なんかうちの親は普通じゃないらしい
アンナは、優しい人だ。
俺を抱く手はいつも丁寧で、声も柔らかい。
魔法を教える時も、まず言うのは「止め方」だ。
火は危ない。
魔法は危ない。
力は、使えることより止められることが大事。
それがアンナの教えだった。
だから俺は、アンナをどちらかと言えば慎重な魔法使いだと思っていた。
いや、もちろん魔法は使える。
生活魔法も、光も、闇も、薬草の扱いもできる。
でも、派手な人ではない。
少なくとも俺の前では、暖炉の火を整えたり、洗濯物を乾かしたり、薬草を刻んだりする人だった。
ヨシュアもそうだ。
大きな体で、低い声で、剣を持っている。
でも俺を抱く時は必ず声をかけるし、家では薪を割ったり、椅子を直したり、カリンに木剣の持ち方を教えたりしている。
怖い人ではない。
だから俺は、この二人を、強いかもしれないけれど、基本的には穏やかな村の大人だと思っていた。
その認識は、たぶん半分くらい間違っていた。
⸻
それは昼前のことだった。
俺はカリンと一緒に、家の中で積み木をしていた。
正確には、カリンが積む。
俺が見る。
たまに俺が手を出して崩す。
カリンが「よーか、だめ」と言う。
そういう遊びである。
「あう」
俺が積み木に手を伸ばすと、カリンがさっと守った。
「まだ」
まだらしい。
なかなか厳しい。
アンナは台所で薬草茶を作っていた。
ヨシュアは外で村の男たちと何か話している。
穏やかな日だった。
そう思っていたら、外から鐘の音が鳴った。
一回。
二回。
三回。
アンナの表情が変わった。
それまでの柔らかい顔ではない。
目が一瞬で鋭くなる。
俺はその顔を見て、体が少し固まった。
怒っている顔ではない。
でも、いつものアンナではなかった。
「カリン、ヨウカのそばにいて」
アンナの声は静かだった。
カリンはすぐに頷く。
「うん」
三歳児にしては反応が早い。
いや、カリンは昔から妙に反応が早い。
アンナは俺の方を見た。
「ヨウカ、動かない。魔力も動かさない。いい?」
「あう」
分かった。
いや、何が起きたのかは分かっていない。
でも、今は勝手に動く場面ではない。
アンナは扉へ向かった。
その時、ヨシュアが外から戻ってきた。
「森側に牙猪が三頭。うち一頭が大きい」
牙猪。
名前だけで嫌な感じがする。
猪型の魔物だろうか。
前世の普通の猪でも危ない。
魔物ならもっと危ないに決まっている。
アンナは眉を寄せた。
「村に近いわね」
「ああ。柵を壊して入るかもしれん」
ヨシュアはすぐに指示を出した。
「アンナ、火は森に向けるな。乾いてる。燃え広がる」
「分かってる」
「俺は村人を下げる。井戸前に集める。子どもは家の中。逃げ道は東側」
「私は森側ね」
「無理はするな」
アンナが少し笑った。
「あなたこそ」
この短いやり取りで分かった。
二人は慣れている。
緊急時の会話が速い。
無駄がない。
ヨシュアは俺とカリンを見た。
「カリン、ヨウカから離れるな」
「うん」
「怖くなったら声を出せ。黙って我慢するな」
「うん」
それは俺にも言っている気がした。
俺は小さく声を出した。
「あう」
ヨシュアは少しだけ笑った。
「お前もだ、ヨウカ」
伝わっている。
いや、伝わりすぎではないか。
⸻
外が騒がしくなった。
村人の足音。
誰かが子どもを呼ぶ声。
木の柵がきしむ音。
俺は窓の方を見ようとした。
カリンが俺の前に立つ。
「だめ」
見えない。
いや、守ってくれているのは分かる。
だが、気になる。
ものすごく気になる。
「よーか、だめ」
カリンの声はいつもより固かった。
俺は大人しくした。
今は見たい欲で動く場面ではない。
そう思った瞬間、外から低い唸り声が聞こえた。
獣の声。
普通の動物ではない。
腹の底に響くような音だった。
体が勝手に震えた。
カリンも少し震えた。
でも、彼女は俺の前から動かなかった。
「カリン」
俺は言葉にはできない。
でも、心の中でその名前を呼んだ。
カリンは小さな手で木剣を握っている。
もちろん、三歳児の木剣で魔物と戦えるわけがない。
でも、その背中は本気だった。
守る。
この子が何度も言ってきた言葉が、ただの遊びではないことが分かった。
その時、ヨシュアの声が外に響いた。
「全員、井戸前まで下がれ! 走るな! 荷物は捨てろ! 子どもを先に!」
低い声なのに、よく通る。
怒鳴っているわけではない。
でも、村の空気が一瞬で整った。
足音の乱れが消える。
泣きそうな子どもの声も、誰かがすぐに抱き上げたのか遠ざかった。
ヨシュアの声が続く。
「柵を閉じるな! 退路を残せ! 槍を持つ者は左へ、弓は屋根の上に上がるな、落ちるぞ!」
指示が速い。
しかも細かい。
ただ強い剣士というより、場全体を見ている。
俺は思った。
ヨシュア、普通の剣士ではない。
⸻
次の瞬間、柵が壊れる音がした。
木が砕ける。
誰かが息を呑む。
獣の足音が、地面を揺らす。
俺は思わず魔力を動かしそうになった。
光。
闇。
生活魔法。
何かできるかもしれない。
そう思った。
だが、すぐに止めた。
何もできない。
俺は一歳児だ。
見えもしない相手に、焦って魔力を動かすのはただの事故だ。
困ったら泣く。
怖かったら呼ぶ。
勝手にやるな。
アンナとカリンに言われたことを思い出す。
俺はカリンの服を握った。
カリンは少し振り返った。
「だいじょうぶ」
震えているのに、そう言った。
強がりだ。
でも、ありがたかった。
外で、アンナの声が聞こえた。
「ヨシュア、右に一頭流れた」
「見えてる。通す」
通す?
俺は意味が分からなかった。
魔物を通すのか。
次の瞬間、ヨシュアの声が響いた。
「今!」
空気が変わった。
アンナの魔力が動いたのが、家の中にいても分かった。
熱。
ただし、暖炉の火とはまったく違う。
圧倒的な熱が、外で一瞬だけ膨れ上がった。
だが、広がらない。
爆発もしない。
一点に集まって、噛みつくように燃えた。
窓の外が赤く光る。
魔物の叫び声。
焦げた匂いが、ほんの少しだけ入ってきた。
俺は息を呑んだ。
火だ。
アンナの火。
俺が出した火花とはまったく違う。
生活魔法ではない。
火種でもない。
あれは、攻撃のための炎だ。
けれど、森は燃えていない。
家も燃えていない。
草が広く燃え上がることもない。
炎は、必要な場所だけを焼いて、すぐに消えた。
異常な火力。
異常な制御。
アンナは火が得意なのだと、その時初めて本当に分かった。
優しい母親の手と同じ人が、あんな炎を扱っている。
少し怖かった。
でも、それ以上にすごかった。
⸻
外ではヨシュアが動いていた。
足音が重い。
剣の音。
魔物が突進する音。
ヨシュアの声。
「槍を下げるな! 押すな、受けろ! 足元を見ろ!」
がん、という鈍い音が響いた。
何か大きなものが、硬いものにぶつかった音。
ヨシュアが受けたのだろうか。
普通なら吹き飛ばされるような音だった。
だが、ヨシュアの声は揺れなかった。
「止めた。アンナ」
「了解」
再び赤い光。
今度は短い炎の槍のようなものが、横から走った。
魔物の叫び。
地面を引っかく音。
それから、静かになった。
しばらく誰も喋らなかった。
俺はカリンの服を握ったまま、息を止めていた。
カリンも動かない。
数秒後、ヨシュアの声がした。
「終わった。怪我人の確認。柵は後で直す。まず子どもを安心させろ」
終わったらしい。
俺は一気に力が抜けた。
怖かった。
普通に怖かった。
魔物の姿はほとんど見ていない。
それでも怖かった。
赤ん坊の体は、危険に素直だ。
俺は小さく声を漏らした。
「あ……」
カリンが振り返り、俺の頭を撫でた。
「よーか、だいじょうぶ」
今度はさっきより声が柔らかかった。
たぶん、自分も安心したのだ。
俺はカリンの手に額を押しつけた。
大丈夫。
たぶん、大丈夫。
⸻
しばらくして、アンナとヨシュアが戻ってきた。
アンナの服には、少し焦げた匂いがあった。
だが、髪も肌も乱れていない。
ヨシュアの盾には大きな傷がついていた。
いや、盾ではない。
大きな鉄板のような防具を片腕に装着している。
あれで牙猪の突進を受けたのか。
人間が?
無理では?
「ヨウカ」
アンナが俺を抱き上げた。
いつもの手だった。
さっき外で炎を放っていた人と同じ手とは思えないくらい、柔らかい。
「怖かった?」
「あう……」
怖かった。
かなり怖かった。
アンナは俺を抱きしめた。
「よく魔力を動かさなかったわね」
俺は少し驚いた。
分かっていたのか。
アンナは苦笑する。
「動かしかけたけど、止めたでしょう」
そこまで分かるのか。
この人、やはり普通ではない。
ヨシュアも近づいてきた。
「よく我慢したな」
「あう」
我慢しました。
かなり我慢しました。
ヨシュアは俺の頭を大きな手で撫でた。
少し重い。
でも、怖くはない。
カリンがヨシュアを見上げた。
「ヨシュア、つよい」
ヨシュアは少し困ったように笑った。
「そうでもない」
いや、今のは絶対に強い。
赤ん坊でも分かる。
アンナが肩をすくめた。
「この人、昔からそう言うのよ」
ヨシュアは視線を逸らした。
「大げさに言うことじゃない」
その時、外から村人の声が聞こえた。
「助かったよ、豪炎の魔女様」
俺は固まった。
豪炎の魔女。
誰のことだ。
いや、アンナだろう。
他にいない。
アンナは眉をひそめた。
「その呼び方、やめてと言ってるでしょう」
村人は笑った。
「じゃあ、鉄壁の要塞様にも言っとくよ」
ヨシュアが顔をしかめた。
「そっちもやめろ」
鉄壁の要塞。
ヨシュアのことだろう。
俺は二人を見た。
豪炎の魔女。
鉄壁の要塞。
名前が強すぎる。
俺の拾い親、もしかしてかなり有名人なのではないか。
アンナは俺の視線に気づいた。
「……ヨウカ、変な顔してる」
していると思う。
かなりしていると思う。
ヨシュアがため息をついた。
「昔の異名だ。気にするな」
気にするなと言われても無理がある。
豪炎の魔女と鉄壁の要塞である。
気にするなという方が難しい。
⸻
その日の夜、家はいつも通りだった。
アンナは薬草茶を淹れた。
ヨシュアは傷ついた盾を見て、修理の算段をしていた。
カリンは疲れたのか、俺の隣でうとうとしている。
魔物が来たとは思えないくらい、家の中は静かだった。
でも、俺の中では何かが変わっていた。
アンナは、ただ優しいだけの魔法使いではない。
火の怖さを知っているからこそ、火を軽く扱わせない人だった。
ヨシュアは、ただ穏やかな剣士ではない。
守ることの重さを知っているからこそ、逃げ道や指示を大事にする人だった。
豪炎の魔女。
鉄壁の要塞。
大げさな異名だと思う。
でも、少しだけ分かる気もした。
俺は自分の小さな手を見た。
魔力はある。
適性もある。
スキルもある。
でも、今日の二人を見て思った。
力があることと、力を使えることは違う。
炎を出せることと、余計なものを燃やさないことは違う。
防げることと、誰をどこへ動かすか判断できることは違う。
アンナとヨシュアは、強い。
たぶん、かなり強い。
でも、二人が本当にすごいのは、強いことそのものではない。
必要な時にだけ使うこと。
守るために使うこと。
そして、終わったらちゃんと家に戻ってくること。
俺はそれを見た。
アンナが俺の額を撫でた。
「眠い?」
「あう」
眠い。
かなり眠い。
でも、寝る前にひとつだけ思った。
どうやら、うちの親は普通じゃないらしい。
そして俺は、かなりすごい人たちに拾われたらしい。




