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なんか捨て子の女の子に転生したらしい  作者: ダレイワス1世
第一章 フィル村幼児期編
17/164

なんか森の奥へ行くらしい

朝になっても、夢の水は胸の奥に残っていた。


冷たいわけではない。

濁っているわけでもない。

ただ、重い。


苔のついた石。

その隙間から湧く水。

水の奥に絡みつく、黒い根。


いたい。


目を開けても、その声だけが消えない。


俺は布団の中で、しばらく動けなかった。


「ヨウカ?」


母さんが顔を覗き込む。


いつもの朝なら、抱き上げられて、顔を洗って、朝の準備が始まる。

けれど今日は、母さんの手が途中で止まった。


俺が、服を握っていたからだ。


「あ……」


言葉にならない。


みず。

いし。

くろい、ねっこ。


どれも、うまく口から出てこない。


俺は母さんの服を握ったまま、森の方を見た。


母さんの表情が変わる。


「また、夢を見たの?」


「あう」


頷いたつもりだった。


母さんはすぐには抱き上げない。

俺の目が向いた先を追う。


森側。

小川の上流。


そこに何かがある。


たぶん、それだけは伝わった。


「アンナ」


父さんの声がした。


もう外へ出る支度をしている。


剣。

盾。

厚い靴。

腰には縄と短い鉈。


いつもの父さんより、少し重い装備だ。


「今日、行くわ」


母さんが言う。


父さんは驚かなかった。


「上流か」

「ええ。ミラさんも同じ見立てだった。水の反応は、村の近くより上流の方が濃い」

「危険なら引く」

「分かってる」


短いやり取りだけで、二人の間では話が通じる。


母さんは俺を抱き上げた。


「ヨウカ。今日は、家にいるの」


「あう」


「水も見ない。森も見ない。無理に聞こうとしない」


「あ……う」


少しだけ、返事が遅れた。


母さんの目が細くなる。


「ヨウカ」


怒ってはいない。

でも、逃がしてはくれない声だった。


俺は母さんの服を握る。


「あう」


今度は、ちゃんと返事をした。


母さんが小さく息を吐いた。


「いい子」


その言葉が、今日は少し重い。


朝食の後、家の前に人が集まった。


父さん。

母さん。

ミラ。

村長。

ダン。

それから、何人かの村人。


ミラは腰の小袋を確かめている。


薬草。

小瓶。

布。

細い金属の棒。


触ってはいけないものを動かすための道具だろう。


「黒い粉や根を見つけても、素手で触らないでください」


ミラの声は、昨日より硬かった。


「水に濡れていても同じです。洗えば済むとは限りません。傷がある人は近づかない方がいい」


村人たちが頷く。


父さんは盾の縁を確かめながら言った。


「森に入るのは、俺とアンナとミラ。ダンは途中まで。危なければ戻って村へ知らせろ」


「はい」


ダンの顔は緊張している。

それでも、足は逃げていなかった。


村長は森側の柵を見る。


「村に残る者は、柵の内側から出ない。小川の水は使うな。井戸水だけにする。何かあれば鐘を鳴らせ」


指示は短い。


短いのに、村の空気が変わっていく。


誰が残るか。

誰が水を見るか。

誰が子どもを家に入れるか。


大人たちは、もう動き始めていた。


その中に、俺はいない。


それでいい。


そう思ったところで、胸の奥が少しだけ痛んだ。


「よーか」


声の方を見ると、カリンがいた。


今日は木剣を持っていない。

布人形だけを抱えている。


カリンは俺の前に立つと、まず父さんを見た。


「もり、いく?」


「ああ」


「かえる?」


「帰る」


父さんはしゃがんで答えた。


カリンは次に母さんを見る。


「アンナも?」


「帰るわ」


母さんも真面目な顔で答える。


最後に、カリンはミラを見た。


「ミラも?」


ミラは少し目を丸くして、それから笑った。


「もちろん。帰ってくるわ」


カリンは三人を順番に見た。


「よし」


よし、らしい。


父さんが低く笑う。


「許可が出たな」


「重い許可ね」


母さんも少しだけ笑った。


でも、すぐに表情を戻す。


カリンは俺の隣に来て、布人形を差し出した。


「よーか、これ」


「あう」


「みる。もり、みない」


森ではなく、これを見ていろ。


相変わらず強引だ。

でも、ありがたかった。


俺は布人形を握る。


母さんが俺の頭を撫でた。


「待っていて」


「あう」


今度は、返事が遅れなかった。


父さんが先頭に立つ。

母さんが少し後ろへ続く。

ミラは道具袋を押さえながら、森側の道へ向かった。


ダンが最後に村を振り返る。


四人の姿が、木々の間に消えた。


待つ時間は長い。


家の中には、母さんの匂いが残っていた。


薬草。

布。

少し焦げたような、火の匂い。


でも、母さんはいない。

父さんの低い声も聞こえない。


外では村人が動いている。


水を運ぶ音。

柵を確かめる音。

誰かが子どもを呼ぶ声。


村は静かではない。


ただ、いつもの音とは違った。


俺は何度も森の方を見そうになる。

そのたびに、カリンの手が伸びた。


「みない」


「あう」


カリンは俺の隣に座っている。

布人形の腕のほつれを、指で押さえていた。


針は持っていない。

ただ、ほつれた糸が広がらないように、じっと見ている。


俺と似ている。


見ているだけ。

触れすぎないようにしているだけ。


それでも、何もしないよりはましだと思いたかった。


昼が近づく頃、胸の奥が一度だけ震えた。


いたい。


小さな声。


俺は反射的に顔を上げる。


「よーか」


カリンの声が飛んだ。


俺は布人形を握り直す。


見ない。

聞きすぎない。


息を吸って、吐く。


声はすぐに遠くなった。


消えたわけではない。

まだ、そこにある。


でも、今の俺が無理に手を伸ばしていいものではなかった。


カリンは俺の手元を見て、少しだけ頷く。


「よし」


また、よしをもらった。


今度は少しだけ、胸が楽になる。


昼を過ぎた頃、森側の道が騒がしくなった。


最初に戻ってきたのは、ダンだった。


肩で息をしている。

靴は泥だらけ。

袖にも黒っぽい汚れがついているが、手には布を巻いていた。


素手で触らない。


ミラの言葉を守ったのだと分かる。


「ダン!」


村長が駆け寄った。


「他の者は?」


「奥に……着きました。ヨシュアさんたちは残ってます」


ダンは息を整えながら、森の方を指す。


「上流の湧き石に、黒い根みたいなものが絡んでます。水の出口を塞ぐみたいに」


黒い根。


夢と同じ言葉だった。


俺は布人形を握る手に力を込める。


カリンの手が、すぐに俺の手の上へ重なった。


「湧き石の周りに、黒い粉もありました。ミラさんが、触るなって。ヨシュアさんが周りを押さえて、アンナさんが……」


ダンは一度、言葉を切った。


「アンナさんは、まだ燃やしてません」


村長の眉が動く。


「燃やせないのか」


「たぶん、精霊が近いからだって」


家の中が静まった。


燃やせばいい。


そうできないものが、森の奥にある。


それだけで、事態の面倒さが伝わってくる。


村長はすぐに顔を上げた。


「ダン、手を洗え。汚れた服は外で脱げ。黒いものがついた布はまとめておけ。誰も触るな」


「はい」


「鐘はまだ鳴らさない。だが、森側には誰も近づけるな」


村長の声で、また村が動き出す。


俺はその声を聞いていた。


動ける人が、動いている。


俺は動かない。


布人形を握って、カリンの隣にいる。


それが、今日の俺の役目だった。


夕方近くになって、ようやく森側の道に人影が見えた。


最初に父さん。


盾に泥がついている。

肩にも、黒っぽい擦れ跡があった。


でも、歩いている。


次に母さん。


顔色は少し悪い。

髪にも葉が絡んでいた。


でも、歩いている。


最後にミラ。


両手で小さな鉄箱を持っていた。


帰ってきた。


カリンの手から、少しだけ力が抜ける。


「かえった」


「あう」


俺も同じことを思った。


父さんは家の前で足を止めた。


「誰も大きな怪我はない」


その一言で、村人たちの空気が少し緩む。


母さんは俺を見る。

抱き上げようとして、途中で手を止めた。


自分の服に泥がついていることに気づいたのだ。


「先に着替えるわ」


そう言って、母さんは苦笑した。


いつもの母さんの顔だった。


それだけで、少し安心する。


ミラは鉄箱を家の外の台に置いた。

蓋は開けない。


「中に、黒い根の欠片が入っています」


村長が顔をしかめた。


「持ち帰って大丈夫なのか」


「鉄箱に入れて、布と薬草で包んでいます。長く置くつもりはありません。ルーベルに持ち帰って調べます」


ルーベル。


隣町の名前が出た。


俺は鉄箱を見た。


ただの箱だ。

なのに、胸の奥がざわつく。


見たい。


そう思った瞬間、カリンの手が俺の頬に伸びた。


ぐい、と顔の向きを変えられる。


「みない」


「あう」


完全に読まれていた。


ミラもこちらを見て、少し真面目な顔になる。


「ヨウカちゃんには、見せない方がいいわ」


母さんがすぐに俺を抱き上げた。

泥のついた服のままだが、気にしない。


「ええ」


母さんの腕の中で、俺は鉄箱から目を逸らした。


見なくても分かる。


あれは、夢の中の黒い根と同じものだ。


報告は、家の外で行われた。


俺は母さんの膝の上。

カリンは隣。

父さんは立ったまま、盾を壁に預けている。


ミラは鉄箱から少し離れた場所に座った。


「湧き石の割れ目に、黒い根が絡んでいました。水の出口を締めつけるように」


ミラは地面に枝で簡単な絵を描く。


丸い石。

その下から出る水。

そこに絡む、黒い線。


「根の周りだけ、水の流れが重くなっている感じです。濁っているというより、押し込められている」


押し込められている。


胸の奥で、夢の声が揺れた。


いたい。


俺は母さんの服を握る。


母さんの手が、背中に回った。


「精霊は?」


村長が聞く。


ミラは少し迷ってから答えた。


「弱っています。ただ、消えかけているというより、動けないようにされている感じです」


父さんが腕を組む。


「根を切ればいいのか」


「切るだけでは、たぶん残ります。無理に剥がすと、水の流れごと傷つけるかもしれません」


「燃やすのは?」


母さんが静かに言った。


「表面だけなら焼けるわ。でも、火を強くすれば精霊も巻き込む。あの場所では、雑に燃やせない」


母さんが火を使わなかった理由が、そこで分かった。


強いからこそ、使えない時がある。


母さんは鉄箱を見る。


「欠片を取るだけで、少し暴れたわ。ヨシュアがいなかったら危なかった」


「泥みたいな獣の形になりかけた」


父さんが短く補足した。


村長が息をのむ。


俺も、思わず父さんを見る。


父さんは平然としている。

平然としているが、盾の縁には新しい傷がついていた。


「今夜は近づかない方がいい」


ミラが言った。


「精霊も根も、かなり弱っています。刺激を増やすと、悪化するかもしれません。明日、もう一度方法を考えましょう」


「ルーベルへは?」


「この欠片は私が持ち帰ります。詳しく調べたい。けれど、森の方を放っておくわけにもいきません」


ミラは俺を見ないようにして、鉄箱を布で包んだ。


「水に詳しい人にも、あたってみます」


話はそこで一度切れた。


解決はしていない。


でも、分かったことはある。


夢の水。

黒い根。

湧き石。

閉じ込められた精霊。


それらが、別々の不安ではなく、一つにつながった。


俺は母さんの服を握ったまま、鉄箱の方を見ないようにする。


見たい。

でも、見ない。


今日は、それでいい。


カリンが布人形を俺の膝に置いた。


「よーか」


「あう」


「かえった」


父さんも。

母さんも。

ミラも。


帰ると言った大人たちは、帰ってきた。


俺は布人形を握り、ようやく息を吐く。


森は、まだ戻っていない。

水も、まだ戻っていない。


でも今日は、みんな帰ってきた。


それだけで、十分に大きいことだった。

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