第二十三話 あなたの春をください
明治三十七年、十二月。
葛城冬馬が最後に書いた手紙には、宛名がなかった。
正確には、書けなかったのだ。
誰に宛てればいいのか、もうわかっていた。
それでも、その名前を紙に残すことが、敵陣へ突撃するより恐ろしかった。
「……冬馬さん?」
背後から声がした。
冬馬は便箋を伏せた。
「起きたのか」
「隣が冷たかったので」
水無瀬伊織は毛布を肩に掛け、崩れた兵舎の戸口に立っていた。
頬は痩せ、指には小さな傷が増えている。それでも冬馬を見る目だけは、故郷の春を思わせるほど柔らかい。
「傷、痛みますか」
「もう塞がった」
「また嘘」
伊織は隣に腰を下ろし、冬馬の左脇腹へ視線を落とした。
「あなたの嘘は、いつも自分の命を軽くするときだけですね」
冬馬は苦笑した。
「……お前には敵わねえな」
伊織は何も言わず、その肩へ頭を預けた。
砲声のない夜だった。
だからこそ、二人は眠れなかった。
*
翌朝、部隊に後退命令が届いた。
だが前線の一部が敵の砲撃に晒され、負傷兵の収容が遅れていた。
「後衛が必要だ」
上官の言葉に、冬馬は即座に名乗り出た。
伊織は息を呑んだ。
「……軍曹」
「水無瀬、お前は負傷者と下がれ」
「僕も残ります」
「命令だ」
冬馬の声は冷たかった。
それが、伊織には何より恐ろしかった。
「……約束したでしょう」
「何を」
「一緒に、春を見るって」
冬馬の表情が揺れた。
けれど、すぐに軍人の顔へ戻った。
「……生きて帰れ」
伊織は唇を噛んだ。
「あなたがいない春なんて、僕は――」
「言うな」
冬馬は低く遮った。
「お前には、待ってる人がいる」
その言葉に、伊織は胸を刺されたような顔をした。
静江。
故郷。
まだ終わっていない人生。
すべて大切だった。
けれど、冬馬もまた、大切だった。
「……冬馬さん」
伊織は震える声で言った。
「僕が帰りたいのは、あなたを置いていくためじゃありません」
冬馬は答えられなかった。
*
出発まで、わずかな時間があった。
冬馬は伊織を崩れた石壁の陰へ連れていった。
「……手を出せ」
伊織が差し出した掌に、小さな紙包みが置かれた。
開くと、古びた桜の押し花が入っていた。
「……これ」
「日清戦争のとき、戦友がくれた」
冬馬は目を伏せた。
「生きて帰ったら、一緒に桜を見ようってな」
伊織は息を止めた。
以前、冬馬が語った約束。
帰らなかった戦友。
桜を嫌いになった理由。
「……ずっと、持っていたんですね」
「ああ」
冬馬は伊織の手を包んだ。
「捨てられなかった。あいつが死んでから、春が来るたび腹が立った」
伊織は押し花を見つめた。
褪せた花弁は、指先で触れれば崩れてしまいそうだった。
「……なのに、僕に?」
冬馬は笑った。
それは伊織が初めて見る、何の諦めも含まない笑顔だった。
「俺の春は、お前にやる」
伊織の目から、涙が落ちた。
「……嫌です」
冬馬が眉を寄せる。
「何?」
「そんな、形見みたいな渡し方」
伊織は冬馬の胸を掴んだ。
「僕は、あなたと春が見たいんです」
冬馬は何も言わなかった。
ただ、伊織を抱き寄せた。
「……すまねえ」
その謝罪が、答えだった。
*
伊織は冬馬に口づけた。
怒りも、悲しみも、愛しさも、全部押し込めるような口づけだった。
冬馬は伊織の背を抱き、ゆっくりと唇を重ね返した。
「……伊織」
「……はい」
「お前に会えて、よかった」
伊織は首を振った。
「そんなこと、今言わないでください」
冬馬は伊織の額に唇を寄せた。
「俺は、ずっと誰にも待たれてねえと思ってた」
声が震えていた。
「でも、お前がいた」
伊織は冬馬の軍服を握り締めた。
「……待ってます」
「ああ」
「ずっと、待ってますから」
冬馬は目を閉じた。
その約束だけは、受け取ってはいけないと思った。
けれど、拒むこともできなかった。
*
砲撃が始まった。
冬馬は後衛に残り、伊織は負傷兵を支えながら後退した。
何度も振り返った。
そのたび、冬馬の姿は土煙の向こうへ遠ざかった。
「……軍曹!」
叫んでも、声は届かない。
やがて、轟音が響いた。
地面が揺れた。
伊織は足を止めた。
「……冬馬さん?」
返事はなかった。
もう一度、叫ぼうとした。
そのとき、隣の負傷兵が倒れた。
伊織は反射的に支えた。
その重みが、冬馬の最後の命令を思い出させた。
――生きて帰れ。
伊織は泣きながら、負傷兵を背負い直した。
振り返らなかった。
振り返れば、きっと戻ってしまうから。
*
夜。
収容された兵士たちの名簿に、葛城冬馬の名前はなかった。
戦死者の確認は、まだ終わっていない。
それでも、誰も彼の帰還を口にしなかった。
伊織は膝の上で、桜の押し花を見つめていた。
その下には、結局渡しそびれた手紙。
『あなたが帰る場所を、僕は知りません』
伊織は震える指で、続きをなぞった。
『だから、もしよければ、僕の故郷へ来てください』
「……来てくださいよ」
声が掠れた。
「僕、ちゃんと待ってるのに」
涙が便箋へ落ちた。
そのとき、背後から声がした。
「……水無瀬」
振り向くと、同じ部隊の兵士が立っていた。
冬馬が後衛に残る直前、預けていったという封筒を持っていた。
宛名はない。
伊織は震える手で受け取った。
中には、短い文章があった。
『字の上手いお前に、こんなものを見せるのは恥ずかしい。
俺は、手紙を書くのが嫌いだった。
書けば、帰る場所ができるからだ。
だが、お前に会ってから、初めて帰りたいと思った。
伊織。
春を見るたび、俺のことを思い出さなくてもいい。
ただ、どうか生きてくれ。』
最後の一行だけ、筆跡が乱れていた。
『愛している。』
伊織は手紙を胸に押し当てた。
声を殺そうとした。
けれど、できなかった。
冬馬がくれた春を、まだ一度も一緒に見ていない。
それなのに、春だけが残された。
「……あなたの春を、くださいなんて」
「僕は、そんなこと、頼んでない……」
冬の夜空に、遠い砲声が響いていた。




