なんか森の奥へ行くらしい
朝になっても、夢の感触は残っていた。
水の中ではない。
森の奥。
苔むした石。
そこから湧く水。
黒い根のようなもの。
その奥で震える、小さな光。
いたい。
たすけて。
くろいの、ねっこ。
その声が、眠りから覚めても胸の奥に残っていた。
「あう……」
寝床の上で声を出すと、アンナがすぐに振り返った。
「起きた?」
俺は返事をした。
「あう」
アンナは近づいてきて、俺の顔を覗き込む。
「また、よく眠れなかった顔ね」
ばれている。
まあ、そりゃそうだ。
一歳児の顔色なんて、毎日世話をしている人にはすぐ分かるのだろう。
アンナは俺を抱き上げ、額に手を当てた。
「熱はなし」
ヨシュアが扉の近くで装備を確認しながら、こちらを見た。
「昨日の夢か?」
アンナは小さく頷いた。
「たぶんね」
夢。
そう言われると、ただの夢だった気もしてくる。
でも、ただの夢にしては、妙にはっきりしていた。
古い石。
湧き水。
黒い根。
俺はアンナの服を握った。
「あう」
伝えたい。
でも、言葉にならない。
アンナは俺の手を見て、少しだけ目を細めた。
「気になるのね」
気になる。
かなり気になる。
けれど、今日のアンナは、いつものように俺に細かく言い聞かせることはしなかった。
ただ短く言った。
「今日は、森の奥を見に行くわ」
胸が跳ねた。
いよいよ行くのか。
アンナは俺を抱いたまま、静かに続ける。
「あなたは村で待ってるの」
「あう……」
分かっている。
一歳児が森の奥へ行けるわけがない。
それでも、胸の奥が落ち着かなかった。
ヨシュアが近づいてきた。
「必ず戻る」
短い言葉だった。
俺に理解させようというより、自分にも言い聞かせているような声だった。
俺はヨシュアを見上げた。
大きな体。
低い声。
鉄壁の要塞。
この人なら大丈夫だと思いたい。
アンナもいる。
ミラもいる。
道を知る村人も一緒に行く。
それでも不安は消えなかった。
不安というのは、理屈で完全に消えるものではないらしい。
⸻
朝のうちに、ミラが来た。
隣町の薬師。
昨日よりも荷物が多い。
腰の袋には薬草と小瓶。
背中には水を採るための細長い筒。
手には厚い手袋。
その顔は眠そうだったが、目ははっきりしていた。
「行くなら早い方がいいわ」
ミラは机の上に地図を広げながら言った。
「昼を過ぎると森の中が暗くなる。水場を見るなら、光があるうちに済ませたい」
ヨシュアが頷く。
「行くのは俺、アンナ、ミラ、それから道を知っているダン」
村の男が一人、外で待っているらしい。
村長は村に残る。
森側には誰も近づけない。
井戸の確認も続ける。
方針は決まっていた。
もう追加の調査で引き延ばす段階ではない。
上流に原因がある可能性が高い。
なら、見るしかない。
ただし、無理に解決しようとはしない。
場所を確かめる。
危険なら戻る。
持ち帰れる情報だけ持ち帰る。
大人たちはそう決めていた。
アンナは荷物を確認している。
陶器の皿。
瓶。
布。
手袋。
赤い魔法具。
処理用の小さな鉄箱。
豪炎の魔女が森へ入る。
それだけなら頼もしい。
でも、今回の相手は、燃やせばいいものではない。
水。
土。
精霊。
黒い根。
力任せに焼けば、助けたいものまで傷つくかもしれない。
アンナもそれが分かっているのだろう。
準備する手つきは丁寧だった。
ヨシュアは防具を整えている。
大きな盾。
剣。
予備の布。
足元を守る厚い靴。
ミラは小瓶を一つずつ確認していた。
「もし黒い粉を見つけても、素手で触らないで。水源に近づく時は私が先に見る。アンナは火を使う前に声をかけて」
「分かってる」
アンナが頷く。
ヨシュアが言う。
「危険なら引く」
ミラはそれを聞いて、少しだけ笑った。
「その言葉、ちゃんと守ってね」
「守る」
ヨシュアは短く答えた。
その言い方に、アンナが少しだけ安心したように見えた。
⸻
カリンが来たのは、その少し後だった。
今日は木剣を持っていない。
布人形だけを持っていた。
黒髪を揺らしながら家に入ってきたカリンは、すぐに俺の隣へ来た。
「よーか」
「あう」
カリンは俺の手元に布人形を置いた。
「これ」
もう完全に、俺を落ち着かせる道具である。
俺は人形を握った。
柔らかい。
少し不格好。
でも、今はそれがありがたかった。
カリンは大人たちの荷物を見た。
そして、ヨシュアを見る。
「もり、いく?」
ヨシュアはしゃがんで、カリンと目線を合わせた。
「ああ」
カリンの目が少しだけ揺れた。
「かえる?」
「帰る」
ヨシュアは短く答えた。
カリンはアンナも見た。
「アンナも?」
「帰るわ」
アンナも同じように答えた。
カリンはミラを見る。
「ミラも?」
ミラは少し驚いてから、やわらかく笑った。
「もちろん。帰ってくるわ」
カリンは少しの間、三人を見ていた。
それから小さく頷いた。
「よし」
三人まとめて、カリンの確認を受けたらしい。
俺は少しだけ笑いそうになった。
でも、すぐに胸が重くなった。
帰ってくる。
そう言ってくれた。
それでも、絶対ではない。
この世界では、危ない場所へ行けば、何かが起きる。
それを俺はもう知っている。
⸻
出発前、アンナが俺を抱き上げた。
「ヨウカ」
「あう」
アンナは少し迷ったように俺を見た。
何かを言おうとして、やめた。
そして、ただ額に軽く口づけた。
「待っててね」
「あう……」
待つ。
待つしかない。
俺はアンナの服を握った。
離したくなかった。
でも、離さなければならない。
アンナは俺の手をそっと外した。
優しく。
でも、ちゃんと外した。
ヨシュアが俺の頭を撫でる。
「カリンと一緒にいろ」
「あう」
ミラも少し離れた場所から手を振った。
「いい子でね」
赤ん坊扱い。
いや、赤ん坊なのだから当然である。
三人は家を出た。
外では、道案内のダンという村人が待っている。
四人が森側へ向かう。
俺は寝床の上から、扉の方を見ていた。
見えなくなっても、ずっと見ていた。
カリンが隣に座る。
「よーか」
「あう」
「まつ」
「あう」
「なくなら、なく」
俺はカリンを見た。
泣くなら泣く。
それも、カリンなりの優しさなのだろう。
我慢しろではなく、泣いてもいい。
そう言ってくれている。
俺は布人形を握った。
「あう……」
まだ泣かない。
でも、泣きそうではある。
カリンは何も言わず、俺の手を握った。
⸻
待つ時間は長かった。
森へ向かった大人たちが、すぐ戻るわけがない。
分かっている。
けれど、何もできずに待つ時間は、かなり長い。
アンナがいない家は、少し広く感じた。
ヨシュアの低い声もない。
ミラの薬草の匂いも残っているだけ。
カリンは俺の隣で、布人形のほつれを直していた。
針は使っていない。
危ないからだろう。
ただ、指で糸を整えている。
「よーか、みる」
「あう」
見ています。
俺は布人形を見る。
窓の方を見そうになると、カリンの手がすぐ伸びる。
「そと、だめ」
「あう」
「もり、だめ」
「あう」
「みず、だめ」
「あう」
「ねる?」
それは急すぎる。
俺は首を振りたいが、赤ん坊なのでうまくいかない。
「あー」
カリンは少し考えた。
「ねない?」
「あう」
寝ない。
寝られるわけがない。
カリンは少し困った顔をした。
クールな顔立ちでも、困るとちゃんと子どもらしくなる。
「じゃあ、これ」
カリンは布人形を俺の胸元に置いた。
「だっこ」
俺が人形を抱く形になった。
完全にあやされている。
中身が二十二歳だった俺としては、少し複雑だ。
だが、不思議と落ち着く。
赤ん坊の体は、柔らかいものを抱くと本当に落ち着くのかもしれない。
あるいは、カリンが作ってくれたものだからか。
どちらにしても、ありがたかった。
⸻
昼が近づいた頃、胸の奥が小さく震えた。
最初は気のせいかと思った。
けれど、違う。
水の夢を見た時と同じ。
あの小さな声に近い。
俺は息を止めた。
森の奥。
遠く。
でも、どこかでつながっている。
いたい。
声ではない。
音でもない。
でも、そう伝わってきた。
俺は布人形を強く握った。
カリンがすぐに気づく。
「よーか?」
「あう……」
大丈夫。
そう言いたいが、大丈夫ではない。
また聞こえる。
いたい。
くろいの。
ねっこ。
俺は目を閉じた。
見ようとするな。
追いかけるな。
でも、勝手に景色が浮かぶ。
苔むした石。
黒い根。
水に絡む影。
そして、その近くに、人の気配。
アンナたちだ。
たぶん、森の奥に近づいている。
胸が熱くなる。
頭の奥も少し熱い。
まずい。
このままだと、引っ張られる。
「あ、あう……!」
声が漏れた。
カリンが俺の手を両手で包んだ。
「よーか、だめ」
「あう……」
「こっち」
カリンの声がいつもより強い。
「よーか、こっち」
俺は目を開けた。
目の前にはカリンがいた。
黒髪。
真剣な目。
小さな手。
カリンが俺を見ている。
森ではない。
水ではない。
黒い根でもない。
カリンだ。
俺は息を吐いた。
少しずつ、胸の奥の震えが弱まる。
カリンは俺の手を握ったまま言った。
「みない」
「あう……」
見ない。
「よーか、いたい、だめ」
「あう」
そうだった。
水の中の何かが痛がっている。
でも、それを見る俺まで痛くなっていいわけではない。
カリンはそれを何度も教えてくれる。
俺は布人形を握り直した。
ふわりとした布の感触が戻ってくる。
ここは家だ。
俺は村にいる。
森の奥ではない。
そう自分に言い聞かせる。
⸻
その頃、森の奥で何が起きているのか。
俺には見えない。
いや、見ようと思えば少し見えてしまうのかもしれない。
でも、それは危ない。
だから、見ない。
見ない代わりに、感じたことだけを覚える。
黒い根。
水源。
精霊の痛み。
アンナたちは、そこへ近づいている。
俺はカリンの手を握った。
「あう」
カリンは俺を見た。
「こわい?」
「あう」
怖い。
今度は素直に返事をした。
カリンは少しだけ目を丸くした。
それから、俺の手をさらに強く握った。
「わたしも」
短い言葉。
カリンも怖い。
それを言ってくれることが、俺にはありがたかった。
怖いのに、そばにいる。
怖いのに、俺を止めている。
怖いのに、泣かずにここにいる。
カリンは強い。
でも、怖くないわけではない。
そこを忘れてはいけない。
俺は小さく声を出した。
「あう」
カリンは頷いた。
「まつ」
「あう」
待つ。
俺たちは待つ。
それは何もしないことではない。
今の俺たちにできる、一番大事なことなのだと思う。
⸻
外では、村も静かではなかった。
森側の柵には大人が立っている。
子どもたちは家に入れられている。
井戸の水は何度も確認されている。
村長は村の中央で指示を出していた。
アンナたちが森へ行っている間、村を守る人たちがいる。
俺とカリンだけが待っているわけではない。
村全体が待っている。
それに気づくと、少しだけ胸が落ち着いた。
一人で待つのはつらい。
でも、みんなで待つなら、少し耐えられる。
やがて、遠くで鳥が鳴いた。
久しぶりに聞く鳥の声だった。
小さい。
弱い。
でも、確かに聞こえた。
カリンが顔を上げる。
「とり」
「あう」
鳥。
昨日まであまり聞こえなかった声。
それが今、少しだけ戻った。
何かが動いている。
良い方なのか、悪い方なのかは分からない。
でも、変化は起きている。
俺は布人形を握ったまま、森の方を見ないようにした。
見ればまた引っ張られる。
だから、音だけを聞く。
鳥の声。
風の音。
カリンの呼吸。
自分の心臓の音。
その全部が、今ここにいる証拠だった。
⸻
午後になっても、アンナたちは戻らなかった。
予定より少し遅い。
村の大人たちの顔が硬くなる。
カリンの手にも力が入る。
俺は何度も森の方を見そうになった。
そのたびに、カリンが止める。
「よーか」
「あう」
「みない」
「あう」
「まつ」
「あう」
何度目か分からないやり取り。
でも、その繰り返しが俺をつなぎ止めていた。
すると、不意に胸の奥がまた震えた。
今度は痛みではなかった。
小さな光が、ほんの少しだけ息を吸ったような感覚。
森の奥で、何かがこちらを見た。
そんな気がした。
そして、声がした。
きた。
それだけ。
誰が来たのかは分かる。
アンナたちだ。
彼らは、森の奥の原因にたどり着いた。
俺は息を呑んだ。
カリンが俺を見る。
「よーか?」
俺は声を出した。
「あう……」
来た。
たぶん、たどり着いた。
でも、まだ終わっていない。
そこからが本番だ。
森の奥には、黒い根がある。
水源がある。
弱った何かがいる。
そして大人たちは、そこに着いた。
俺は布人形を握る手に力を込めた。
どうやら、森の奥へ行くらしい。
そして今、アンナたちは本当に、その奥へたどり着いてしまったらしい。




