なんか「私」と言えたらしい
俺が初めて、自分の口で「私」と言った時、アンナは薬草の籠を置いて、俺の前にしゃがんだ。
「もう一回、言って」
「わたし、ヨウカ」
アンナは俺を抱きしめた。強めに。
「そう。あなたはヨウカよ」
その声は震えていた。
私。口に出すと、思ったより自然だった。この体で育ち、この家で呼ばれ、この村で生きてきた名前。ヨウカ。もう、他人の名前ではない。
でも、頭の中ではまだ俺が俺のままだった。寺原丈賀だった記憶は薄れていない。野球をしていたこと。教員を目指していたこと。家に安心できなかったこと。全部、まだ俺の中にある。
だから、口では私。心の中では俺。そのズレを抱えたまま、俺は四歳になった。
⸻
赤ん坊ではなくなった。歩けるし、走れるし、喋れる。転ぶと普通に痛い。
ただ、喋れるようになると、黙っていれば済んだ頃より危険が増えた。先日もヨシュアが村の溝を直しているのを見て、つい言いそうになった。水の流れを見るなら、勾配を一定にした方がいい――危ない。四歳児がそんなことを言い出したら面倒だ。
だから俺は口を閉じ、 考えてから言った。
「そこ、みず、たまる?」
ヨシュアは手を止め、溝を見た。
「よく気づいたな」
「なんとなく」
便利な言葉だ。なんとなく。この三年で、俺はかなり使いこなすようになった。
⸻
森の異変は、完全には消えていない。あの黒い根は、奥に欠片を残したままだ。ただ、村をすぐ脅かすほどではなくなった。
森側の小川は勝手に使わない。雨の後は必ず確認する。怪しい黒い泥を見つけたら触らず大人を呼ぶ。それがフィル村の日常になった。嫌な日常だ。でも、続いている。
水の声は、昔ほど強くは届かない。こちらから追わなければ、胸の奥にかすかに触れる程度だ。
ありがとう。まだ、いたい。でも、ながれる。
その声を聞くたび、俺は水に手を伸ばさないようにしている。伸ばせば、また何かできるかもしれない。でも、できるかもしれないからやる、は危ない。それはもう、痛いほど学んだ。
⸻
「ヨウカ」
庭からカリンの声がした。六歳になったカリンは、前より背が伸びた。手には木剣と、ヨシュアが作った小さな盾。
「今日、見る?」
「見る。でも、近づかない」
「ヨウカ、分かってるって言って、見る」
「今日は見ない」
「ほんと?」
「ほんと」
カリンはじっと俺を見た。疑いが深い。俺には前科が多い。
庭の中央でカリンが盾を構える。ヨシュアが前に立った。
「今日は足だ。盾は腕だけで持つんじゃない。足で間に合う場所に立つ。相手。守るもの。逃げ道。全部見る」
昔のカリンは、俺を守ると言うと、まっすぐ俺の前に立とうとした。今は違う。俺を見て、周りを見て、逃げ道を見て、遅れて動く。完璧ではない。でも、学んでいる。
それを見るのが好きだった。同時に怖い。
「カリン」
「なに?」
「カリンも、けが、だめ。私のためでも、だめ」
カリンは盾を下ろさずに俺を見た。黙ってから、答えた。
「分かってる」
昔ならすぐ「守る」と言った。今は、考えてから答える。
ヨシュアが俺を見た。
「ヨウカもだ。人のことを言うなら、自分も守れ」
俺は目を逸らした。こういう時、四歳児の顔をしておくとごまかせる。
「ヨウカ、顔でごまかさない」
家の中からアンナの声が飛んできた。ごまかせなかった。
⸻
夜、俺は寝床で布人形を抱いていた。カリンが昔作ってくれた人形だ。何度も直されて、形が変わっている。
今日、俺は「私」と言った。カリンは俺だけでなく、周りを見るようになった。
小さなことばかりだ。でも、小さなことが進んでいる。
外では、森側の見回りの足音が遠くに聞こえた。三年前と違って、俺はその音の意味が分かる。誰かが、当たり前の日常を守ってくれている音だ。
その日、村に行商人が来た。村長宛ての手紙を一通、置いていったらしい。隣町からだ、とだけ、アンナが言った。
俺は目を閉じた。フィル村の外から、何かが少しずつ近づいてきている。そんな気がした。




