なんか村の人にも知られているらしい
牙猪の騒ぎから数日後。
フィル村は、思っていたよりも早く日常を取り戻していた。
壊れた柵は、村の男たちが集まって直している。
裂けた地面には土をかぶせ、焦げた草は刈られた。
魔物が来た場所には、まだ少し焦げた匂いが残っている。
たぶん、アンナの炎の跡だ。
豪炎の魔女。
あの異名を聞いてから、俺の中のアンナ像は少し変わった。
いつも薬草茶を淹れてくれる優しい母親。
魔法は安全第一と教える慎重な魔法使い。
その認識は間違っていない。
だが、それだけでもなかった。
必要な時には、森を燃やさず魔物だけを焼く人。
普通に考えて、かなりおかしい。
ヨシュアも同じだ。
鉄壁の要塞。
普段は薪を割って、椅子を直して、俺を抱く前に「抱くぞ」と声をかけてくれる人。
けれど、村人が混乱しそうになった瞬間、声だけで空気を整えた。
ただ強いだけじゃない。
守るために、誰をどこへ動かすか分かっている人だった。
俺はかなりすごい二人に拾われたらしい。
「ヨウカ、今日は少し外へ出ましょうか」
アンナが言った。
外。
俺は思わず顔を上げた。
牙猪の騒ぎ以来、俺は家の中にいることが多かった。
まあ、一歳児なので外に出るにも誰かの抱っこが必要である。
自由などない。
アンナは俺を布でしっかり包み、抱き上げた。
「勝手に魔力を動かさない」
「あう」
「変なものを見つめすぎない」
「あ……う」
「気になっても、手を伸ばしすぎない」
「あう」
注意事項が多い。
しかも的確である。
俺の行動パターンをかなり読まれている。
アンナは俺の顔を見て、少しだけ笑った。
「今、全部心当たりある顔をしたわね」
していない。
いや、したかもしれない。
そこへヨシュアが入ってきた。
「村まで行くのか?」
「ええ。ずっと家の中だと退屈でしょうし、村の人たちもヨウカを見たがってるもの」
俺は固まった。
村の人たちが、俺を見たがっている。
なぜ。
いや、理由は分かる。
豪炎の魔女と鉄壁の要塞が拾った子。
しかも銀髪の赤ん坊。
さらに、牙猪の騒ぎの時に家の中で大人しくしていたらしい子。
村人からすれば、気になる存在なのだろう。
ヨシュアは少し眉を寄せた。
「あまり囲ませるなよ。ヨウカは人に見られると、妙に疲れる時がある」
それはありがたい指摘だった。
俺自身も少し気づいている。
人に見られる。
目が合う。
相手の表情が柔らかくなる。
ただの赤ん坊への好意なのか、それ以上の何かなのかは分からない。
分からないからこそ、少し怖い。
アンナも真面目に頷いた。
「分かってる。長居はしないわ」
ヨシュアは俺の頭を軽く撫でた。
「困ったら泣け」
「あう」
最近、それをよく言われる。
困ったら泣く。
赤ん坊としては当たり前。
でも、俺にとっては意外と難しい課題だった。
⸻
外はよく晴れていた。
フィル村は大きな村ではない。
木造の家が並び、畑があり、井戸があり、少し離れたところに森がある。
道は土。
石畳ではない。
風が吹くと、草と土の匂いがした。
前世で住んでいた場所とは、まるで違う。
車の音もない。
電線もない。
コンビニもない。
その代わり、村人の声が近い。
「アンナさん!」
最初に声をかけてきたのは、丸い顔をした女の人だった。
腕には籠を抱えている。
中には焼きたてらしいパンが入っていた。
「ヨウカちゃん、外に出られるようになったのね」
ヨウカちゃん。
俺は一応その人を見た。
【マルタ】
状態:健康
詳細不明。
名前が出た。
村のパン屋の人だろうか。
マルタは俺を見るなり、顔をほころばせた。
「あらまあ、きれいな髪。銀糸みたいねえ」
銀糸。
そう言われて、俺は自分の髪のことを思い出した。
鏡で見た時、確かに俺の髪はかなり薄い銀色だった。
光に当たると白にも見える。
前世の俺とはまったく違う。
寺原丈賀だった頃の自分を思うと、どうにも不思議な気分になる。
男から女。
黒髪から銀髪。
大学生から赤ん坊。
変わりすぎである。
だが、いまさら悲観する気にはならない。
というか、悲観するにはアンナの腕が温かすぎる。
マルタはパンを一つ取り出した。
「アンナさん、これ持っていって。牙猪の時のお礼」
「そんな、もう十分もらったわよ」
「いいのいいの。豪炎の魔女様には逆らえないから」
アンナの眉がぴくりと動いた。
「マルタさん」
「あら、怖い怖い」
全然怖がっていない。
むしろ楽しそうである。
アンナはため息をついた。
「その呼び方、ヨウカの前ではやめてほしいのだけど」
「もう聞いてるでしょう?」
アンナは黙った。
聞いている。
かなり聞いている。
俺はアンナを見上げた。
アンナは少し気まずそうに目を逸らした。
豪炎の魔女。
やはり有名らしい。
⸻
井戸の近くへ行くと、今度は男たちが柵の修理をしていた。
その中心にヨシュアがいた。
板を運び、打ちつける場所を指示し、折れた杭を確認している。
「そこは浅い。もう少し掘れ」
「この角度だと次に押された時に割れる」
「逃げ道は塞ぐな。柵は守るためのものだが、閉じ込めるためのものじゃない」
村人たちは素直に従っている。
ヨシュアは命令しているのに、威張っている感じがしない。
当たり前のように、必要なことを言っているだけ。
それが逆にすごい。
「あ、要塞の旦那の娘だ」
誰かが言った。
要塞の旦那。
ヨシュアが顔をしかめた。
「やめろ」
村人たちは笑った。
「鉄壁の要塞様が照れてるぞ」
「照れてない」
「昨日あんだけ受け止めといて照れるなよ」
「仕事をしただけだ」
仕事。
牙猪の突進を止めるのが仕事。
どんな仕事だ。
俺はヨシュアを見た。
ヨシュアは俺に気づくと、表情を少しだけ柔らかくした。
「ヨウカ、外はどうだ」
「あう」
眩しいです。
あと、村人の情報量が多いです。
もちろん伝わらない。
ヨシュアは俺の顔をしばらく見て、アンナに言った。
「少し疲れてるかもしれん。人が多い」
伝わっている。
やはりこの人も察しが鋭い。
アンナは俺の背中を軽く叩いた。
「少し休みましょうか」
すると、村人の一人が慌てて木箱を持ってきた。
「ここ座ってくれ」
「ありがとう」
アンナが腰かける。
俺はアンナの腕の中で、村の様子を眺めた。
みんなが働いている。
柵を直す人。
水を運ぶ人。
子どもを家に戻す人。
壊れた部分を数える人。
牙猪は怖かった。
でも、その後に村を戻すのも大事なのだ。
守るとは、魔物を倒すことだけではない。
壊れた柵を直すこと。
次に備えること。
子どもを安心させること。
日常に戻すこと。
ヨシュアの「鉄壁」は、たぶん盾の硬さだけではない。
こういうこと全部を含めて、要塞なのだと思った。
⸻
しばらく休んでいると、カリンが走ってきた。
黒髪が揺れている。
以前は幼い印象が強かったが、こうして外で見ると、かなり凛としている。
黒髪のクール系。
前世の言い方をするなら、そんな感じだ。
ただし、俺を見ると表情が少し崩れる。
「よーか」
カリンは俺の前で止まった。
息は少し上がっているが、姿勢は崩れていない。
「そと、でた?」
「あう」
出ました。
カリンは俺をじっと見た。
「つかれた?」
「あう」
少し。
カリンはすぐにアンナを見た。
「やすませる」
アンナが笑う。
「今、休ませてるわ」
「なら、いい」
カリンは俺の隣に立った。
守る位置である。
村の子どもたちが数人、遠巻きにこちらを見ていた。
「ヨウカちゃんだ」
「銀の髪だ」
「カリンちゃん、その子と遊べるの?」
カリンの目が少し細くなった。
「みるだけ」
子どもたちが固まった。
カリン、圧がある。
「よーか、つかれる」
「あ、うん」
「ごめん」
子どもたちは少し距離を取った。
悪気はなかったのだろう。
ただ、珍しい赤ん坊を見たかっただけだ。
それでもカリンは止めた。
俺が疲れると思ったから。
ありがたい。
だが、少し申し訳ない。
俺はカリンの服を握った。
「あう」
大丈夫。
そういうつもりだった。
カリンは俺を見て、少し表情を緩めた。
「よし」
また「よし」だ。
俺の人生は、カリンの「よし」に管理されている気がする。
⸻
その後、村の老婆が近づいてきた。
腰が少し曲がっている。
手には杖。
【エミ婆】
状態:腰痛
詳細不明。
腰痛。
状態に出るのか。
俺は思わずじっと見た。
エミ婆は俺を見て笑った。
「おやおや、ヨウカちゃんはよく見る子だねえ」
アンナが少し警戒した。
「ヨウカ?」
俺はエミ婆の腰を見た。
歩く時、右側に重心が寄っている。
杖の使い方も少し無理がある。
たぶん腰だけではなく、膝にも負担が来ている。
医学スキルが反応している。
ただし、俺は医者ではない。
まして赤ん坊だ。
何もできない。
俺はアンナの服を握り、エミ婆の腰を見た。
アンナは俺の視線を追った。
「……腰?」
エミ婆が笑った。
「昔からだよ。歳を取るとあちこち痛くなる」
アンナは少し考えてから言った。
「あとで湿布薬を持っていくわ。前のもの、もう切れてるでしょう?」
「助かるよ」
エミ婆はにこにこしている。
俺は少しだけほっとした。
何もできない。
でも、気づくことくらいはできる。
それでアンナが動いてくれるなら、少しは意味があるのかもしれない。
ただし、気をつけなければならない。
人の状態を勝手に見る。
それは便利だが、かなり危うい。
相手が見せたくないものまで見てしまう可能性がある。
医学も観察も鑑定も、使い方を間違えれば失礼どころでは済まない。
知る力には、知った後の責任がある。
赤ん坊の俺には、まだ重すぎる話だ。
でも、たぶん忘れてはいけない。
⸻
村を一回りして、俺たちは家へ戻った。
アンナの腕の中で、俺はかなり疲れていた。
人が多い。
声が多い。
視線が多い。
目が合うたびに、相手の表情が柔らかくなる。
赤ん坊だから。
銀髪が珍しいから。
アンナとヨシュアの子だから。
そう考えれば自然ではある。
でも、それだけではない気もする。
俺には、まだ見えない何かがある。
〈?? LV-〉
〈???の加護〉
たぶん、そこに関係している。
だが、今は見ない。
無理に見ない。
分からないものを、分からないまま置いておくことも大事だ。
アンナが家の扉を開ける。
「疲れた?」
「あう……」
疲れました。
かなり疲れました。
アンナは俺を寝床に下ろした。
カリンも一緒に家へ入ってきて、俺のそばに座る。
「よーか、ねる?」
「あう」
寝る。
かなり寝る。
カリンは俺の手を握った。
「そと、こわかった?」
少し考えた。
怖いというより、情報が多かった。
でも、嫌ではなかった。
村の人たちは、温かかった。
少し騒がしくて、少し距離が近くて、俺のことを珍しそうに見ていた。
でも、悪意はなかった。
俺は声を出した。
「あう」
カリンはそれをどう受け取ったのか、満足そうに頷いた。
「なら、いい」
本当に分かっているのかは怪しい。
でも、カリンがそう言うと少し安心する。
⸻
夜。
アンナはマルタにもらったパンを温め、ヨシュアは牙猪の件で村長と話していたことを少しだけ話した。
「しばらく森側の見回りを増やす」
ヨシュアが言う。
「牙猪が村近くまで来た理由も調べる。餌場が変わったのか、何かに追われたのか」
何かに追われた。
その言葉に、少し引っかかった。
ただの魔物被害ではない可能性。
世界は、見えているより広い。
そしてたぶん、危ない。
アンナは俺に薬草茶の匂いをかがせながら言った。
「ヨウカ、今日はよく頑張ったわね」
頑張ったのだろうか。
俺は基本的に抱かれていただけだ。
でも、人に会うだけでも疲れた。
赤ん坊の体は、思った以上に繊細である。
ヨシュアも俺を見た。
「村に知られたな」
知られた。
かなり知られた。
豪炎の魔女の娘。
鉄壁の要塞の娘。
銀髪の変わった赤ん坊。
肩書きが増えていく。
俺は少し困った。
普通に暮らしたい気持ちはある。
だが、どうやら普通からは少しずつ離れているらしい。
アンナが俺の頭を撫でた。
「大丈夫。あなたはヨウカよ」
その言葉は短かった。
でも、少し救われた。
豪炎の魔女の娘でも。
鉄壁の要塞の拾い子でも。
銀髪の珍しい赤ん坊でも。
加護持ちでも。
スキル持ちでも。
まず、ヨウカ。
そう呼んでくれる人がいる。
それはかなり大事なことだった。
俺は眠気に沈みながら思った。
どうやら俺は、村の人にも知られているらしい。
そしてこの村は、思ったよりずっと、俺のことを受け入れてくれているらしい。




