表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
なんか捨て子の女の子に転生したらしい  作者: ダレイワス1世
第一章 フィル村幼児期編
26/33

なんか声が届くらしい

アンナは、炎を出さなかった。


黒い根を前にして、指先に魔力を集めたまま、じっと止まっていたらしい。


後から聞いた話だ。


森の奥の湧き場には、昨日と同じ黒い根があった。


苔むした湧き石の割れ目に入り込み、水の出口を締めつけるように絡みついている。


水は流れている。


けれど、流れているというより、無理やり絞り出されているようだったという。


ミラは水面に青い葉を浮かべ、顔をしかめた。


「昨日より濃いわ」


ヨシュアが盾を構えたまま聞く。


「悪くなっているのか」


「流れが止まりかけてる。根が奥に食い込んでるのかもしれない」


アンナは答えなかった。


ただ、黒い根の表面を見ていた。


焼ける。


それは分かる。


アンナの炎なら、表に出ている黒い根を焼き払うことはできる。


だが、焼いていいのか。


そこが分からない。


黒い根は水源に絡みついている。


水源には、弱った精霊らしき反応がある。


火を間違えれば、汚れだけでなく、水の流れそのものを傷つけるかもしれない。


「表面を焼く?」


ミラが聞いた。


アンナは小さく息を吐いた。


「……まだ」


豪炎の魔女と呼ばれる人が、炎を出さずに止まっている。


たぶんそれだけで、その場の危うさは十分だった。



その頃、俺は村にいた。


アンナの家の寝床で、カリンが作った布人形を握っていた。


森は見えない。


湧き場も見えない。


黒い根も見えない。


それなのに、胸の奥だけが冷たく震えていた。


いたい。


その声が、昨日より近い。


いや、近いのではない。


アンナたちが、声のする場所まで行ってしまったのだ。


俺は布人形を握りしめた。


隣にいたカリンが、何も言わずに俺の手を包む。


いつもなら、何か短く止めるところだ。


でも、今日は言わなかった。


たぶん、カリンにも分かっていた。


俺はもう、見ようとしているのではない。


向こうから、届いてしまっている。


いたい。


ちがう。


そこ、いたい。


その声が響いた瞬間、俺は息を詰まらせた。


森の奥で、アンナの炎が黒い根に触れようとしている。


だが、そこではない。


そこを焼けば、痛がっているものまで傷つく。


根元は、もっと奥。


石の下。


水の出口ではなく、水が生まれる場所。


俺は声を出した。


「あ、あう……!」


カリンの手に力が入る。


「よーか?」


伝えなければならない。


でも、言葉がない。


俺は赤ん坊で、森にいるアンナたちには届かない。


届かない。


届かないはずだった。


けれど、目の前に水差しがあった。


村の井戸水。


アンナが置いていった、きれいな水。


俺はそれを見た。


水なら。


なぜそう思ったのかは分からない。


ただ、精霊の声は水に乗っていた。


なら、こちらの水からも、何かを返せるかもしれない。


俺は水差しに手を伸ばした。


カリンが一瞬、俺の手を止めた。


目が合う。


カリンの黒い瞳が揺れている。


怖いのだと思う。


水に触らせていいのか。

また俺が苦しむのではないか。

でも、今止めていいのか。


三歳の子どもに考えさせるには、重すぎる。


それでもカリンは、俺の手を離さなかった。


離さないまま、小さな木の杯に井戸水を注いだ。


そして、俺の指先が届くところまで近づける。


「ちょっと」


それだけ言った。


ちょっとだけ。


それ以上は駄目。


そういう意味だろう。


俺は小さく声を出した。


「あう」


分かった。


分かったつもりで、指先を水面に触れた。


冷たい。


普通の水だ。


村の井戸から汲んだ、何の異常もない水。


そのはずなのに、俺の胸の奥にあった震えが、水面へ落ちた。


波紋が広がる。


一つ。


二つ。


三つ。


水面の輪が、どこか遠くへ伸びていくような感覚があった。


俺は息を止めた。


ちがう。


そこじゃない。


いしのした。


ねもと。


言葉にならない言葉を、水へ押し込む。


いや、押し込むというより、流す。


小さな水面を通して、遠くの水へ。


森の奥の湧き水へ。


痛がっている何かへ。


そして、そこにいるアンナたちへ。


杯の水が、一瞬だけ淡く光った。


ほんのわずか。


見間違いのような光。


けれど、その直後、体の中から力が抜けた。


「あ……」


頭が重い。


胸の奥が空っぽになる。


何かを使った。


魔法を使った、というほどはっきりした感覚ではない。


でも、確実に何かを持っていかれた。


精霊魔法。


たぶん、それに近い。


カリンが俺を支える。


「よーか!」


声が近い。


でも、少し遠い。


まずい。


やりすぎた。


そう思った時には、もうまぶたが落ちかけていた。


カリンの手が、俺の頬を包む。


「ねない」


命令みたいな声だった。


俺はなんとか目を開けた。


目の前にカリンがいる。


泣きそうな顔だった。


「あう……」


ごめん。


そう思った。


また心配させた。


カリンは何も言わなかった。


ただ、俺の手を握ったまま、杯を遠ざけた。



森の奥では、湧き水が震えた。


これも後から聞いた。


アンナが黒い根の表面に火を近づけようとした瞬間だったらしい。


湧き石の下から、細い波紋が広がった。


風はない。


水に触れた者もいない。


ミラが水面を見る。


「待って」


アンナは炎を止めた。


ヨシュアがすぐに周囲を見る。


「何か来たか?」


「違う」


ミラは水面を見つめたまま言った。


「これ、水の反応……いや、違う。誰かが水を通してる」


アンナの顔が変わる。


「ヨウカ?」


誰もすぐには答えられなかった。


だが、湧き水の波紋は、ただ揺れているだけではなかった。


輪がいくつも重なり、石の下へ流れていく。


水面に、白い筋が浮かんだ。


細い光だった。


湧き石の割れ目から、さらに下へ。


黒い根は、表面に見えているものだけではない。


石の下に、もっと太い芯があった。


そこから、細い根が水の出口へ伸びていた。


ミラは息を呑んだ。


「根元は下。表面じゃない」


アンナは炎を消した。


「表面を焼いてたら?」


「精霊の反応を傷つけたかもしれない」


ミラの声は硬かった。


ヨシュアが低く言う。


「あいつ、無理をしたな」


アンナは少しだけ村の方を見た。


怒っている顔だったらしい。


でも、すぐに湧き石へ向き直った。


「帰ったら怒る」


ヨシュアが短く返す。


「先に礼を言え。怒るのはその後だ」


アンナは答えなかった。


ただ、もう一度指先に炎を集めた。


今度は、表面の根ではない。


石の割れ目の下。


水の流れを完全には塞がず、黒い芯だけを焼く。


そんな無茶な作業だった。


豪炎の魔女が、豪炎を使えない。


必要なのは、大きな火ではなく、針のように細い火。


黒い根だけを焼き、湧き水を傷つけない炎。


アンナは深く息を吐いた。


「ミラ、揺れたら止めて」


「分かった」


「ヨシュア、周りを」


「任せろ」


三人の声が短く重なる。


そして、処置が始まった。



俺は家で、カリンに支えられていた。


水の杯は遠くに置かれている。


俺の手が届かない場所だ。


カリンが動かしたのだろう。


俺はかなりだるかった。


頭がぼんやりする。


胸の奥はまだ少し震えている。


でも、さっきのような強い痛みではない。


何かが、少しだけずれた。


締めつけていたものが、ほんのわずかに緩んだような感覚。


「あう……」


声が漏れる。


カリンが俺の顔を覗き込んだ。


「いたい?」


俺は少し迷った。


痛いわけではない。


苦しいわけでもない。


ただ、疲れた。


かなり疲れた。


「あう……」


カリンは唇を噛んだ。


そして、小さく言った。


「やった」


責めるような声ではなかった。


でも、軽くもなかった。


俺は目を逸らした。


やった。


また、やった。


助けたいと思った。


伝えなければと思った。


それは嘘ではない。


でも、カリンが怖がると分かっていたのにやったのも本当だった。


俺は自分のことを勘定に入れるのが下手だ。


前世からそうだったのかもしれない。


困った時に助けを求めるのも下手だったし、自分が痛いことにも鈍かった。


今世では、それを直さなければならない。


何度もそう思っているのに、また同じことをしている。


カリンは俺の額に、自分の額をそっと当てた。


「よーかも、だいじ」


短い言葉。


でも、今の俺には十分すぎるくらい重かった。


俺はカリンの服を握った。


「あう」


ごめん。


そう思った。


今度こそ、ちゃんと。


カリンはしばらく黙っていた。


それから、小さく息を吐いた。


「あとで、アンナ」


アンナに怒られるらしい。


それは避けられない。


俺は目を閉じた。


仕方ない。


今回は、たぶん怒られた方がいい。



森の奥では、黒い根の処置が続いていた。


アンナの炎は、いつもの炎とはまったく違ったらしい。


大きく燃え上がるのではなく、石の割れ目に沿って細く走る。


黒い根に触れた瞬間、ぱち、と嫌な音がする。


普通の植物が燃える音ではない。


湿った骨を焼くような、ひどく嫌な音だったと、後でミラが言っていた。


黒い煙が出る。


アンナはそれをすぐに炎で包み、外へ逃がさなかった。


森に広げない。


水に落とさない。


吸わせない。


燃やすのではなく、封じながら消す。


その間、ヨシュアはずっと周囲を見ていた。


黒い根を焼かれて、何かが来るかもしれない。


汚れを浴びた動物が暴れるかもしれない。


水場に引かれて魔物が現れるかもしれない。


何も起きないなら、それでいい。


起きた時に止めるために立っている。


それがヨシュアの役目だった。


ミラは青い葉を水に浮かべ、色の変化を見ていた。


葉が黒ずめば危険。

色が少し戻れば、流れが戻っている。


「左、まだ濃い」


「そこはやめて。反応が揺れてる」


「少し下。そう、その線」


アンナはその言葉だけを聞いて、火を動かす。


三人は、別々のことをしている。


でも、同じものを守ろうとしていた。


水源。


弱った精霊。


そして、フィル村。


黒い根は、簡単には燃えなかった。


石の下に食い込み、湧き水の流れを締めつけている。


根元の一部を焼くたびに、水が震える。


そのたびにミラが止める。


アンナが息を整える。


ヨシュアが周囲を確認する。


時間がかかったらしい。


けれど、少しずつ黒い根は細くなった。


完全には消えない。


奥に入り込んだ部分は、まだ残っている。


でも、水の出口を締めていた部分は、少しずつ緩んでいった。



家にいる俺にも、それは届いた。


見ようとはしていない。


目を閉じて、布人形を握っている。


それでも、水の向こうから、小さな震えが伝わってくる。


いたい。


でも、さっきより細い。


いたい。


でも、息ができる。


ゆるむ。


そんな感じがした。


黒い根が少しずつ緩んでいる。


水が流れようとしている。


精霊の声が、ほんの少し呼吸を取り戻している。


俺は小さく息を吐いた。


「あう……」


カリンが俺を見る。


今度は何も言わなかった。


ただ、俺の手を握った。


見に行くな。


無理をするな。


でも、聞こえているものまで否定しない。


そう言われている気がした。


俺はカリンの手を握り返した。


ここにいる。


森には行かない。


これ以上、水には触らない。


ただ、届いてしまう声を聞いている。


それだけでも、疲れる。


精霊の声を聞くというのは、綺麗なことばかりではないのだと思った。


痛みも、苦しさも、怖さも、伝わってくる。


それを受け取るには、体力も覚悟もいる。


今の俺には、どちらも足りない。


一歳児だから。


いや、一歳児でなくても、足りなかったかもしれない。



夕方前。


森の方から、鳥の声がした。


一羽だけではない。


二羽。


三羽。


小さな声だった。


弱い声だった。


でも、確かに聞こえた。


村の大人たちが顔を上げる。


外から誰かが言った。


「鳥が戻ってる……?」


俺は窓の方を見そうになった。


カリンが何も言わず、俺の手を握った。


それだけで十分だった。


俺は窓から目を逸らす。


音だけを聞く。


鳥の声。


風の音。


村人が息を呑む気配。


胸の奥にあった重い震えが、少しだけ軽くなった。


森が、ほんの少し息をした。


そんな気がした。


まだ終わっていない。


黒い根の芯は、完全には消えていない。


でも、流れは少し戻った。


痛みは少し和らいだ。


そう感じた。


俺は布人形を抱えたまま、目を閉じた。


疲れた。


かなり疲れた。


けれど、今度は暗い水の夢に沈む感じではなかった。


カリンの手がある。


布人形がある。


ここは家だ。


そう思いながら、俺は少しだけ眠った。



目が覚めた時、アンナたちは戻ってきていた。


最初に聞こえたのは、ヨシュアの盾を置く音だった。


重い金属が、地面に触れる鈍い音。


次に、ミラの声。


「靴は外で。布は全部分けて」


それから、アンナの声。


「ヨウカは?」


俺は目を開けた。


体は重い。


でも、耳ははっきり聞こえる。


カリンが立ち上がり、扉の方を見た。


「おきた」


扉が開く。


アンナが入ってきた。


顔色は少し悪い。


でも、歩いている。


帰ってきた。


俺は泣きそうになった。


「あう……」


アンナはすぐに俺のそばへ来た。


そして、俺を抱き上げる。


「ただいま」


短い言葉。


それだけで、胸の奥がほどけた。


「あう」


おかえり。


そう言いたかった。


アンナは俺を抱いたまま、少し黙った。


それから、低い声で言う。


「無理したわね」


来た。


怒られる。


俺は目を逸らした。


しかしアンナは、すぐには怒鳴らなかった。


代わりに、俺を強く抱きしめた。


「助かったわ」


その声は震えていた。


「でも、怖かった」


胸が詰まった。


アンナも怖かったのだ。


俺が何かをしたこと。

俺が倒れかけたこと。

それを、森の奥で感じていたのかもしれない。


俺はアンナの服を握った。


「あう……」


ごめん。


ありがとう。


おかえり。


全部混ざって、声にならなかった。


ヨシュアが少し離れたところから言った。


「説教は後だな」


アンナは小さく息を吐いた。


「ええ。後で」


後である。


逃げられない。


でも今は、それでよかった。


ミラも家に入り、俺を見る。


「顔色は悪いけど、意識はあるわね。今日はもう水に近づけないで」


カリンが即答した。


「うん」


俺の管理がさらに厳しくなる気配がした。


仕方ない。


今回ばかりは、反論の余地がない。



その日の森は、完全には治っていなかった。


黒い根も、すべて消えたわけではない。


水源の奥には、まだ黒い芯が残っているらしい。


けれど、水は少しだけ流れを取り戻した。


鳥が戻った。


薬草畑の端の草も、明日になれば少し変わるかもしれない。


精霊の声は、朝より静かだった。


いたい。


その声はまだある。


でも、そこにもう一つ、別の響きが混じっていた。


ありがとう。


そう聞こえた気がした。


俺はアンナの腕の中で目を閉じた。


どうやら、その声は俺に届くらしい。


そして俺は、その声を聞くには、まだあまりにも小さいらしい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ