なんか隣町から人が来るらしい
隣町へ知らせに行った二人が戻ったのは、次の日の昼過ぎだった。
一人ではなかった。
家の扉が開き、父さんの後ろから、知らない女の人が入ってくる。
茶色の髪を後ろでまとめ、腰には薬草用の小袋と小瓶。
草と、乾いた根と、少し苦い匂いがした。
薬師。
そう思った瞬間、文字が浮かぶ。
〖ミラ〗
状態:軽い疲労
薬師。
詳細不明。
隣町から来た薬師。
たぶん、この人がそうだ。
ミラは部屋に入ると、まずアンナに頭を下げた。
「急に押しかけてごめんなさい。話は途中まで聞いています」
「助かります。ルッツの傷と、水を見てほしいの」
「先に傷を見ます」
返事が早い。
ミラは荷物を下ろすと、すぐにルッツの方へ向かった。
ルッツは椅子に座っている。
顔色は昨日より少し戻っているが、腕にはまだ布が巻かれていた。
「布、外しますね」
ミラはそう言ってから手を伸ばした。
いきなり触らない。
それだけで、少し信用できる気がした。
布が外される。
傷口の周りは赤い。
黒い粉は昨日より薄くなっていたが、完全には消えていない。
ミラの顔が少し険しくなる。
「普通の化膿とは違いますね」
「やっぱり?」
アンナが聞く。
「ええ。熱の出方も、傷の悪化の仕方も妙です。毒とも少し違う。黒い粉が、傷に残って魔力の流れを乱している感じがします」
魔力の流れ。
俺はルッツの腕を見た。
見たい。
そう思った瞬間、隣から手が伸びた。
カリンだ。
「みすぎ、だめ」
「あう」
分かっている。
分かっているが、気になる。
カリンの手は俺の袖をしっかり掴んでいた。
逃がす気がない。
ミラは俺たちをちらりと見て、少し笑った。
「その子がヨウカちゃん?」
「ええ」
母さんが答える。
ミラは俺を覗き込むようなことはしなかった。
近づきすぎず、少し離れたところから目を細める。
「かわいい子ね。でも、今日はあまり見せない方がいいかもしれない」
「分かっています」
母さんの返事も早かった。
俺は母さんの服を握る。
見せない方がいい。
つまり、俺が見すぎると危ないものだと、ミラも判断したのだろう。
それはありがたい。
同時に、少し怖い。
ミラは小瓶から薄い緑色の液を布に染み込ませた。
「強い薬は使いません。まずは残っている黒い粉を浮かせます。痛かったら言ってください」
「はい」
ルッツが頷く。
ミラは傷の周りを丁寧に拭いた。
こすらない。
押しつけない。
布を替えながら、少しずつ黒い汚れを取っていく。
アンナの手つきとは違う。
でも、急がないところは似ていた。
「昨日、すぐ洗ったのは正解です」
ミラが言った。
「この粉、傷の中に残ると厄介です。逆に、早く流せば深く入りにくい」
「薬を塗らなかったのは?」
アンナが聞く。
「それも正解です。下手に塗ると、閉じ込めていたかもしれません」
ルッツの顔が少し青くなった。
「閉じ込める……」
「今は大丈夫。熱も下がっています。ただ、今日は無理しないでください」
ミラはそう言って、新しい布を巻いた。
ルッツは大きく息を吐く。
「ありがとうございます」
「まだ終わりじゃありません。明日も見ます」
「はい」
ミラはそこでようやく、水の入った小瓶を手に取った。
小川から採った水。
森側の水。
昨日から、誰も使わないようにしている水だ。
瓶の中身は、見た目には普通だった。
透明。
濁りもない。
匂いも、たぶん強くない。
けれど、ミラは蓋を開けた瞬間に眉を寄せた。
「……重いですね」
重い。
夢の水と同じ言葉だった。
俺は思わず息を止める。
カリンの手に力が入った。
「ヨウカ」
母さんの声も飛ぶ。
「あう」
俺は小さく返事をして、瓶から目を逸らした。
ミラは瓶の水を、浅い皿に一滴だけ落とした。
そこへ、青みがかった小さな葉を浮かべる。
葉はしばらく水面に浮いていた。
やがて、端から黒ずんだ。
部屋の空気が止まる。
村長が低く言った。
「毒か」
「毒と決めるには早いです」
ミラは葉を見ながら答えた。
「ただ、普通の汚れではありません。水そのものが腐っているのとも違う。何かが、水の流れに混ざっているというより……」
そこで、ミラは言葉を探すように黙った。
「押し込められている?」
母さんが言う。
ミラが頷いた。
「近いです。水が流れたいのに、どこかで締めつけられている感じがします」
締めつける。
黒い根。
夢の中の感触が、胸の奥で揺れた。
いたい。
小さな声がした気がした。
俺は布人形を握る。
今日はカリンが持ってきてくれた。
森ではなく、これを見ていろという意味の布人形だ。
「よーか」
カリンが俺の顔を覗き込む。
「あう」
大丈夫。
そう言ったつもりだった。
たぶん、大丈夫ではない顔をしていたと思う。
ミラは皿の水を布で覆った。
「この水は使わないでください。飲み水は井戸だけ。薬草にも使わない方がいいです」
「井戸は大丈夫なのか」
父さんが聞く。
「今見た限りでは、井戸水には反応がありません。ただ、森側に近い水は避けた方がいい」
村長が頷いた。
「村中に伝える。小川の水は使わせない」
「黒い粉に触れた人も、すぐ洗ってください。傷がある場合は必ず見せてください。自己判断で薬を塗らないこと」
ミラの声は静かだった。
でも、聞き流せる声ではない。
大人たちは、それぞれ動き始めた。
村長は外へ出て、指示を出す。
父さんは森側の柵を確認しに行く。
母さんは水瓶を確かめ、井戸水だけを別に分けた。
家の中に、緊張が残る。
ミラは皿と小瓶を片づけてから、母さんの方を向いた。
「上流を見た方がいいと思います」
やっぱり。
俺は布人形を握った。
「村の近くでこれなら、原因はもっと上にある可能性が高いです。黒い粉も、水の反応も、下流に流れてきている」
「森の奥ね」
母さんの声が硬くなる。
ミラは頷いた。
「ただ、今すぐ行くのはすすめません。準備が要ります。触ってはいけないものを動かす道具と、汚染を広げない手順。それから、戻ってきた人を洗う場所も必要です」
父さんが戻ってきて、その話を聞いた。
「明日の朝だな」
「ええ」
母さんも頷く。
「今日は村を固める。水を止めて、触れた人を確認して、森側に近づけない」
「それがいいです」
ミラはそう言って、少しだけ息を吐いた。
疲れている。
朝から移動して、すぐ傷を見て、水を調べて、村の対策まで考えている。
当然だ。
俺はミラを見た。
〖ミラ〗
状態:疲労
薬師。
詳細不明。
さっきより、疲労の文字が少し濃く見えた。
見すぎない方がいい。
そう思って、目を逸らす。
今の俺に、ミラの疲れを取ることはできない。
できるのは、余計な手間を増やさないことくらいだ。
「ヨウカ」
母さんが俺の頭を撫でる。
「今日はもう、水も森も見ないの。いい?」
「あう」
今度は、すぐに返事をした。
カリンが隣で頷く。
「よし」
また、カリンの許可が出た。
ミラがそれを見て、少し笑う。
「頼もしい見張り番ね」
「カリン、みはる」
カリンは胸を張った。
父さんが小さく笑った。
「それなら安心だ」
安心かどうかは分からない。
でも、カリンは本気だった。
その日の夕方、村では小川の水を使わないことが決まった。
森側の見回りは増えた。
子どもは柵の外へ出ない。
黒い粉を見つけても触らない。
傷があれば、すぐアンナかミラに見せる。
禁止が増えていく。
昨日まで普通だった場所が、少しずつ遠くなる。
それでも、誰も騒ぎすぎなかった。
大人たちが動いているからだ。
父さんが柵を見る。
母さんが水を分ける。
村長が伝える。
ミラが調べる。
それぞれが、自分の場所でできることをしていた。
俺は母さんの膝の上で、それを見ていた。
見ているだけだ。
でも今日は、それでいい。
夜になって、ミラはアンナの家に泊まることになった。
明日の朝、森の上流を見る。
そう決まったからだ。
ミラは道具袋を壁際に置き、鉄製の小箱を取り出した。
「これは、何かを持ち帰る必要が出た時のためです」
母さんが小箱を見る。
「そんなに危ないものがあると思う?」
「分かりません」
ミラは短く答えた。
「でも、分からないものを素手で持ち帰るよりはましです」
正しい。
たぶん、かなり正しい。
俺は小箱を見た。
鉄。
布。
薬草の匂い。
明日、それに何かが入るかもしれない。
黒い粉か。
黒い根か。
それとも、別の何かか。
胸の奥がざわつく。
カリンがすぐに布人形を押しつけてきた。
「よーか、これ」
「あう」
見るな。
考えすぎるな。
寝ろ。
たぶん、そういう意味だ。
俺は布人形を握った。
明日、大人たちは森の奥へ行く。
俺は行けない。
それでいい。
そう思いながら、目を閉じた。
眠りに落ちる直前、また水の音がした。
ぽたり。
遠くで、一滴だけ落ちる音。
いたい。
小さな声が、まだ聞こえていた。
どうやら、隣町から人が来たらしい。
そして森の奥の何かは、ただ痛がっているだけではなく、助けを求めているらしい。




