なんか隣町へ行けるかもしれないらしい
朝、カリンが来なかった。
いつもなら、俺が庭に出る頃には近くにいる。盾を抱えていたり、何も持たずに立っていたり。でも今日はいない。
「カリンを待ってるの?」アンナが声をかけた。「昨日、セリアに言われていたでしょう。朝ごはんを食べて、盾も休ませてから来るって」
分かっている。カリンには家がある。盾だって直したばかりだ。それでも、庭にカリンがいないのは、変な感じがした。
「寂しい?」
「ちょっと」
「それは普通よ」
普通。その言葉で、胸が軽くなった。寂しいと思ってもいい。でも、寂しいからといってカリンを急がせていいわけではない。
「待っている間に、手伝ってくれる?薬草棚。そろそろ整理しないと、私が困るの」
寂しさをごまかすには、作業が一番だ。
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薬草棚は、思ったより大変だった。似たような色の葉がある。緑、青い緑、灰色がかった緑、茶色くなった緑。全部、緑じゃないか。そう言いたくなる。でも、間違えると危ない。
「今日は、名前を当てるより、場所を間違えない練習ね。使う時にすぐ取れるように分けておく。傷に使うもの、熱に使うもの、お腹に使うもの」
「薬草も、帰る場所がある?」
アンナは目を丸くして、笑った。
「そうね。薬草にも帰る場所があるわ」
昨日のカリンの盾を思い出した。盾には休む場所がある。カリンには家がある。薬草にも、棚の中の場所がある。そう思うと、薬草棚が違って見えた。
俺は布袋を手に取った。見ようと思えば、名前も状態も浮かぶ。でも今日は遠くに置く。まず木札を見る。匂いを嗅ぐ。
「これは、お腹のところ?」
「正解。今は、見えたものだけで答えなかったわね」
アンナは、あの力の名前を言わない。でも、俺が何かを見ていることは知っている。三歳の頃、俺はだけ話した。物を見ると、名前や状態みたいなものが頭に浮かぶ、と。
アンナはその時、長く黙ってから言った。便利な力ね。でも、便利なものほど、頼りすぎると目が弱くなるわ。だから今も、木札を見せ、匂いを嗅がせ、見えるものだけで決めさせない。
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しばらくして、マルタさんが来た。パン屋のマルタさん。今日は声が弱い。
「窯の縁に触っちまってね」
右手の指が赤くなっている。火傷だ。俺は身を乗り出しかけた。赤み。範囲。水ぶくれの有無。見たい。考えたい。言いたい。
でも、一度止まる。これは俺の仕事じゃない。アンナの仕事だ。
「アンナ」
「ええ」
アンナはすぐ水を用意した。俺は棚を見る。火傷。冷やす。清潔な布。考えは浮かぶ。でも、勝手に取らない。アンナを見る。
「ヨウカ、薄い清潔な布を持ってきて。薬はまだいいわ」
「はい」
薬草ではなく、布。間違えない。白い布を取って渡す。
「ありがとう」
それだけで、胸が温かくなる。治したのはアンナだ。でも、俺も手伝えた。大きなことをしなくても、助かることはある。布を持ってくる。邪魔をしない。大人に渡す。それも、手伝いだ。
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昼前にカリンが来た。盾は背負っているが、握ってはいない。
「おはよう」
「おはよう。待った?」
「ちょっと。ご飯食べた?」
「食べた。焼き菓子も、半分」
「えらい」
そう言うと、カリンが眉を寄せた。
「ヨウカが言う?」
たしかに。俺もよく食べろと言われる側だ。
布ボール遊びでも、今日のカリンは守る役をしなかった。盾を休ませているからだ。代わりにリリの横で線を直したり、双子の順番を数えたりしていた。
「カリンは?」トマが何気なく聞いた。
カリンは止まってから答えた。
「私も、休む」
ちゃんと自分も休むと言えた。セリアさんの言葉が残っているのだろう。カリンは守る子だ。でも、守られる子でもある。休む子でもある。それを本人が口にできた。
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夕方、行商人がアンナに封筒を渡した。
「隣町から。ミラさんから預かりました」
ミラ。その名前に、俺もカリンも反応した。アンナは家に戻ってから封を開け、ヨシュアを呼んだ。俺とカリンは離れて座る。でも、耳は完全にそちらを向いていた。
アンナは手紙を読み、黙った。
「ミラから。黒い根の欠片のことで、リディアと話が進んだみたい」
黒い根。胸の奥が冷える。終わっていない。分かっていたけど、名前が出ると重い。
「それと、薬師工房を見に来ないかって。ヨウカにも、薬草の保存や調合の基礎を見せたいそうよ」
薬師工房。俺は身を乗り出した。今度はカリンに服をつままれた。
「近い」
「手紙だから近くない」
「気持ちが近い」
何だそれは。でも、当たっている。
薬師工房。隣町。ミラ。黒い根。全部が一気に近づいてきた。怖い。でも、見たい。
「まだ決まったわけじゃないわ。行くとしても、準備してから」
ヨシュアも言った。
「町は村とは違う。人が多い。勝手に動かないことが条件だ」
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翌朝も、手紙は食卓の端に置かれていた。隣町。薬師工房。リディア。黒い根。その言葉たちが、昨夜からずっと頭の中で転がっている。
パンを食べながら、俺はちらちらと手紙を見た。見すぎない。勝手に読もうとしない。そう思っているのに、目が行く。
「ヨウカ、パン、食べて」手元のパンが、あまり減っていなかった。
朝食のあと、ヨシュアが俺を見た。
「ヨウカ。行きたいか」
真っ直ぐ聞かれた。すぐ頷きかけて、止まった。行きたい。すごく行きたい。ミラに会いたい。黒い根のことも知りたい。でも、それだけで答えていいのか。
「……行きたいです。でも、私だけでは決められないです」
アンナの目が柔らかくなった。ヨシュアが頷いた。
「そうだ」
行きたいと言うのは、俺の気持ち。でも、行くと決めるのは俺だけではない。俺は四歳だ。何かあった時、自分だけで責任を取れるわけでもない。分かっている。だから、悔しい。でも、分からないふりをすると、もっと危ない。
「ヨウカは賢いわ。でも、賢いことと、大人と同じように動けることは違うの」
その言葉は刺さった。でも、嫌な痛さではなかった。
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昼前、カリンが来た。
「手紙。町?」
「まだ決まってない」
「行きたい?」
「行きたい」
「私も行く」
早い。とても早い。俺が何か言う前に、アンナが出てきた。
「カリン、それはまだ決められないわ。町へ行くなら、セリアとレナードにも聞かないと。それと――ヨウカを守るためだけに行く、というのなら、考えないといけないわ」
カリンの目が細くなった。
「守る」
「カリンがそう思ってくれるのは嬉しい。でも、町へ行くなら、カリンも子どもとして大人に連れて行かれるの」
カリンは黙った。納得していない顔だった。カリンの中では、線が真っ直ぐなのだ。ヨウカが行く。外は危ない。だから自分も行く。守る。
「カリン」
「なに」
「私も、決められない。行きたいけど、決めるのは大人」
言いながら、変な気分になった。俺も完全に納得しているわけではない。でも、言葉にすると分かる。行きたい。でも、勝手には決めない。その二つは、別のものなのだ。
カリンは下を向いた。
「……じゃあ、私も聞く。母さんと、父さんに」
それから、俺を見る。
「でも、行きたい」
「私も」
「一緒に」
そこだけは、すぐに頷いた。
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夕方、ヨシュアが村長のところから戻ってきた。
「村長さん、なんて?」
「ミラとリディアが関わっているなら、話は聞いた方がいいだろう、とな」
心臓が跳ねた。
「じゃあ」
「行く方向で考える。ただし、条件がある。明日、町での約束を決める。守れないなら行かない」
「守ります」
「まだ中身を言っていない」
「あ」
また早かった。アンナが入り口で笑っている。カリンが小さく言った。
「ヨウカ、早い」
決定ではない。でも、昨日より近い。怖い。でも、見たい。その気持ちは、昨日より大きくなっていた。




