。
アンナが息を整える。
ヨシュアが周囲を確認する。
時間がかかったらしい。
けれど、少しずつ黒い根は細くなった。
完全には消えない。
奥に入り込んだ部分は、まだ残っている。
でも、水の出口を締めていた部分は、少しずつ緩んでいった。
⸻
家にいる俺にも、それは届いた。
見ようとはしていない。
目を閉じて、布人形を握っている。
それでも、水の向こうから、小さな震えが伝わってくる。
いたい。
でも、さっきより細い。
いたい。
でも、息ができる。
ゆるむ。
そんな感じがした。
黒い根が少しずつ緩んでいる。
水が流れようとしている。
精霊の声が、ほんの少し呼吸を取り戻している。
俺は小さく息を吐いた。
「あう……」
カリンが俺を見る。
今度は何も言わなかった。
ただ、俺の手を握った。
見に行くな。
無理をするな。
でも、聞こえているものまで否定しない。
そう言われている気がした。
俺はカリンの手を握り返した。
ここにいる。
森には行かない。
これ以上、水には触らない。
ただ、届いてしまう声を聞いている。
それだけでも、疲れる。
精霊の声を聞くというのは、綺麗なことばかりではないのだと思った。
痛みも、苦しさも、怖さも、伝わってくる。
それを受け取るには、体力も覚悟もいる。
今の俺には、どちらも足りない。
一歳児だから。
いや、一歳児でなくても、足りなかったかもしれない。
⸻
夕方前。
森の方から、鳥の声がした。
一羽だけではない。
二羽。
三羽。
小さな声だった。
弱い声だった。
でも、確かに聞こえた。
村の大人たちが顔を上げる。
外から誰かが言った。
「鳥が戻ってる……?」
俺は窓の方を見そうになった。
カリンが何も言わず、俺の手を握った。
それだけで十分だった。
俺は窓から目を逸らす。
音だけを聞く。
鳥の声。
風の音。
村人が息を呑む気配。
胸の奥にあった重い震えが、少しだけ軽くなった。
森が、ほんの少し息をした。
そんな気がした。
まだ終わっていない。
黒い根の芯は、完全には消えていない。
でも、流れは少し戻った。
痛みは少し和らいだ。
そう感じた。
俺は布人形を抱えたまま、目を閉じた。
疲れた。
かなり疲れた。
けれど、今度は暗い水の夢に沈む感じではなかった。
カリンの手がある。
布人形がある。
ここは家だ。
そう思いながら、俺は少しだけ眠った。
⸻
目が覚めた時、アンナたちは戻ってきていた。
最初に聞こえたのは、ヨシュアの盾を置く音だった。
重い金属が、地面に触れる鈍い音。
次に、ミラの声。
「靴は外で。布は全部分けて」
それから、アンナの声。
「ヨウカは?」
俺は目を開けた。
体は重い。
でも、耳ははっきり聞こえる。
カリンが立ち上がり、扉の方を見た。
「おきた」
扉が開く。
アンナが入ってきた。
顔色は少し悪い。
でも、歩いている。
帰ってきた。
俺は泣きそうになった。
「あう……」
アンナはすぐに俺のそばへ来た。
そして、俺を抱き上げる。
「ただいま」
短い言葉。
それだけで、胸の奥がほどけた。
「あう」
おかえり。
そう言いたかった。
アンナは俺を抱いたまま、少し黙った。
それから、低い声で言う。
「無理したわね」
来た。
怒られる。
俺は目を逸らした。
しかしアンナは、すぐには怒鳴らなかった。
代わりに、俺を強く抱きしめた。
「助かったわ」
その声は震えていた。
「でも、怖かった」
胸が詰まった。
アンナも怖かったのだ。
俺が何かをしたこと。
俺が倒れかけたこと。
それを、森の奥で感じていたのかもしれない。
俺はアンナの服を握った。
「あう……」
ごめん。
ありがとう。
おかえり。
全部混ざって、声にならなかった。
ヨシュアが少し離れたところから言った。
「説教は後だな」
アンナは小さく息を吐いた。
「ええ。後で」
後である。
逃げられない。
でも今は、それでよかった。
ミラも家に入り、俺を見る。
「顔色は悪いけど、意識はあるわね。今日はもう水に近づけないで」
カリンが即答した。
「うん」
俺の管理がさらに厳しくなる気配がした。
仕方ない。
今回ばかりは、反論の余地がない。
⸻
その日の森は、完全には治っていなかった。
黒い根も、すべて消えたわけではない。
水源の奥には、まだ黒い芯が残っているらしい。
けれど、水は少しだけ流れを取り戻した。
鳥が戻った。
薬草畑の端の草も、明日になれば少し変わるかもしれない。
精霊の声は、朝より静かだった。
いたい。
その声はまだある。
でも、そこにもう一つ、別の響きが混じっていた。
ありがとう。
そう聞こえた気がした。
俺はアンナの腕の中で目を閉じた。
どうやら、その声は俺に届くらしい。
そして俺は、その声を聞くには、まだあまりにも小さいらしい。




