なんか黒い粉はただの汚れじゃないらしい
朝から、家の空気が少し重かった。
森側の見回りが増えた。
薬草畑の端の草が萎れていた。
見回りに出た若い男の傷口に、黒い粉のようなものがついていた。
そして、ヨシュアの盾にも同じような黒い擦れ跡が残っていた。
一つ一つなら、偶然で済むかもしれない。
けれど、いくつも重なると、さすがに偶然では済まない。
俺はまだ一歳児だ。
それは何度も自分に言い聞かせている。
今の俺の仕事は、食って、寝て、育つこと。
ヨシュアにも言われた。
アンナにも言われた。
カリンにも言われた。
分かっている。
分かってはいる。
でも、気になるものは気になる。
黒い粉。
魔力の乱れ。
森の静けさ。
それらが頭の中に引っかかって、なかなか消えなかった。
「あう……」
寝床の中で声を出すと、アンナがすぐに来た。
「起きたの?」
俺はアンナを見上げた。
いつものアンナだった。
優しい顔。
柔らかい声。
けれど、目の奥だけは少し鋭い。
たぶん、警戒している。
豪炎の魔女。
その異名を知ってから、アンナの穏やかさの中にある強さが、少しずつ見えるようになってきた。
「今日は家の中で大人しくね」
「あう」
分かっています。
外に出られないことに不満がないわけではない。
でも、今の状況で外に出たがるほど、俺も命知らずではない。
赤ん坊が森の異変に首を突っ込む。
字面だけで迷惑すぎる。
アンナは俺の顔を見て、少しだけ笑った。
「分かってる顔をしてる」
また言われた。
最近、この家では俺の表情が会話手段として扱われている気がする。
実際、かなり伝わっているので否定しづらい。
⸻
昼前。
村の若い男が、アンナの家に来た。
昨日、森側の見回りで腕を擦った人だ。
名前はルッツというらしい。
俺はアンナに抱かれたまま、玄関先にいるルッツを見た。
顔色が悪い。
昨日より少し青い。
額には汗が浮いている。
「アンナさん、すみません」
ルッツは困ったように笑った。
「大したことないと思うんですけど、ちょっと熱っぽくて」
アンナの表情がすぐに変わった。
「中へ」
声は静かだった。
だが、逆らえる雰囲気ではない。
ルッツは家の中に入り、椅子に座った。
アンナは俺を寝床に置こうとした。
けれど、俺はアンナの服を握った。
「あう」
見たい。
いや、見たいというより、確認したい。
アンナは少し迷った。
「ヨウカ」
分かっている。
見すぎるな。
背負うな。
無理に鑑定するな。
でも、これは気になる。
俺はルッツの腕を見た。
包帯が巻かれている。
その周りの肌が、昨日より少し赤い。
ただの擦り傷なら、ここまで熱っぽくなるのは早い気がする。
アンナは俺の顔を見て、小さく息を吐いた。
「見るだけよ。魔力は動かさない」
「あう」
見るだけ。
約束する。
たぶん。
いや、ちゃんと約束する。
アンナは俺を膝に乗せたまま、ルッツの包帯を外した。
傷は浅い。
本来なら、そこまで心配するほどの傷ではない。
だが、傷の端に、薄い灰色の筋が残っていた。
黒ではない。
昨日より薄くなっている。
でも、消えていない。
鑑定が反応する。
【擦過傷】
浅い傷。
微弱な魔力の乱れあり。
熱感あり。
洗浄、経過観察推奨。
通常軟膏の使用注意。
通常軟膏の使用注意。
その一文を見た瞬間、俺はアンナの服を強く握った。
「あう!」
アンナが俺を見る。
「軟膏じゃない?」
伝わった。
やはり会話しているのではないか。
いや、今はそこではない。
アンナはルッツの傷を見て、すぐに頷いた。
「昨日、普通の軟膏を塗らなくてよかったわ」
ルッツの顔が引きつる。
「塗ってたらまずかったですか?」
「分からない。でも、分からないものを上から塞ぐのは怖い」
アンナの声は落ち着いていた。
傷がある。
普通なら薬を塗る。
でも、傷口に未知の異物があるなら、先に塞ぐのは危ない。
中に閉じ込めてしまうかもしれない。
俺にも、それくらいは分かった。
アンナは水を沸かし、冷ましたものを用意した。
さらに、清潔な布を何枚も並べる。
動きに迷いがない。
「少し痛むわよ」
「はい」
アンナは傷口を丁寧に洗った。
強くこすらない。
けれど、灰色の筋を残さないように、少しずつ布に吸わせる。
ルッツは顔をしかめたが、黙って耐えていた。
俺はその様子を見ながら、頭の中で整理した。
熱感。
魔力の乱れ。
傷口に残った灰色。
通常軟膏注意。
これは、ただの汚れではない。
少なくとも、普通の土や木の粉ではなさそうだ。
「痛みは?」
アンナが聞く。
「ひりひりします。あと、少し重い感じが」
「しびれは?」
「少しだけ」
アンナの目が細くなった。
ルッツ本人は軽く言っているが、しびれは軽く見ていい症状ではない。
アンナは洗った布を別の皿に置いた。
その布には、薄い灰色の汚れがついている。
俺はそれを見た。
【灰色に汚れた布】
傷口に付着していた異物を含む。
微弱な魔力の乱れあり。
詳細不明。
また詳細不明。
嫌な表示だ。
見ようとすると、頭の奥がじわりと熱くなる。
俺はすぐに目を逸らした。
ここで無理をするな。
倒れたら、何の役にも立たない。
ただ面倒を増やすだけだ。
アンナもそれに気づいたのか、俺の視界から布を少しずらした。
「ヨウカ、そこまで」
「あう……」
はい。
止めます。
⸻
ヨシュアが戻ってきたのは、その少し後だった。
ルッツの腕を見て、すぐに表情が険しくなる。
「悪くなったか」
「熱が出てる。しびれも少し」
アンナが答える。
「ただ、今のところ傷は浅いまま。広がってはいない」
「黒い粉は?」
「洗った。布に残してある」
ヨシュアは灰色に汚れた布を見た。
触ろうとした瞬間、アンナが止める。
「素手で触らない」
「分かってる」
ヨシュアは布越しに確認した。
そして、盾の黒い擦れ跡と見比べる。
「似てるな」
「ええ」
「火で焼けるか?」
アンナは少し考えた。
「試す。ただし、外で」
豪炎の魔女が言うと、実験というより処分に聞こえる。
ルッツは不安そうだった。
「俺、大丈夫ですか?」
ヨシュアはルッツの肩に手を置いた。
「今来たのは正しい。悪化する前に来たなら、かなりマシだ」
かなりマシ。
優しい言い方ではない。
けれど、変に安心させるより誠実だった。
アンナも頷く。
「今日は帰らず、ここで少し休んで。熱が上がるか見るわ」
「でも、見回りが」
「行かない」
アンナが即答した。
「傷の原因も分からない人を、森側に戻すわけないでしょう」
ルッツは黙った。
ヨシュアも言った。
「休むのも仕事だ。お前が倒れたら、助けに行く人数が増える」
それを聞いて、ルッツはようやく小さく頷いた。
ヨシュアらしい言い方だった。
守るためには、無理をさせない。
戦力を減らさない。
傷を軽く見ない。
ヨシュアの防御は、盾の硬さだけではない。
こういう判断も含めて、鉄壁なのだと思う。
⸻
アンナは家の外へ出て、灰色に汚れた布の一部を小さな皿に置いた。
俺は窓際から見ていた。
もちろん、アンナに抱かれている。
勝手に近づけるわけがない。
カリンも隣にいる。
「よーか、みすぎない」
「あう」
分かっています。
カリンの監視が厳しい。
アンナは指先に小さな炎を灯した。
生活魔法の火花ではない。
火魔法だ。
ただし、牙猪を焼いた時のような圧倒的な火力ではない。
針の先ほどの小さな炎。
けれど、密度が違う。
小さいのに、鋭い。
アンナは布の端に炎を近づけた。
普通の布ならすぐ燃える。
しかし、灰色に汚れた部分だけ、少し遅れて焦げた。
そして、ぱちり、と嫌な音がした。
煙が上がる。
黒っぽい煙。
アンナはすぐに炎を強めた。
煙を逃がさないように、小さな火の輪の中へ閉じ込める。
そのまま一気に焼き切った。
残った灰は、普通の灰より少し重そうに見えた。
アンナの表情が険しい。
「ただの汚れじゃないわね」
ヨシュアが低く言う。
「魔力を含んでるか」
「たぶん。しかも、植物や傷口に悪さをする」
アンナは灰を土に埋めず、陶器の小瓶に入れた。
「捨て方も考えないと駄目ね」
普通に捨てられない。
その時点でかなり厄介だ。
俺は窓の内側から、その小瓶を見た。
見ない方がいい。
そう思っているのに、視線が吸われる。
黒い粉。
傷口。
萎れた薬草。
森から逃げる動物。
情報がつながりそうで、つながらない。
叡智が働いているのだと思う。
考えれば、何か分かるかもしれない。
でも、今は違う。
俺の頭で無理に掘る場面ではない。
俺は目を閉じた。
カリンが俺の手を握る。
「よし」
何がよしなのか分からない。
でも、たぶん、見すぎなかったことへの「よし」だ。
⸻
ルッツはそのまま家で休むことになった。
熱は高くない。
だが、傷口の周りの赤みは消えていない。
アンナは水分を取らせ、傷を覆う布をこまめに替えた。
薬草は最低限。
普通なら痛み止めや軟膏を使う場面でも、今回は慎重だった。
「薬は使わないんですか?」
ルッツが聞く。
アンナは首を振った。
「使う薬を間違える方が怖いの。原因が分からないうちは、余計なものを足さない」
それもまた治療なのだろう。
何もしないのではない。
洗う。
休ませる。
水を飲ませる。
熱を見る。
悪化しないか観察する。
派手さはない。
けれど、必要なことはしている。
俺はそれをじっと見ていた。
医学スキルが、静かに反応している気がした。
治すとは、魔法や薬を使うことだけではない。
悪くしないこと。
判断を急がないこと。
経過を見ること。
それも、ちゃんと医療なのだ。
俺はまた一つ学んだ。
⸻
夕方になって、ルッツの熱は少し下がった。
しびれも強くはなっていない。
アンナは少しだけ息をついた。
「今日はこのまま様子見ね。悪化してないなら、最初の洗浄が効いたのかもしれない」
ルッツは俺の方を見た。
「ヨウカちゃんが気づいてくれたんですよね」
急に言われて、俺は少し固まった。
「あう」
いや、まあ。
気づいたと言えば気づいた。
でも、俺だけでは何もできない。
アンナが洗った。
ヨシュアが判断した。
ルッツがちゃんと来た。
それが全部あったから、悪化を防げたのだ。
俺はただ、変だと伝えただけ。
ルッツは笑った。
「ありがとな」
その笑顔は少し弱っていたが、本物だった。
胸が温かくなる。
でも同時に、少し怖くもなった。
俺が気づけなかったら。
ルッツが来なかったら。
アンナが普通の軟膏を塗っていたら。
どうなっていたのか。
「ヨウカ」
ヨシュアの声で、思考が止まった。
「考えすぎるな」
また見抜かれた。
ヨシュアは俺の頭を撫でた。
「今回は、早く気づけた。それでいい」
それでいい。
たぶん、今は本当にそれでいい。
⸻
夜。
ルッツは家族に迎えに来てもらい、アンナの注意を山ほど受けて帰っていった。
森側の見回りは、しばらくさらに慎重になるらしい。
森に入る人数は減らす。
外周だけを見る。
黒い粉に触れたらすぐ洗う。
傷を放置しない。
薬草採取は中止。
少しずつ、村の日常が変わっていく。
大きな事件が起きたわけではない。
でも、昨日まで普通だった場所に、少しずつ禁止が増えていく。
それが嫌だった。
フィル村が好きだ。
そう思ったばかりなのに、その好きな場所の周りに、見えない危険が広がっている。
俺は寝床の中で、手を握った。
何もできない。
でも、何かしたい。
その感情が危ないことも分かっている。
だから、今は泣く。
伝える。
寝る。
それが限界だ。
カリンが隣で言った。
「よーか」
「あう」
「きょう、えらかった」
そうだろうか。
俺はカリンを見た。
カリンは真剣だった。
「みすぎなかった」
そこか。
「ないた」
泣いたというか、声を出した。
でも、確かに助けを呼んだ。
「アンナに、いった」
それは大事だった。
カリンは俺の手を握った。
「だから、よし」
今日の「よし」は、少し優しかった。
俺は小さく声を出した。
「あう」
ありがとう。
そう思った。
アンナが部屋の灯りを落とす。
ヨシュアが扉の外を確認する。
闇が静かに部屋を包む。
怖くない闇。
休むための闇。
けれど、その向こうの森は、まだ静かすぎる。
俺は目を閉じる前に、最後に思った。
どうやら黒い粉は、ただの汚れじゃないらしい。
そして、フィル村の日常は、少しずつ何かに触れられ始めているらしい。




