なんか精霊の声がするらしい
昼前、カリンが来た。
今日は木剣の代わりに小さな布人形を持っている。
「よーか」
「あう」
「そと、だめ」
「あう」
「もり、だめ」
「あう」
「みすぎ、だめ」
「あ……う」
少し返事が遅れた。
カリンの目が細くなる。
「だめ」
完全に見抜かれていた。
カリンは布人形を俺の手元に置いた。
「これ、みる」
森ではなく、人形を見ていろ。
そういうことらしい。
少し強引だ。
でも、ありがたかった。
カリンは満足そうに頷いた。
「よし」
今日も出た。
俺はもう、この「よし」を聞くと少し安心する体になってきている気がする。
それはそれでどうなんだ。
⸻
翌朝、俺は変な夢を見た。
水の中にいた。
冷たい、というより、重い水だった。
前世でプールに潜った時のような感覚ではない。
水そのものが疲れているような、息苦しいような、妙な夢。
暗い水の奥で、小さな何かが震えていた。
声が聞こえる。
いたい。
ただ、それだけ。
誰の声なのかは分からない。
人間の声ではない気がした。
子どもの声にも似ている。
でも、もっと細い。
水の中で泡が弾けるような、葉の先から雫が落ちるような、そんな声だった。
いたい。
その声を追おうとした瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
苦しい。
俺は水の中で手を伸ばそうとした。
けれど、体が動かない。
一歳児の体だから、というより、夢の中でも赤ん坊のままだった。
何もできない。
声は、また小さく響いた。
いたい。
そこで目が覚めた。
「……あう」
寝床の上で、小さく声が漏れた。
部屋は薄暗い。
まだ朝早いらしい。
暖炉の火は小さく、アンナは机の上で何かを書いていた。
隣町へ送る知らせの控えだろうか。
ヨシュアは扉の近くで装備を確認している。
二人とも、もう起きていた。
俺は少しだけ体を動かした。
すると、アンナがすぐに振り返る。
「起きたの?」
「あう……」
起きました。
変な夢を見ました。
もちろん、そんな説明はできない。
アンナは俺の顔を見るなり、少し眉を寄せた。
「顔色、悪いわね」
ばれるのが早い。
ヨシュアもこちらへ来た。
「熱か?」
アンナが俺の額に手を当てる。
「熱はない。怖い夢でも見た?」
「あう」
それに近い。
俺はアンナの服を握った。
アンナは少しだけ俺を抱き上げた。
「今日は無理に外を見なくていいわ」
短く言って、背中を撫でる。
その声は優しかった。
けれど、俺の頭にはまだ、あの声が残っていた。
いたい。
あれはただの夢だったのか。
それとも、昨日の小川の水を見たせいで、何かが残っているのか。
分からない。
分からないが、嫌な感じだけは消えなかった。
⸻
朝食の頃、カリンが来た。
今日は少し早い。
黒髪はいつも通りきれいに整えられている。
けれど、顔は少し硬かった。
「よーか」
「あう」
カリンは俺の前に座ると、すぐに俺の顔を見た。
「ねむい?」
「あう」
眠いというより、すっきりしない。
俺の返事をどう受け取ったのか、カリンは布人形を俺の横に置いた。
「これ」
昨日も見せられた人形だ。
森を見るな。
水を見るな。
これを見ていろ。
たぶんそういう意味だ。
ありがたい。
カリンなりに、俺を怖いものから離そうとしてくれている。
俺は人形を握った。
「あう」
カリンは小さく頷く。
「よし」
いつもの確認。
少し安心する。
だが、今日はそれだけでは終わらなかった。
カリンは俺の手を握ったまま、少し声を落とした。
「よーか、こわいゆめ?」
俺は固まった。
なぜ分かる。
アンナが言ったのを聞いたのかもしれない。
いや、カリンはそういうところを妙に見てくる。
俺は少し迷ってから、声を出した。
「あう……」
カリンはまばたきをした。
「こわかったら、なく」
何度も言われている言葉だ。
困ったら泣く。
怖かったら泣く。
大人を呼ぶ。
俺は人形を握ったまま、少しだけ目を伏せた。
泣くほどではない。
でも、怖くないと言えば嘘になる。
あの「いたい」は、まだ耳の奥に残っている。
カリンは俺の手を両手で包んだ。
「わたし、いる」
短い言葉だった。
その短さが、今はありがたかった。
⸻
昼前、村長とヨシュアがやって来た。
隣町へ知らせを送った二人は、まだ戻っていない。
早くても明日。
それまでは、村でできることを続けるしかない。
ヨシュアは地図を広げ、村長とアンナに話していた。
俺は寝床に座り、カリンは隣で布人形を修理している。
耳は大人たちの会話を拾っていた。
「小川の上流は、ここから森の奥に入る」
ヨシュアが地図を指す。
「昔は薬草採りが通っていた道がある。ただ、最近はあまり使っていない」
村長が唸る。
「奥に行くなら、準備がいるな」
「行くとしても、隣町から人が来てからだ」
アンナがすぐに言った。
「水に出ているなら、森の中で触れる危険が高いわ。普通の魔物相手とは違う」
ヨシュアは頷いた。
「分かってる。今は村を守る方が先だ」
アンナの表情が少しだけ緩んだ。
たぶん、ヨシュアが無理に奥へ行かないと分かったからだ。
村長は地図を見ながら言った。
「水の精霊が荒れている、という話は聞いたことがあるが……」
水の精霊。
俺はその言葉に反応した。
胸の奥が、小さく震えた。
精霊魔法 LV1。
その文字が頭に浮かぶ。
昨日の水。
夢の中の声。
いたい。
まさか。
俺は地図の方を見た。
カリンがすぐに俺の手を押さえる。
「よーか」
「あう……」
分かってる。
見すぎない。
でも、今の言葉は聞き流せなかった。
アンナも俺の反応に気づいた。
一瞬だけこちらを見たが、すぐに村長へ視線を戻す。
「水の精霊が荒れるなら、水そのものが暴れるはずです。洪水や濁流、井戸の枯れ。今回は少し違う気がします」
「では?」
「荒れているというより……弱っているように見える」
弱っている。
その言葉は、昨日の表示と重なった。
生命力の低下反応。
森が病んでいる。
水が弱っている。
小鳥が落ちる。
薬草が萎れる。
声が、痛がっている。
俺は布人形を握る手に力を入れた。
村長は深く息を吐いた。
「精霊が弱るほどのものが、森にあると?」
アンナはすぐには答えなかった。
「まだ分かりません」
その一言で、部屋の空気が少しだけ落ち着いた。
分からない。
でも、無視はできない。
そのくらいが、今の答えだった。
⸻
午後、アンナは昨日ヨシュアたちが持ち帰った小川の水を、もう一度調べることにした。
布を巻いた瓶は三本。森の入口近く、小川の浅い場所、そして少し上流側。
その中でも上流側の水だけは、瓶越しに見ても妙に重く感じた。
もちろん、直接触れない。
瓶を布越しに持ち、皿にほんの少しだけ水を垂らす。
俺は少し離れた場所にいた。
カリンと一緒に。
距離はある。
それでも、瓶が出てきた瞬間、胸の奥がまたざわついた。
見たくない。
でも、気になる。
二つの感情が喧嘩している。
カリンが俺の横顔を見た。
「みすぎない」
「あう」
見すぎない。
今日は本当にそれが大事だ。
アンナは小さな水滴を皿に落とした。
水滴は透明だった。
けれど、皿の上でほんの少しだけ震えているように見えた。
風はない。
机も揺れていない。
アンナが指をかざす。
「魔力の流れが変ね」
ヨシュアは少し離れた場所から見ている。
「燃やせるか?」
「水そのものを燃やすわけにはいかないわ」
「黒い粉だけなら?」
「分けられれば、できるかもしれない」
アンナは小さく息を吐いた。
「でも、下手にやると水の中の魔力まで壊すかもしれない」
その言葉を聞いた瞬間、また聞こえた。
いたい。
今度は夢ではない。
耳で聞こえたわけでもない。
頭の中に直接響いたわけでもない。
胸の奥。
魔力のさらに奥に、小さな震えが伝わってきた。
いたい。
やめて。
俺は息を止めた。
水滴を見る。
見てはいけない。
そう思ったのに、目が離せない。
【小川の水滴】
飲用不可。
魔力の乱れあり。
黒い異物を含む。
微弱な精霊反応あり。
詳細不明。
精霊反応。
文字を見た瞬間、頭が熱くなった。
まずい。
分かった。
分かってしまった。
俺は声を出そうとした。
「あ、あう……!」
カリンがすぐに俺の手を握った。
「よーか!」
アンナが振り返る。
「ヨウカ、見たの?」
俺は返事もできず、アンナの方へ手を伸ばした。
水。
水。
そこに、何かいる。
俺は水滴を指差そうとした。
けれど、カリンが俺の手を包んだまま離さない。
「だめ。みすぎ、だめ」
その声は少し震えていた。
カリンも怖いのだ。
それでも俺を止めている。
アンナはすぐに瓶を布で覆った。
水滴の入った皿にも蓋をする。
視界から水が消えた瞬間、胸の痛みが少しだけ引いた。
俺は大きく息を吐いた。
赤ん坊の体なので、それだけで泣きそうになる。
いや、少し泣いた。
「あ、ああ……」
アンナが俺を抱き上げる。
「もう見ない」
短く、強い声。
俺はアンナの服を握った。
見ない。
もう見ない。
見たいけど、見ない。
ヨシュアが皿を見た。
「反応したな」
アンナは俺を抱いたまま頷く。
「たぶん、水そのものじゃない。何かがいる」
「精霊か?」
「分からない。でも、ヨウカはそう感じたのかもしれない」
俺はアンナの肩に顔を押しつけた。
いたい。
その声がまだ少し残っていた。
⸻
しばらくして、俺は落ち着いた。
泣いたせいで疲れた。
一歳児の体は本当にすぐ疲れる。
カリンは俺の隣から離れなかった。
布人形を俺の手元に戻し、じっとこちらを見ている。
「よーか、だめ」
「あう……」
はい。
だめでした。
今回は、少し見すぎた。
分かったことはある。
精霊反応。
でも、その代わりにかなり消耗した。
頭は重いし、胸の奥がまだざわついている。
俺が無理に見て得た情報は、大人たちには伝わったかもしれない。
けれど、次も同じことをしていいわけではない。
カリンは俺の手を握った。
「みたら、いたい?」
俺は少し驚いた。
そこまで分かるのか。
俺は小さく声を出した。
「あう」
痛い、というより、痛がっているのが伝わる。
でも、カリンにはそれで十分だったらしい。
「じゃあ、みない」
「あう」
そうですね。
できれば見ない方がいい。
カリンは少しだけ怒った顔をした。
「よーかも、いたい、だめ」
それは、胸に刺さった。
俺は、水の中の何かが痛がっていることに気を取られていた。
でも、俺自身が痛がることをカリンは嫌がっている。
当たり前だ。
俺が誰かを心配するように、カリンも俺を心配する。
そこを忘れると、また無茶をする。
俺はカリンの手を握り返した。
「あう」
ごめん。
たぶん伝わらない。
でも、カリンは少しだけ表情を緩めた。
「よし」
今回は、少し甘い「よし」だった。
⸻
夕方、大人たちは水滴の扱いについて話していた。
俺は寝床で休んでいる。
耳だけで聞く。
見ない。
見るとたぶん、また引っ張られる。
「精霊だとして、どうする」
ヨシュアが聞いた。
アンナは少し考えていた。
「弱っているなら、無理に燃やすのは避けたい。黒い粉だけを取り除ければいいけど、今の私には難しいわ」
村長が言う。
「隣町に、精霊に詳しい者は?」
「薬師のミラなら、水の精霊について少し知っているはずです」
アンナが答えた。
「ただ、専門家というほどではありません」
「それでも呼ぶしかないな」
「ええ」
話は、待つ方向になった。
隣町から人が来るまで、森側の水は封印。
小川にも近づかない。
水に黒い粉が混じっていた場合、燃やさず保管。
精霊反応があるものは、ヨウカに見せない。
最後の一つに、俺は少しだけ反応した。
見せない。
まあ、当然である。
一歳児が水滴を見て泣き出すのだ。
普通に考えて、見せない方がいい。
けれど、俺の中には小さな引っかかりがあった。
俺にしか聞こえないなら。
俺が見ないと、あの「いたい」は誰にも届かないのではないか。
そんな考えが浮かんだ。
その瞬間、ヨシュアの声がした。
「ヨウカに頼るのは駄目だ」
俺は目を開けた。
ヨシュアはこちらを見ていない。
アンナや村長に向けて言っている。
「何か感じ取っているとしても、あいつはまだ小さい。赤ん坊だ。情報源にするには負担が大きすぎる」
村長は静かに頷いた。
「そうだな」
アンナも言った。
「ヨウカが反応したことは大事。でも、それを利用する形にはしたくないわ」
利用。
その言葉に、胸の奥が少し揺れた。
俺の力は便利かもしれない。
でも、便利だから使えばいいわけではない。
俺自身が壊れたら、意味がない。
アンナとヨシュアは、そこを先に止めてくれる。
ありがたい。
そして、少し悔しい。
でも、今はその悔しさを飲むしかない。
俺は一歳児なのだから。
⸻
夜。
部屋の中は静かだった。
今日は、いつもより早めに寝かされた。
昼間に泣いたせいもあって、体はかなり重い。
カリンは帰る前に、布人形を俺の横に置いた。
「これ、かす」
「あう」
貸してくれるらしい。
「みず、みない」
「あう」
「こわかったら、なく」
「あう」
「いたかったら、なく」
俺は少し黙った。
痛かったら泣く。
それは、水の中の何かにも言えるのだろうか。
あの声は、泣いていたのかもしれない。
いたい。
それしか言えない何か。
俺は布人形を握った。
「あう」
カリンは俺を見て、小さく頷いた。
「よし」
カリンは少し迷ってから、俺の額に手を置いた。
「よーかも、だいじ」
短い言葉だった。
俺は布人形を握った。
水の中の何かが痛がっている。
助けたい。
でも、カリンは俺が痛がることを嫌がっている。
そのことも、忘れてはいけなかった。
どうやら、精霊の声がするらしい。
そしてその声は、俺が思っていたよりもずっと、小さくて、弱っているらしい。




