なんか見回りが増えるらしい
森の様子がおかしい。
そう分かっても、俺にできることは少なかった。
というか、ほとんどない。
俺は一歳児である。
森に入れない。
歩けない。
喋れない。
剣も持てない。
魔法も勝手には使えない。
できることといえば、見ること、気づくこと、泣くこと、寝ること。
冷静に考えると、戦力としてはほぼゼロだ。
いや、赤ん坊を戦力計算に入れる方がおかしい。
だから、今日の俺の仕事も変わらない。
食って、寝て、育つこと。
ヨシュアが言った通りだ。
だが、頭では分かっていても、気になるものは気になる。
朝から村は少し慌ただしかった。
牙猪の時のような大騒ぎではない。
でも、男たちが槍や弓を確認し、何人かの大人が森側へ向かう準備をしている。
見回りを増やすらしい。
「森の奥には入らない」
ヨシュアが言った。
井戸の近くに村人たちが集まっている。
俺はアンナに抱かれて、その様子を見ていた。
「村の外周と、薬草畑の周り、柵の外側だけを見る。異変があれば追わずに戻る」
ヨシュアの声はよく通る。
怒鳴ってはいない。
でも、みんなが自然と聞く。
「魔物を見ても深追いするな。足跡を見つけても追うな。変な匂い、腐った草、黒ずんだ根、水場の濁り。そういうものを見たら場所だけ覚えて戻れ」
かなり具体的だ。
村人たちは真剣に頷いている。
ヨシュアは続けた。
「一人で行くな。必ず二人以上。片方が怪我をしたら、もう片方は助けを呼ぶ。格好つけて戦うな」
それは俺にも刺さる。
格好つけて戦うな。
赤ん坊の俺にはまだ早い言葉だが、将来の俺にはかなり必要そうな言葉だった。
アンナも横から言った。
「森側で採れた薬草は、今日は私が確認するまで使わないで。特に根が黒ずんでいるものは触りすぎないこと」
薬草も警戒対象になったらしい。
昨日のミズヒラ草の件があるからだ。
俺はアンナの服を握った。
「あう」
アンナが俺を見る。
「大丈夫。ちゃんと見るわ」
伝わっている。
やはりこの人、俺と会話しているのではないか。
ヨシュアも俺を見て言った。
「ヨウカ、お前は留守番だ」
「あう」
分かっています。
行けるわけがない。
「気になる顔をしても駄目だ」
ばれている。
俺は目を逸らした。
村人の一人が笑った。
「ヨウカちゃん、本当に分かってそうな顔するなあ」
アンナがため息をつく。
「そうなのよ」
そうなのよ、ではない。
いや、そうなのだが。
⸻
見回り組が森側へ向かうと、村は少し静かになった。
残った大人たちは、普段通りの仕事をしている。
畑を見る人。
井戸の水を汲む人。
家畜の世話をする人。
ただ、みんな時々森の方を見る。
いつもの日常に、少しだけ警戒が混じっている。
俺はその空気を感じていた。
不安。
でも、パニックではない。
この村には、危険が来た時にどう動くかを知っている大人がいる。
ヨシュアがいる。
アンナがいる。
村人たちも、完全な素人ではない。
だからまだ大丈夫。
そう思いたかった。
「よーか」
カリンが隣に来た。
今日は木剣を持っている。
ただし、構えるためではなく、抱えるようにして持っている。
「もり、いかない」
「あう」
行きません。
「わたしも、いかない」
それは少し安心した。
カリンなら「まもる」と言ってついて行きたがる可能性があると思っていたからだ。
俺がそういう顔をしたのか、カリンは少しむっとした。
「わたし、むちゃ、だめ」
「あう」
そうです。
カリンも無茶は駄目です。
カリンは俺の手を握った。
「よーか、しんぱいするから」
その言葉に、少し胸が温かくなった。
カリンは、俺が心配するから無茶をしない。
俺も、カリンが心配するから無茶をしない。
それは良い関係なのかもしれない。
少なくとも、一方だけが守る関係よりはずっといい。
アンナがそれを見て、少し微笑んだ。
「二人とも、お互いに見張っててくれると助かるわ」
見張り。
俺たちは見張り合う関係らしい。
まあ、実際そうかもしれない。
⸻
昼前、最初の見回り組が戻ってきた。
ヨシュアはいない。
別の方向を見に行っているらしい。
戻ってきたのは、村の若い男二人だった。
片方の腕に、小さな擦り傷がある。
「大したことないです」
若い男はそう言った。
だが、アンナはすぐに眉を寄せた。
「見せて」
「いや、本当に枝で擦っただけで」
「見せて」
声は穏やかだった。
だが、拒否できる雰囲気ではなかった。
豪炎の魔女の圧である。
男は素直に腕を出した。
確かに傷は浅い。
血も少しにじんでいるだけ。
普通なら水で洗って終わりだろう。
だが、俺はその傷を見て、少し違和感を覚えた。
傷の周りに、薄い黒い粉のようなものがついている。
土かもしれない。
木の皮かもしれない。
でも、なぜか気持ち悪い。
鑑定が反応する。
【擦過傷】
浅い傷。異物付着。
微弱な魔力の乱れあり。洗浄推奨。
洗浄推奨。
俺はすぐにアンナの服を握った。
「あう!」
アンナが俺を見る。
「ヨウカ?」
俺は男の腕を指差した。
「あー!」
アンナの顔が変わった。
「水。すぐに」
村人が慌てて桶を持ってくる。
若い男は驚いた顔をした。
「そんなに悪いんですか?」
「分からない。でも、変なものがついてる」
アンナは傷口に水をかけた。
それから清潔な布で、こすりすぎないように丁寧に拭う。
黒い粉が少し落ちた。
水に混じると、ほんのわずかに灰色へ濁る。
俺はそれを見て、嫌な感じが強くなった。
【灰色に濁った水】
傷口に付着していた異物を含む水。
詳細不明。
詳細不明。
嫌な言葉だ。
分からない。
だからこそ、雑に扱ってはいけない。
アンナも同じ判断をしたらしく、いつもの薬草軟膏にはすぐ手を伸ばさなかった。
「今日は普通の軟膏は塗らない。まず洗って、布で覆うだけにするわ」
男が不安そうに聞く。
「毒ですか?」
「まだ分からない。痛みは?」
「少しひりひりするくらいです」
「熱っぽさは?」
「ないです」
「しびれは?」
「ないです」
アンナは頷いた。
「なら様子を見る。少しでも熱が出たり、傷の周りが黒くなったらすぐ来て」
正しい。
たぶん正しい。
安易に薬を塗らない。
分からないものを、分かったつもりで処置しない。
俺はまた学んだ。
医学は、何かをする力だけではない。
何をしないかを判断する力でもある。
⸻
若い男が去った後、アンナは水の入った桶を見つめていた。
「ヨウカ」
「あう」
「また気づいたのね」
俺は少し目を逸らした。
気づいた。
でも、正確には鑑定が表示しただけだ。
自分の実力ではない。
アンナは俺の頭を撫でた。
「ありがとう。助かったわ」
助かった。
そう言われると、嬉しい。
でも同時に、少し怖い。
俺が気づかなければ、どうなっていたのか。
いや、考えすぎるな。
気づいたからアンナに伝えた。
今はそれでいい。
アンナは桶の水を別の瓶に少し移した。
「ヨシュアに見せる。あと、村長にも」
カリンが俺のそばで言った。
「よーか、えらい」
「あう」
偉いのだろうか。
俺はただ変なものを見ただけだ。
でも、カリンは本気でそう思っている顔だった。
「でも、つかれたら、ねる」
そこは忘れない。
カリンは本当に俺の管理役である。
⸻
午後、ヨシュアが戻った。
顔はいつもより険しい。
大きな怪我はない。
だが、盾に黒い擦れ跡がついていた。
俺はそれを見て、心臓が少し跳ねた。
アンナも気づいた。
「ヨシュア、その盾」
「ああ。森の倒木に触れた。倒木の表面が妙に脆かった」
「魔物は?」
「見ていない。ただ、足跡はあった」
ヨシュアは盾を下ろした。
黒い擦れ跡は、木炭のようにも見える。
しかし、ただの焦げではなさそうだった。
アンナは瓶を見せた。
「見回りの子が腕を擦った。傷に似たような黒い粉がついてたわ」
ヨシュアの表情がさらに険しくなる。
「森の外側まで出てるか」
「まだ分からない。薬草畑の端、傷口、盾。全部、森側」
ヨシュアは少し考えた。
「村長に話す。今日から森側の子どもの外出は禁止だな」
カリンがすぐに反応した。
「わたしも?」
「ああ。お前もだ」
「……うん」
意外と素直に頷いた。
たぶん、危険の種類が分からないからだ。
相手が牙猪なら、カリンは前に出たがるかもしれない。
でも、黒い粉や魔力の乱れは、剣でどうにかなるものではない。
それを幼いながらに感じ取っているのだろう。
ヨシュアは俺を見る。
「ヨウカも、窓から森を見すぎるな」
「あう……」
また釘を刺された。
でも、必要な釘だった。
見すぎれば疲れる。
無理に鑑定すれば頭が熱くなる。
分からないものを見ようとしすぎれば、こっちが壊れる。
俺は大人しく返事をした。
「あう」
⸻
その夜、村では小さな集まりが開かれた。
大人たちだけの話し合いだ。
俺は当然参加できない。
赤ん坊なので。
だが、家に戻ったヨシュアとアンナの会話から、だいたいの方針は分かった。
森側の外出制限。
薬草採取の一時停止。
見回りは継続。
ただし森の奥には入らない。
黒い粉がついたものはアンナが確認。
怪我をしたらすぐ洗う。
子どもだけで外に出ない。
かなり現実的な対応だった。
原因はまだ分からない。
だから、分からないなりに危険を減らす。
これが大人の仕事なのだろう。
俺は寝床の中でそれを聞いていた。
カリンも隣に座っている。
「よーか」
「あう」
「くろいの、だめ」
「あう」
それは分かっています。
「さわらない」
「あう」
触れません。
赤ん坊なので。
「みすぎない」
「あう」
それは少し難しい。
カリンは俺をじっと見た。
「みすぎない」
二回言われた。
俺は目を逸らした。
「あう……」
カリンは俺の手を握る。
「よーか、あたま、つかれる」
その通りである。
最近、俺のことを一番正しく管理しているのはカリンかもしれない。
アンナが苦笑した。
「カリンの言う通りね。ヨウカ、今日はもう考えない」
ヨシュアも言った。
「大人が考える」
ありがたい。
でも、少し悔しい。
気づけることがあるのに、考えるなと言われる。
しかし、それもまた必要なのだろう。
俺はまだ小さい。
気づいたことを大人へ渡す。
そこから先は、大人の仕事。
それを信じるのも、今の俺の仕事なのかもしれない。
⸻
夜が深くなる。
森は静かだった。
静かすぎる。
虫の声が少ない。
鳥の声もない。
だが、何も来ない。
何も起きない。
それがかえって不気味だった。
俺は目を閉じようとして、何度も開けた。
気になる。
黒い粉。
魔力の乱れ。
薬草の萎れ。
森から逃げる小動物。
牙猪。
情報が頭の中でつながろうとする。
叡智が働いているのだと思う。
でも、答えは出ない。
出ないまま考え続けるのは、かなり消耗する。
カリンが俺の手を少し強く握った。
「よーか」
「あう」
「ねる」
命令である。
俺は少し抵抗したかったが、眠気もあった。
「ねる」
二回目。
カリンの声は静かだが、譲らない。
俺は息を吐いた。
そうだ。
寝るべきだ。
今、俺が考え続けても、明日の見回りが安全になるわけではない。
むしろ寝不足で明日さらに使い物にならなくなる。
赤ん坊の寝不足など、ただの迷惑である。
俺は目を閉じた。
アンナが部屋の灯りを落とす。
闇が、静かに部屋を包む。
怖くない闇。
休むための闇。
俺はその中で、カリンの手の温かさを感じていた。
どうやら、見回りが増えるらしい。
そして、森で起きている何かは、少しずつ村の近くまで来ているらしい。




