なんか少し成長したらしい
朝、鳥の声が聞こえた。
ぴい、と短く鳴く声。
少し間を置いて、別の声。
前の日までの森は、静かすぎた。
鳥も、小さな動物の気配も、どこか遠くへ行ってしまったみたいだった。
だから、その声を聞いた時、俺は布団の中で目を開けた。
戻った。
全部ではない。
でも、少しだけ戻った。
「起きた?」
母さんが顔を覗き込む。
俺は森側の窓を見た。
「鳥の声、聞こえた?」
「あう」
頷いたつもりだった。
母さんは少しだけ笑う。
「そうね。少し戻ったわ」
少し。
その言葉が、今日は嫌ではなかった。
全部戻った、ではない。
大丈夫になった、でもない。
少し戻った。
それが、今の本当なのだと思う。
母さんは俺を抱き上げ、窓の近くへ連れていった。
森は昨日と同じように見える。
木があって、葉があって、朝の光が差している。
けれど、見えないところで、まだ何かが残っている。
それは俺にも分かった。
「森側の水は、まだ使わないわ」
母さんが言う。
俺は水瓶の方を見た。
昨日まで使っていた水瓶とは別に、井戸水だけを入れた瓶が置かれている。
森側から汲んだ水は、布をかけられて、離れた場所に置かれていた。
飲み水にも使わない。
薬草にも使わない。
手を洗うのにも使わない。
水があるのに、使えない。
それだけで、森がまだ戻っていないことが分かる。
俺が水瓶を見ていると、母さんが俺の背中を軽く撫でた。
「見るだけよ」
「あう」
すぐに返事をした。
今日は、見すぎない。
昨日、何度も言われた。
カリンにも、母さんにも、ミラにも。
分かっている。
俺は水瓶から目を逸らした。
少しすると、父さんが外から戻ってきた。
靴に泥がついている。
盾は持っていない。
けれど、腰には剣を下げたままだった。
「森側は?」
母さんが聞く。
「柵の外までは変わりなし。小川の水も、見た目は昨日と同じだ」
「鳥は戻ってるわね」
「ああ。だが、上流には近づかない方がいい」
父さんの声は、いつもより低い。
戻ったものがある。
でも、近づけない場所もある。
それが今の村だった。
父さんは俺を見ると、少しだけ表情を緩めた。
「起きたか」
「あう」
「昨日はよく待てたな」
よく待てた。
そう言われて、俺は父さんの服を見た。
昨日の泥はもう落ちている。
でも、盾の縁についた新しい傷は、まだ残っているはずだ。
父さんも。
母さんも。
ミラも。
帰ってきた。
それだけで、昨日の待つ時間は無駄ではなかったと思えた。
朝食の後、ミラが帰り支度を始めた。
腰の小袋。
薬草の包み。
小瓶。
細い金属の道具。
そして、小さな鉄箱。
鉄箱は布で何重にも包まれていた。
さらに、その周りから薬草の匂いがする。
中には、黒い根の欠片が入っている。
見たわけではない。
でも、分かる。
胸の奥が少しだけざわついた。
「ヨウカちゃん」
ミラの声がした。
俺は鉄箱から目を逸らす。
ミラは、俺が見ないのを待ってから近づいてきた。
「これは、ルーベルへ持って帰って調べるわ」
ルーベル。
隣町の名前。
俺はミラを見上げた。
「森のことも、水のことも、分かったら必ず知らせる」
ミラはそう言ってから、母さんの方を見た。
「ただ、ヨウカちゃんのことは、細かくは書きません」
母さんの表情が少し変わる。
ミラは続けた。
「この子が何かを感じたことは、役に立ちました。でも、便利な道具みたいに扱われていいものじゃない。報告には、精霊の反応があった、とだけ書きます」
部屋が少し静かになった。
母さんは、すぐには答えなかった。
それから、深く頷く。
「お願いします」
父さんも短く言った。
「助かる」
便利な道具。
その言葉が、胸の奥に残った。
俺は何かを見た。
何かを聞いた。
それで、少しだけ助けになったのかもしれない。
でも、大人たちは、それを俺の役目にしない。
母さんは俺を抱く腕に、少しだけ力を込めた。
ミラは鉄箱を荷物の奥に入れる。
「ルーベルに戻ったら、リディアさんにも見てもらいます。水に詳しい人にもあたります」
「一人で抱えないでね」
母さんが言う。
ミラは苦笑した。
「それは、アンナさんもでしょう」
母さんは返事をしなかった。
父さんが小さく笑う。
「どっちもだな」
少しだけ、家の空気が緩んだ。
ミラは俺の方を見て、手を振る。
「ヨウカちゃん、ちゃんと食べて、ちゃんと寝るのよ」
「あう」
「いい返事」
ミラは笑った。
その笑顔には疲れが残っていた。
でも、昨日より少しだけ軽く見えた。
ミラが出ていくと、家の中は少し静かになった。
鉄箱がなくなっただけで、空気が少し軽くなる。
あれがここにあった間、俺はずっと見ないようにしていたのだと気づいた。
見たい。
知りたい。
確かめたい。
でも、今は見ない。
それも、昨日覚えたことの一つだった。
昼前、母さんは薬草棚の前に座った。
昨日使った布。
傷を洗うための薬草。
水を避けて別にしていた瓶。
ひとつずつ確認していく。
使えるもの。
様子を見るもの。
処分するもの。
母さんの指が、葉を分けていく。
俺はその手元を見ていた。
悪くなった葉がある。
まだ使える葉がある。
今は判断しない葉もある。
全部を同じ場所に戻すわけではない。
母さんは、一枚の葉を持ち上げた。
「これは薬にはしないわ」
俺は葉を見る。
端が少し黒ずんでいる。
匂いも、いつもより弱い気がした。
母さんはそれを別の皿に置く。
「使えなくはない。でも、傷に使うには怖い」
怖い。
母さんの口から出ると、その言葉は軽くない。
薬草でも、水でも、魔法でも。
少し違えば、助けるものが傷つけるものになる。
俺は葉を見て、それから母さんの手を見た。
母さんは急がない。
捨てるもの。
残すもの。
今は決めないもの。
ひとつずつ、分けていく。
俺はそれを黙って見ていた。
前なら、もっと見ようとしたかもしれない。
名前を出そうとしたかもしれない。
状態を確かめようとしたかもしれない。
でも今日は、母さんの手元を見るだけにした。
母さんが少し笑う。
「今日は大人しいわね」
「あう」
大人しい。
たぶん、そう見えるだけだ。
頭の中は、まだ森のことでいっぱいだった。
黒い根。
水。
精霊。
ミラの鉄箱。
でも、全部を今見る必要はない。
母さんが葉を分けるように、俺も少しずつ分ければいい。
今、見るもの。
後で考えるもの。
大人に渡すもの。
それくらいなら、俺にもできるかもしれない。
夕方、カリンが来た。
手には、布人形を持っている。
昨日、俺に持たせてくれた人形だ。
「よーか」
「あう」
カリンは俺の前に座ると、布人形を差し出した。
俺はそれを受け取る。
布人形には、少しだけ土と薬草の匂いが残っていた。
昨日、ずっと握っていたからだろう。
カリンは俺の顔をじっと見た。
「だいじょうぶ?」
短い言葉だった。
でも、簡単には返せなかった。
森は全部戻っていない。
水もまだ使えない。
黒い根の欠片は、ミラが持っていった。
水の奥の声も、完全に消えたわけではない。
分からないことばかりだ。
俺は布人形を抱いた。
鳥の声がした。
母さんはここにいる。
父さんも帰ってきた。
ミラもルーベルへ向かった。
カリンは、今日も俺の前にいる。
全部大丈夫ではない。
でも、今ここは大丈夫だ。
俺はカリンを見て、口を開いた。
「……だいじょうぶ」
一音ずつ、ゆっくり出した。
カリンは少し目を丸くした。
それから、真剣な顔で頷く。
「よし」
また、よしをもらった。
俺は布人形を抱きしめる。
母さんが少し離れたところで笑っていた。
父さんも、黙ってこちらを見ている。
恥ずかしい。
でも、悪くない。
夜になって、布団に入る。
森の方から、かすかに水の気配がした。
ありがとう。
そう聞こえた気がした。
でも、その後に、小さく続く。
まだ、いたい。
俺は目を閉じる。
全部は終わっていない。
森も、水も、黒い根も。
でも、少し戻った。
少し助けられた。
少し待てた。
そして、少しだけ言えた。
大丈夫。
本当に全部が大丈夫になったわけではない。
でも、そう言える場所がある。
それは、たぶん大きい。
どうやら、少し成長したらしい。




