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第二十二話 明日を知らない男たち

明治三十七年、十一月。


葛城冬馬が水無瀬伊織に初めて嘘をついたのは、旅順の空が赤く染まった夜だった。


「……大丈夫だ。明日には、ここを離れられる」


冬馬はそう言って、伊織の頬についた泥を親指で拭った。


嘘だった。


翌朝、彼らの小隊には敵陣への前進命令が下る予定だった。生還を保証できる者など、誰もいない。

それでも冬馬は、伊織に今夜だけは眠ってほしかった。


「冬馬さん」


「何だ」


「嘘が下手ですね」


伊織は微笑んだ。

その笑顔が、冬馬には何より恐ろしかった。


*


数日前から、砲撃は激しさを増していた。


塹壕の底には泥水が溜まり、兵士たちは濡れた靴のまま眠った。

食糧は乏しく、負傷者を後方へ運ぶ人手さえ足りない。


伊織は相変わらず、仲間の手紙を代筆していた。


「水無瀬、妹に書いてくれ」


「はい。何と?」


「兄ちゃんは元気だって。あと、嫁に行くなら俺より男前を選べって」


「それは難しい注文ですね」


笑いが起きた。

冬馬は少し離れた場所から、その光景を見ていた。


伊織が笑うと、兵士たちも笑う。


死がすぐ隣にある場所で、あの青年はまだ、人間が人間らしくいられる時間を作っていた。


「……軍曹殿」


隣にいた若い兵士が、ぽつりと言った。


「水無瀬は、帰れますかね」


冬馬は煙草を揉み消した。


「……帰す」


それは命令でも、祈りでもなかった。

自分自身への、誓いだった。


*


翌朝、前進命令が下った。


伊織は銃を握り締め、冬馬の背中を追った。


砲声。

土煙。

怒号。


そして、突然途切れる誰かの声。


「伏せろ!」


冬馬の叫びと同時に、地面が跳ね上がった。

伊織は衝撃で転がり、耳が聞こえなくなった。


視界の端で、仲間が倒れている。


昨日、妹への手紙を頼んできた兵士だった。


「……っ!」


駆け寄ろうとした伊織の襟を、冬馬が掴んだ。


「出るな!」


「でも、あの人が!」


「今出たら、お前も死ぬ!」


伊織は歯を食いしばった。

倒れた兵士は、もう動かなかった。


冬馬の手が、伊織の肩を強く押さえた。


「……見ろ。忘れるな。だが、今は生きろ」


その声は、ひどく苦しかった。


*


戦闘が途切れた頃には、小隊の半数近くが動けなくなっていた。


冬馬も左脇腹を負傷していた。


「……冬馬さん!」


伊織が駆け寄ると、冬馬は眉を寄せた。


「大声を出すな。かすり傷だ」


「そんなわけないでしょう!」


伊織は軍服を開き、血に濡れた布を見た。

深い傷ではなかったが、出血が続いている。


「……どうして、いつも」


声が震えた。


「どうして、あなたは自分の命を後回しにするんですか」


冬馬は答えなかった。

伊織は震える手で包帯を巻いた。


「……僕に帰れって言ったでしょう」


「ああ」


「あなたも帰るって、言ったでしょう」


冬馬は目を閉じた。


「……ああ」


伊織の涙が、冬馬の手に落ちた。


「だったら、守ってくださいよ。その約束を」


冬馬は伊織の頬に触れた。


「……すまん」


その一言が、伊織には何より怖かった。


*


夜、二人は崩れた兵舎の片隅で身を寄せていた。


冬馬の傷は応急処置を受け、出血も収まっていた。

伊織は冬馬の隣で、眠れずにいた。


「……冬馬さん」


「何だ」


「僕、今日、人が死ぬところを見ました」


冬馬は黙って聞いていた。


「昨日まで笑ってた人が、今日はいないんです」


伊織は膝を抱えた。


「……僕、怖いです」


冬馬はその肩を抱き寄せた。


「怖くていい」


「……でも」


「怖いと思えるうちは、まだ戻れる」


伊織は冬馬の胸に顔を埋めた。


「……帰りたい」


「ああ」


「あなたと、一緒に」


冬馬の腕が、わずかに強くなった。


*


伊織が顔を上げると、冬馬は静かに口づけた。

唇は冷たかった。


けれど、その奥にある熱だけは、確かだった。


「……伊織」


冬馬が名前を呼ぶ。

伊織はその首に腕を回した。


「……今夜だけ、軍曹じゃなくて」


「……ああ」


「僕の、冬馬さんでいてください」


冬馬は答える代わりに、もう一度唇を重ねた。

伊織の震える指が軍服の襟をほどく。冬馬はその手を包み、急がず、確かめるように額を寄せた。


「……嫌なら、言え」


「嫌じゃありません」


伊織は涙を拭い、小さく笑った。


「あなたに触れていると、生きてるって思えるんです」


冬馬は苦しげに目を閉じた。

そして、伊織を抱き締めた。


戦場の夜は冷たかった。

二人は互いの体温を確かめながら、夜明けまで寄り添った。


明日を知らない男たちに許されたあまりにも短い幸福だった。


*


夜明け前、冬馬は目を覚ました。

伊織はまだ眠っている。


その手には、折り畳まれた便箋が握られていた。

冬馬は起こさぬように、その紙を見た。


宛名。


『葛城冬馬軍曹殿』


胸が詰まった。

開いてはいけないと思った。


けれど、伊織が寝言のように呟いた。


「……読んで、ください」


冬馬は息を止めた。


「……起きてたのか」


伊織は目を開け、微笑んだ。


「ずっと、渡したかったんです」


冬馬は便箋を開いた。


『あなたが帰る場所を、僕は知りません。


だから、もしよければ、僕の故郷へ来てください。


春には、山の麓に桜が咲きます。


あなたにも、見せたいです。』


冬馬は長いあいだ、何も言えなかった。

やがて、便箋を丁寧に畳み、胸元へしまった。


「……伊織」


「はい」


「俺は、桜が嫌いなんだ」


伊織は驚いた。

冬馬は苦笑した。


「昔、戦友と約束した。生きて帰ったら、一緒に見ようってな」


「……その人は」


「帰らなかった」


沈黙が落ちた。

伊織はそっと冬馬の手を取った。


「……じゃあ、今度は僕と見ましょう」


冬馬は、その手を握り返した。


「……ああ」


けれど、声は震えていた。


遠くで、次の砲声が響いた。

冬馬は伊織を抱き寄せ、目を閉じた。


春を約束するたび、戦場は誰かから春を奪っていく。

それでも、二人は約束せずにはいられなかった。

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