なんか閉じる練習覚えたらしい
隣町から来た研究者は、思っていたより普通の人だった。三十代くらいの女の人で、薄い茶色の髪を後ろでまとめている。腰には小瓶や金属の筒がいくつも下がっていた。薬師のミラとは違う。薬草の匂いより、金属と乾いた紙の匂いがする。
「リディア・ノルンです。黒い根の欠片と、水場の異常を確認しに来ました」
声は落ち着いていた。大げさに驚くでもなく、怖がりすぎるでもない。
俺はアンナの後ろに立っていた。カリンが俺の隣で、半歩だけ前に出る。ただ、前と違って、カリンはリディアの手も、腰の小瓶も、アンナの位置も見ていた。俺だけを見ていない。
リディアはそれに気づいたらしく、笑った。
「警戒されているみたいですね」
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黒い根の欠片は、家の中では開けなかった。村の外れ、風通しの良い場所で、鉄箱を開ける。中には、指先ほどの黒い欠片。三年前、森の湧き場で見つかったものだ。
俺は一瞬だけ見た。
【黒い根の欠片】
生命力と魔力の流れを阻害する。通常の魔物由来ではない。詳細不明。
詳しく見ようとすると、胸の奥が冷える。俺はすぐ目を逸らした。カリンが何も言わず、俺の袖を軽くつかむ。止める言葉はなかった。ただ、そこにいた。
リディアは細い金属の棒で欠片を動かし、眉を寄せた。
「魔物の残滓とは違いますね。毒、病、呪い、魔物の汚染。どれにも似て、どれにも当てはまらない」
「危険は?」アンナの顔が固くなる。
「あります。素手で触れるものではない。水源に絡んでいたなら、処置が遅れればもっと広がっていた」
リディアは粉をほんのだけ小瓶に集めた。
「持ち帰って調べます。量は最小限に。危険なものは、たくさん持てば分かるというものではありません。運ぶだけで広げます」
ミラと同じだ、と思った。調べることと、広げないこと。両方を考えている。
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その後、リディアの視線が俺に向いた。
「この子が、反応した子ですか?」
アンナの表情から柔らかさが消えた。ヨシュアが一歩、位置を変える。空気が重くなった。
リディアは両手を軽く上げた。
「調べたいという意味ではありません。むしろ逆です。守る方法を考えた方がいい」
「守る方法」
「感応が強い子は、見たくないものまで拾います。水や精霊に近い反応は、距離があっても届く。才能と言えば聞こえはいいですが、幼い子には負担が大きすぎる」
リディアは胸の前で手を重ねた。
「開く練習より、閉じる練習が先です」
閉じる。その言葉に、俺は反応した。魔法は使うものだと思っていた。でも、使わない練習。聞かない練習。それは、今の俺に必要な気がした。
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家に戻ってから、リディアは机に白い小石を置いた。
「これは普通の石です。今日は、見ない練習をしましょう。目で見るのはいい。でも、奥まで覗こうとしない。扉を閉める感じです」
俺は小石を見る。
【白い小石】
特筆すべき性質なし。
そこで止める。さらに細かく見ようとしない。表示を見たら、扉を閉める。
表示が薄くなった。完全には消えない。でも、遠くなった。
「あ」
「できた?」リディアが笑う。
「、遠くなった」
「消そうとしなくていい。遠くするだけ。今はいらない、と決める」
今はいらない。その言葉は分かりやすかった。もう一度やる。表示が出る。でも、追わない。今はいらない。頭が軽い。目の奥に力が入らない。
「もう一回」
「三回まで。練習は、疲れる前にやめるものです」
耳が痛い。俺は三回だけ練習した。三回目は、二回目よりうまくいかなかった。リディアはそこで石を布で包んだ。
「終わりです」
「まだできる」
言った瞬間、アンナとカリンが同時に俺を見た。
「……今日は終わり」
俺は言い直した。リディアが笑った。
「賢いですね」
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その後、リディアはカリンにも声をかけた。
「カリンちゃんは、止める側の練習です。ヨウカちゃんが見すぎている時、毎回止めるだけだと、ヨウカちゃんが自分で閉じる練習ができません。だから、まず聞いてあげてください。今、閉じられる? って」
カリンは考えてから、俺を見た。
「ヨウカ、今、閉じられる?」
早速だ。
「今は見てない」
「そっか」
それだけ。でも、昔のカリンはすぐ「だめ」と言った。今は、俺が自分で閉じられるかを確認する。止めるだけでなく、任せる。
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翌朝、その練習が役に立った。
村の森側の溝に、黒い泥が溜まっていた。雨は降っていない。夜露が森側の土を運んだらしい。見回りの村人が見つけ、すぐ村長に知らせた。以前なら、ただの泥だと思って掬っていたかもしれない。今のフィル村では、森側の黒いものに誰も素手で触らない。
俺とカリンは、柵から手前の場所までしか行けなかった。溝の底に、指先ほどの黒い塊。光を吸うように黒い。見ていると嫌な感じがする。文字が浮かびかけた。
【黒い泥】
その先を見ようとして、俺は息を止めた。今はいらない。表示が遠くなる。
「……閉じられた」
カリンがすぐ俺を見て、自分の盾を軽く叩いた。
「じゃあ、こっち」
俺は黒い泥から目を外し、盾を見た。木目。革紐。小さな傷。黒い泥より、ずっと見ていて楽だった。止められたというより、戻る場所を渡された感じがした。
リディアが長い金属の棒で泥を掬い、黄色い紙を近づける。紙の端がじわりと灰色に変わった。
「弱いですが、反応はあります。溝のおかげで止まっている。今日は触らず、囲って乾かしましょう」
ヨシュアが頷く。あの溝は地味だ。英雄の剣でも結界でもない。ただ土を掘って水の通り道を変えただけ。でも、それが村を守っている。
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その時、村の子のトマが近づこうとした。
「なにしてるの?」
カリンが動いた。盾は構えず、体の向きで道を塞ぐ。
「だめ。黒いの、ある」
「見たいだけ」
「だめ」
トマはむっとしたが、後ろのヨシュアを見て足を止めた。ヨシュアは何も言っていない。ただ見ているだけだ。それが効いた。
「じゃあ、あとで教えて」
「あとで、大人に聞く」
カリンは、自分が説明するとは言わなかった。分からないものを、分かったふうに話さない。
ヨシュアが短く言った。
「今のは良い」
カリンの背筋が伸びた。
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夕方、リディアは隣町へ戻る準備を始めた。近づきすぎず、距離を取ってしゃがむ。
「ヨウカちゃん。今日、閉じられましたね」
「」
「でいいです。毎回ずつ。閉じるのは、逃げることではありません。今、自分で持たなくていいものは、持たない。それだけです」
今、自分で持たなくていいものは、持たない。黒い泥の正体。森の奥の黒い根。水の痛み。全部を今の俺が抱える必要はない。必要な人に渡して、自分は戻ってくる。それが、閉じる練習の意味だった。
リディアはカリンも見た。
「カリンちゃんも。周りを見られていましたね」
カリンは目を丸くした。褒められると思っていなかったのかもしれない。
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夜、寝床で水の声が遠くに触れそうになる。俺は扉を閉めた。完全に閉ざすわけではない。聞こえたものをなかったことにするわけでもない。ただ、今の自分が持つには重いものを、遠くに置く。
カリンが寝る前に聞いた。
「閉じられる?」
「」
「じゃあ、寝る」
森の方には、まだ何かが残っている。それは分かっている。でも、今は寝る。今はいらない。
前世でも、俺は嫌なものを閉じるのが下手だったのかもしれない。家の空気。父の怒鳴り声。母の無関心。全部、拾ってしまっていた気がする。
閉じることは、見捨てることではない。今は見ない。今は休む。今は大人に渡す。そういう選択なのだと、ようやく分かった。




