↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
なんか捨て子の女の子に転生したらしい  作者: ダレイワス1世
第一章 フィル村幼児期編
18/163

なんか声が届くらしい

アンナは、炎を出さなかった。


黒い根を前にして、指先に魔力を集めたまま、じっと止まっていたらしい。


後から聞いた話だ。


森の奥の湧き場には、昨日と同じ黒い根があった。


苔むした湧き石の割れ目に入り込み、水の出口を締めつけるように絡みついている。


水は流れている。


けれど、流れているというより、無理やり絞り出されているようだったという。


ミラは水面に青い葉を浮かべ、顔をしかめた。


「昨日より濃いわ」


ヨシュアが盾を構えたまま聞く。


「悪くなっているのか」


「流れが止まりかけてる。根が奥に食い込んでるのかもしれない」


アンナは答えなかった。


ただ、黒い根の表面を見ていた。


焼ける。


それは分かる。


アンナの炎なら、表に出ている黒い根を焼き払うことはできる。


だが、焼いていいのか。


そこが分からない。


黒い根は水源に絡みついている。


水源には、弱った精霊らしき反応がある。


火を間違えれば、汚れだけでなく、水の流れそのものを傷つけるかもしれない。


「表面を焼く?」


ミラが聞いた。


アンナは小さく息を吐いた。


「……まだ」


豪炎の魔女と呼ばれる人が、炎を出さずに止まっている。


たぶんそれだけで、その場の危うさは十分だった。


⸻


その頃、俺は村にいた。


アンナの家の寝床で、カリンが作った布人形を握っていた。


森は見えない。


湧き場も見えない。


黒い根も見えない。


それなのに、胸の奥だけが冷たく震えていた。


いたい。


その声が、昨日より近い。


いや、近いのではない。


アンナたちが、声のする場所まで行ってしまったのだ。


俺は布人形を握りしめた。


隣にいたカリンが、何も言わずに俺の手を包む。


いつもなら、何か短く止めるところだ。


でも、今日は言わなかった。


たぶん、カリンにも分かっていた。


俺はもう、見ようとしているのではない。


向こうから、届いてしまっている。


いたい。


ちがう。


そこ、いたい。


その声が響いた瞬間、俺は息を詰まらせた。


森の奥で、アンナの炎が黒い根に触れようとしている。


だが、そこではない。


そこを焼けば、痛がっているものまで傷つく。


根元は、もっと奥。


石の下。


水の出口ではなく、水が生まれる場所。


俺は声を出した。


「あ、あう……!」


カリンの手に力が入る。


「よーか?」


伝えなければならない。


でも、言葉がない。


俺は赤ん坊で、森にいるアンナたちには届かない。


届かない。


届かないはずだった。


けれど、目の前に水差しがあった。


村の井戸水。


アンナが置いていった、きれいな水。


俺はそれを見た。


水なら。


なぜそう思ったのかは分からない。


ただ、精霊の声は水に乗っていた。


なら、こちらの水からも、何かを返せるかもしれない。


俺は水差しに手を伸ばした。


カリンが一瞬、俺の手を止めた。


目が合う。


カリンの黒い瞳が揺れている。


怖いのだと思う。


水に触らせていいのか。

また俺が苦しむのではないか。

でも、今止めていいのか。


三歳の子どもに考えさせるには、重すぎる。


それでもカリンは、俺の手を離さなかった。


離さないまま、小さな木の杯に井戸水を注いだ。


そして、俺の指先が届くところまで近づける。


「ちょっと」


それだけ言った。


ちょっとだけ。


それ以上は駄目。


そういう意味だろう。


俺は小さく声を出した。


「あう」


分かった。


分かったつもりで、指先を水面に触れた。


冷たい。


普通の水だ。


村の井戸から汲んだ、何の異常もない水。


そのはずなのに、俺の胸の奥にあった震えが、水面へ落ちた。


波紋が広がる。


一つ。


二つ。


三つ。


水面の輪が、どこか遠くへ伸びていくような感覚があった。


俺は息を止めた。


ちがう。


そこじゃない。


いしのした。


ねもと。


言葉にならない言葉を、水へ押し込む。


いや、押し込むというより、流す。


小さな水面を通して、遠くの水へ。


森の奥の湧き水へ。


痛がっている何かへ。


そして、そこにいるアンナたちへ。


杯の水が、一瞬だけ淡く光った。


ほんのわずか。


見間違いのような光。


けれど、その直後、体の中から力が抜けた。


「あ……」


頭が重い。


胸の奥が空っぽになる。


何かを使った。


魔法を使った、というほどはっきりした感覚ではない。


でも、確実に何かを持っていかれた。


精霊魔法。


たぶん、それに近い。


カリンが俺を支える。


「よーか!」


声が近い。


でも、少し遠い。


まずい。


やりすぎた。


そう思った時には、もうまぶたが落ちかけていた。


カリンの手が、俺の頬を包む。


「ねない」


命令みたいな声だった。


俺はなんとか目を開けた。


目の前にカリンがいる。


泣きそうな顔だった。


「あう……」


ごめん。


そう思った。


また心配させた。


カリンは何も言わなかった。


ただ、俺の手を握ったまま、杯を遠ざけた。


⸻


森の奥では、湧き水が震えた。


これも後から聞いた。


アンナが黒い根の表面に火を近づけようとした瞬間だったらしい。


湧き石の下から、細い波紋が広がった。


風はない。


水に触れた者もいない。


ミラが水面を見る。


「待って」


アンナは炎を止めた。


ヨシュアがすぐに周囲を見る。


「何か来たか?」


「違う」


ミラは水面を見つめたまま言った。


「これ、水の反応……いや、違う。誰かが水を通してる」


アンナの顔が変わる。


「ヨウカ?」


誰もすぐには答えられなかった。


だが、湧き水の波紋は、ただ揺れているだけではなかった。


輪がいくつも重なり、石の下へ流れていく。


水面に、白い筋が浮かんだ。


細い光だった。


湧き石の割れ目から、さらに下へ。


黒い根は、表面に見えているものだけではない。


石の下に、もっと太い芯があった。


そこから、細い根が水の出口へ伸びていた。


ミラは息を呑んだ。


「根元は下。表面じゃない」


アンナは炎を消した。


「表面を焼いてたら?」


「精霊の反応を傷つけたかもしれない」


ミラの声は硬かった。


ヨシュアが低く言う。


「あいつ、無理をしたな」


アンナは少しだけ村の方を見た。


怒っている顔だったらしい。


でも、すぐに湧き石へ向き直った。


「帰ったら怒る」


ヨシュアが短く返す。


「先に礼を言え。怒るのはその後だ」


アンナは答えなかった。


ただ、もう一度指先に炎を集めた。


今度は、表面の根ではない。


石の割れ目の下。


水の流れを完全には塞がず、黒い芯だけを焼く。


そんな無茶な作業だった。


豪炎の魔女が、豪炎を使えない。


必要なのは、大きな火ではなく、針のように細い火。


黒い根だけを焼き、湧き水を傷つけない炎。


アンナは深く息を吐いた。


「ミラ、揺れたら止めて」


「分かった」


「ヨシュア、周りを」


「任せろ」


三人の声が短く重なる。


そして、処置が始まった。


⸻


俺は家で、カリンに支えられていた。


水の杯は遠くに置かれている。


俺の手が届かない場所だ。


カリンが動かしたのだろう。


俺はかなりだるかった。


頭がぼんやりする。


胸の奥はまだ少し震えている。


でも、さっきのような強い痛みではない。


何かが、少しだけずれた。


締めつけていたものが、ほんのわずかに緩んだような感覚。


「あう……」


声が漏れる。


カリンが俺の顔を覗き込んだ。


「いたい?」


俺は少し迷った。


痛いわけではない。


苦しいわけでもない。


ただ、疲れた。


かなり疲れた。


「あう……」


カリンは唇を噛んだ。


そして、小さく言った。


「やった」


責めるような声ではなかった。


でも、軽くもなかった。


俺は目を逸らした。


やった。


また、やった。


助けたいと思った。


伝えなければと思った。


それは嘘ではない。


でも、カリンが怖がると分かっていたのにやったのも本当だった。


俺は自分のことを勘定に入れるのが下手だ。


前世からそうだったのかもしれない。


困った時に助けを求めるのも下手だったし、自分が痛いことにも鈍かった。


今世では、それを直さなければならない。


何度もそう思っているのに、また同じことをしている。


カリンは俺の額に、自分の額をそっと当てた。


「よーかも、だいじ」


短い言葉。


でも、今の俺には十分すぎるくらい重かった。


俺はカリンの服を握った。


「あう」


ごめん。


そう思った。


今度こそ、ちゃんと。


カリンはしばらく黙っていた。


それから、小さく息を吐いた。


「あとで、アンナ」


アンナに怒られるらしい。


それは避けられない。


俺は目を閉じた。


仕方ない。


今回は、たぶん怒られた方がいい。


⸻


森の奥では、黒い根の処置が続いていた。


アンナの炎は、いつもの炎とはまったく違ったらしい。


大きく燃え上がるのではなく、石の割れ目に沿って細く走る。


黒い根に触れた瞬間、ぱち、と嫌な音がする。


普通の植物が燃える音ではない。


湿った骨を焼くような、ひどく嫌な音だったと、後でミラが言っていた。


黒い煙が出る。


アンナはそれをすぐに炎で包み、外へ逃がさなかった。


森に広げない。


水に落とさない。


吸わせない。


燃やすのではなく、封じながら消す。


その間、ヨシュアはずっと周囲を見ていた。


黒い根を焼かれて、何かが来るかもしれない。


汚れを浴びた動物が暴れるかもしれない。


水場に引かれて魔物が現れるかもしれない。


何も起きないなら、それでいい。


起きた時に止めるために立っている。


それがヨシュアの役目だった。


ミラは青い葉を水に浮かべ、色の変化を見ていた。


葉が黒ずめば危険。

色が少し戻れば、流れが戻っている。


「左、まだ濃い」


「そこはやめて。反応が揺れてる」


「少し下。そう、その線」


アンナはその言葉だけを聞いて、火を動かす。


三人は、別々のことをしている。


でも、同じものを守ろうとしていた。


水源。


弱った精霊。


そして、フィル村。


黒い根は、簡単には燃えなかった。


石の下に食い込み、湧き水の流れを締めつけている。


根元の一部を焼くたびに、水が震える。


そのたびにミラが止める。


アンナが息を整える。


ヨシュアが周囲を確認する。


時間がかかったらしい。


けれど、少しずつ黒い根は細くなった。


完全には消えない。


奥に入り込んだ部分は、まだ残っている。


でも、水の出口を締めていた部分は、少しずつ緩んでいった。


⸻


家にいる俺にも、それは届いた。


見ようとはしていない。


目を閉じて、布人形を握っている。


それでも、水の向こうから、小さな震えが伝わってくる。


いたい。


でも、さっきより細い。


いたい。


でも、息ができる。


ゆるむ。


そんな感じがした。


黒い根が少しずつ緩んでいる。


水が流れようとしている。


精霊の声が、ほんの少し呼吸を取り戻している。


俺は小さく息を吐いた。


「あう……」


カリンが俺を見る。


今度は何も言わなかった。


ただ、俺の手を握った。


見に行くな。


無理をするな。


でも、聞こえているものまで否定しない。


そう言われている気がした。


俺はカリンの手を握り返した。


ここにいる。


森には行かない。


これ以上、水には触らない。


ただ、届いてしまう声を聞いている。


それだけでも、疲れる。


精霊の声を聞くというのは、綺麗なことばかりではないのだと思った。


痛みも、苦しさも、怖さも、伝わってくる。


それを受け取るには、体力も覚悟もいる。


今の俺には、どちらも足りない。


一歳児だから。


いや、一歳児でなくても、足りなかったかもしれない。


⸻


夕方前。


森の方から、鳥の声がした。


一羽だけではない。


二羽。


三羽。


小さな声だった。


弱い声だった。


でも、確かに聞こえた。


村の大人たちが顔を上げる。


外から誰かが言った。


「鳥が戻ってる……?」


俺は窓の方を見そうになった。


カリンが何も言わず、俺の手を握った。


それだけで十分だった。


俺は窓から目を逸らす。


音だけを聞く。


鳥の声。


風の音。


村人が息を呑む気配。


胸の奥にあった重い震えが、少しだけ軽くなった。


森が、ほんの少し息をした。


そんな気がした。


まだ終わっていない。


黒い根の芯は、完全には消えていない。


でも、流れは少し戻った。


痛みは少し和らいだ。


そう感じた。


俺は布人形を抱えたまま、目を閉じた。


疲れた。


かなり疲れた。


けれど、今度は暗い水の夢に沈む感じではなかった。


カリンの手がある。


布人形がある。


ここは家だ。


そう思いながら、俺は少しだけ眠った。


⸻


目が覚めた時、アンナたちは戻ってきていた。


最初に聞こえたのは、ヨシュアの盾を置く音だった。


重い金属が、地面に触れる鈍い音。


次に、ミラの声。


「靴は外で。布は全部分けて」


それから、アンナの声。


「ヨウカは?」


俺は目を開けた。


体は重い。


でも、耳ははっきり聞こえる。


カリンが立ち上がり、扉の方を見た。


「おきた」


扉が開く。


アンナが入ってきた。


顔色は少し悪い。


でも、歩いている。


帰ってきた。


俺は泣きそうになった。


「あう……」


アンナはすぐに俺のそばへ来た。


そして、俺を抱き上げる。


「ただいま」


短い言葉。


それだけで、胸の奥がほどけた。


「あう」


おかえり。


そう言いたかった。


アンナは俺を抱いたまま、少し黙った。


それから、低い声で言う。


「無理したわね」


来た。


怒られる。


俺は目を逸らした。


しかしアンナは、すぐには怒鳴らなかった。


代わりに、俺を強く抱きしめた。


「助かったわ」


その声は震えていた。


「でも、怖かった」


胸が詰まった。


アンナも怖かったのだ。


俺が何かをしたこと。

俺が倒れかけたこと。

それを、森の奥で感じていたのかもしれない。


俺はアンナの服を握った。


「あう……」


ごめん。


ありがとう。


おかえり。


全部混ざって、声にならなかった。


ヨシュアが少し離れたところから言った。


「説教は後だな」


アンナは小さく息を吐いた。


「ええ。後で」


後である。


逃げられない。


でも今は、それでよかった。


ミラも家に入り、俺を見る。


「顔色は悪いけど、意識はあるわね。今日はもう水に近づけないで」


カリンが即答した。


「うん」


俺の管理がさらに厳しくなる気配がした。


仕方ない。


今回ばかりは、反論の余地がない。


⸻


その日の森は、完全には治っていなかった。


黒い根も、すべて消えたわけではない。


水源の奥には、まだ黒い芯が残っているらしい。


けれど、水は少しだけ流れを取り戻した。


鳥が戻った。


薬草畑の端の草も、明日になれば少し変わるかもしれない。


精霊の声は、朝より静かだった。


いたい。


その声はまだある。


でも、そこにもう一つ、別の響きが混じっていた。


ありがとう。


そう聞こえた気がした。


俺はアンナの腕の中で目を閉じた。


どうやら、その声は俺に届くらしい。


そして俺は、その声を聞くには、まだあまりにも小さいらしい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。