なんか森が病んでいるらしい
黒い粉のせいで、フィル村の生活は少し変わった。
森側の外出は控える。
薬草採取は禁止。
怪我をしたらすぐ洗う。
黒い粉に触れたものはアンナに見せる。
たったそれだけ。
それだけなのに、村の空気は昨日までと少し違っていた。
井戸の周りで話す大人たちの声が、いつもより低い。
子どもたちは森側に行かないよう止められている。
家畜を連れて歩く人も、森から少し離れた道を選んでいる。
大騒ぎではない。
けれど、みんな分かっている。
何かがおかしい。
俺は寝床の中から、窓の外を見ていた。
森はいつも通りそこにある。
緑の葉。
木の幹。
薄い影。
遠くの枝が風で少し揺れている。
見た目だけなら、普通の森だ。
でも、昨日から虫の声が少ない。
鳥の声も少ない。
音が薄い。
それがやけに気持ち悪かった。
「あう……」
声を出すと、近くにいたアンナが俺を見た。
「外、気になる?」
俺は返事の代わりに、窓の方を見た。
アンナは苦笑した。
「今日は窓から見るだけね」
短い言葉だった。
たぶん、赤ん坊に細かく説明しているつもりはない。
ただ、言い聞かせるように言っている。
俺は小さく声を出した。
「あう」
分かっています。
本当に分かっています。
外に出たい気持ちはある。
でも、出たところで何もできない。
むしろ、アンナの手を増やすだけだ。
迷惑な赤ん坊にはなりたくない。
いや、赤ん坊である時点でかなり世話はかけているのだが。
そこはもう仕方ない。
⸻
昼前、カリンが来た。
今日は木剣を持っていなかった。
代わりに、小さな布人形を持っている。
「よーか」
「あう」
カリンは俺の横に座り、布人形を置いた。
「そと、だめ」
「あう」
知っています。
「もり、だめ」
「あう」
それも知っています。
「みすぎ、だめ」
「あ……う」
そこは少しだけ返事が遅れた。
カリンの目が細くなる。
「だめ」
監視が厳しい。
この子は本当に俺の扱いに慣れてきている。
俺が気になるものを見つけると、だいたい止めてくる。
カリンは布人形を俺の前に置いた。
「これ」
人形は、布を丸めて簡単に縫ったものだった。
目は黒い糸。
髪は黒っぽい布。
もしかして、カリン人形だろうか。
俺はじっと見た。
【布人形】
手縫いの人形。少し不格好。
持ち主の強い愛着を感じる。
持ち主の強い愛着。
そういう表示も出るのか。
俺は少し固まった。
カリンは人形を俺の手元に寄せた。
「よーか、これ、みる」
つまり、森ではなく人形を見ていろ、ということらしい。
かなり直接的な気晴らしである。
ありがたい。
ありがたいが、ちょっと強引だ。
俺は布人形に手を伸ばした。
柔らかい。
少しだけ薬草の匂いがする。
たぶん、カリンの家の匂いか、アンナの家に来る途中でついた匂いだ。
「あう」
カリンは満足そうに頷いた。
「よし」
今日も出た。
俺はもう、この「よし」を聞くと少し安心する体になってきている気がする。
それはそれでどうなんだ。
⸻
昼過ぎ、ヨシュアが戻ってきた。
見回りからだった。
ただし、今日は一人ではない。
村の男が二人、一緒にいる。
三人とも、少し険しい顔をしていた。
アンナがすぐに気づく。
「何かあった?」
ヨシュアは頷いた。
「森の外れで、小鳥が落ちていた」
小鳥。
その言葉だけなら、そこまで大きな話ではない。
けれど、ヨシュアの顔は軽くなかった。
村の男の一人が、布に包んだ小さなものを差し出した。
アンナは俺をカリンのそばに置き、外へ出た。
「ヨウカ、ここ」
短く言われた。
俺は大人しく寝床に座る。
見たい。
かなり見たい。
でも、近づいてはいけない。
分かっている。
カリンが俺の隣にぴたりと座った。
「よーか、ここ」
「あう」
はい。
ここにいます。
窓からなら、少し見える。
アンナは家の外で布を開いた。
中には、小さな鳥がいた。
羽は灰色。
胸のあたりが少し黒ずんでいる。
外傷は、遠目には見えない。
食いちぎられた様子もない。
ただ、力尽きたように横たわっていた。
俺は思わず鑑定しようとした。
その瞬間、カリンが俺の手を握った。
「みすぎない」
小声だった。
俺は息を止めた。
そうだ。
見すぎるな。
俺は少しだけ、ほんの少しだけ見ることにした。
【小鳥の死骸】
小型の鳥。
外傷は少ない。
微弱な魔力の乱れあり。
羽毛に黒い粉が付着。
詳細不明。
また詳細不明。
それ以上見ようとすると、頭が熱くなりそうだった。
俺はすぐに目を逸らした。
カリンの手が少し緩む。
「よし」
今のは、たぶん褒められた。
⸻
外では、大人たちが話していた。
「食われた跡がない」
ヨシュアが言う。
「怪我もほとんどない。森の外側まで飛んできて、そのまま落ちたように見えた」
アンナは布越しに小鳥の羽を確認していた。
「羽に黒い粉がついてるわ。傷口だけじゃないのね」
村の男が顔をしかめる。
「触らなくてよかった……」
「ええ。素手で触らなくて正解」
アンナは小鳥を包み直した。
「これは燃やす。ただし、普通に燃やして煙を出すのは嫌ね」
「昨日と同じか」
「ええ。煙も閉じ込める」
ヨシュアは少し考えた。
「水場も見るべきだな。鳥が森の小川で水を飲んだ可能性がある」
小川。
その言葉に、俺は胸の奥がざわついた。
森の水。
もし黒い粉が水に混じっているなら、かなりまずい。
人間だけではない。
動物、薬草、土。
全部に広がる。
「村の井戸は?」
村の男が不安そうに聞く。
アンナが答えた。
「今朝見た限り、井戸水に異常はなかったわ。でも、しばらく毎日見る」
ヨシュアも頷く。
「森側の小川の水は使うな。家畜にも飲ませない。村長に伝える」
話がどんどん具体的になっていく。
それは安心材料でもある。
原因が分からないなりに、危険を切り分けている。
でも同時に、事態が広がっていることも分かる。
薬草。
傷口。
盾。
小鳥。
次は水。
森の異変が、少しずつ形を持ち始めている。
俺は布人形を握った。
柔らかい感触が、少しだけ現実に戻してくれる。
カリンが隣で言った。
「よーか、こわい?」
俺は少し考えた。
怖い。
たぶん怖い。
牙猪みたいに見える敵なら、アンナとヨシュアがいる。
でも、これは見えにくい。
黒い粉。
魔力の乱れ。
弱っていく草。
落ちる小鳥。
こういうものは、殴って終わりにはできない。
俺は小さく声を出した。
「あう……」
カリンは俺の手を握った。
「わたしも、こわい」
意外だった。
カリンが、怖いと言った。
普段のカリンはあまり弱音を吐かない。
「でも、いう」
カリンは続けた。
「こわいって、いう」
俺はカリンを見た。
「いったら、アンナくる。ヨシュアくる」
それは、俺に何度も言ってきたことだった。
困ったら泣く。
怖かったら言う。
大人を呼ぶ。
カリン自身も、それを守ろうとしている。
俺は胸が少し温かくなった。
カリンは俺を守ろうとする。
でも、最近は少しずつ、自分も守られる側でいていいと覚えているのかもしれない。
それは良いことだ。
かなり良いことだと思う。
⸻
アンナは小鳥を焼く準備をした。
家から少し離れた場所に、陶器の皿を置く。
その上に小鳥を包んだ布を乗せる。
さらに、炎が広がらないよう周囲に土を盛る。
ヨシュアは村人を下がらせた。
「近づくな。煙を見るな。風上に立て」
村人たちは素直に従う。
こういう時、ヨシュアの声は本当に強い。
怒鳴らなくても、人が動く。
アンナは指先を上げた。
小さな炎が生まれる。
その炎は、小鳥を包んだ布を静かに包んだ。
ただ燃やすのではない。
外に広がらないよう、炎の中へ閉じ込めるように。
煙が一瞬出た。
黒い煙。
アンナはすぐに炎を強めた。
煙が火の輪の内側で巻かれ、逃げ場を失う。
黒い煙は、ぱちぱちと嫌な音を立てながら、赤い炎の中で消えていった。
派手ではない。
でも、怖いほど正確だった。
豪炎の魔女。
火力だけではない。
燃やすものと、燃やしてはいけないものを分ける制御。
それがあるから、アンナの炎は村を守れる。
俺が火花を出した時とは、何もかも違う。
当たり前だが、改めて思い知らされる。
強い炎とは、大きい炎のことだけではない。
余計なものを燃やさない炎のことでもあるのだろう。
⸻
焼却が終わると、アンナは灰をまた小瓶に入れた。
昨日よりも、少し量が多い。
小鳥一羽分。
その事実が少し重かった。
村の男がぽつりと言った。
「森、病気みたいだな」
誰もすぐには答えなかった。
森が病気。
その表現は、妙にしっくりきた。
薬草が萎れる。
動物が逃げる。
鳥が落ちる。
傷が熱を持つ。
森そのものが、体調を崩しているように見える。
アンナは少しだけ目を伏せた。
「そうかもしれないわね」
ヨシュアは静かに言った。
「なら、原因を見つけないといけない」
「でも、奥には行かないで」
アンナの声が少し鋭くなる。
ヨシュアはすぐに頷いた。
「今日は行かない。明日、村長と相談する。必要なら隣町へ知らせる」
隣町。
外へ連絡する段階に入るのか。
村だけで抱え込まない。
それはたぶん正しい。
でも、少し不安にもなる。
村だけでは対処できないかもしれないということだからだ。
⸻
夕方、ルッツが様子を見せに来た。
昨日より顔色は良い。
傷口も悪化していないらしい。
アンナは傷を確認し、少しだけ安心した顔をした。
「熱は下がってる。しびれは?」
「ほとんどないです」
「じゃあ、このまま洗浄と布交換を続けて。しばらく森側には行かないこと」
「はい」
ルッツは素直に返事をした。
昨日の件で、さすがに怖くなったのだろう。
俺はルッツの傷を少しだけ見た。
【擦過傷】
回復傾向。
魔力の乱れは低下。
経過観察。
回復傾向。
その文字を見て、胸の力が少し抜けた。
よかった。
本当に。
何かをしたのはアンナだ。
判断したのもアンナとヨシュアだ。
来たのはルッツ本人だ。
それでも、少し関われた。
気づいて、伝えた。
それだけでも、悪化を防ぐ助けにはなったのかもしれない。
俺は小さく声を出した。
「あう」
ルッツが笑った。
「ヨウカちゃんも、ありがとな」
今度は、昨日ほど怖くなかった。
ありがとうと言われることに、少し慣れたのかもしれない。
いや、慣れすぎるのは危ない。
でも、受け取れないのも違う。
俺はただ、声を返した。
「あう」
⸻
夜。
村はまた静かだった。
ただし、今日は昨日よりも少しだけ人の気配がある。
見回りが増えたせいで、大人たちが交代で村の端に立っている。
たいまつの光が、遠くで揺れていた。
俺は寝床の中から、その光を見た。
カリンは今日もそばにいる。
布人形を俺の横に置いたまま、自分も眠そうにしていた。
「よーか」
「あう」
「もり、びょうき?」
俺は答えられない。
赤ん坊だから、ではなく。
たぶん、まだ誰にも分からない。
でも、そう見える。
森が病んでいる。
それはとても嫌な言葉だった。
俺はフィル村が好きだ。
そしてフィル村は、森の近くで生きている。
薬草も、木材も、狩りも、風も、全部森とつながっている。
その森がおかしくなるということは、村の日常そのものが少しずつ削られていくということだ。
カリンが俺の手を握った。
「よーか、ねる」
「あう」
「ねて、そだつ」
ヨシュアの言葉を覚えているらしい。
食って、寝て、育つ。
今の俺の仕事。
俺は少し笑いそうになった。
本当に、俺の周りは俺を育てようとしてくれる。
アンナも。
ヨシュアも。
カリンも。
村の人たちも。
だからこそ、守りたいと思ってしまう。
でも、今は寝る。
見すぎない。
考えすぎない。
自分だけでどうにかしようとしない。
それが今の俺に必要なことだ。
俺は目を閉じた。
闇が部屋を包む。
怖くない闇。
休むための闇。
その向こうで、森はまだ静かだった。
どうやら、森は少し病んでいるらしい。
そしてその病は、ただの魔物よりもずっと、見えにくくて厄介なものらしい。




