第二十一話 戦場で恋をした
明治三十七年、十一月。
水無瀬伊織が葛城冬馬に恋をしていると気づいたのは、砲弾が落ちてきた瞬間だった。
人間は死の間際、故郷の風景を見るという。
伊織が見たのは、長野の山でも、母の顔でも、許嫁の静江でもなかった。
泥に汚れた軍服の背中。
「伏せろ、水無瀬!」
冬馬に襟首を掴まれ、地面へ引き倒された直後、数間先の土が爆ぜた。
耳鳴りの中、冬馬の腕が伊織の頭を覆っている。
「怪我は」
「……ありません」
「声が小せえ!」
「ありません!」
冬馬はようやく息を吐いた。
その安堵した顔を見て、伊織は理解してしまった。
自分は、この人が好きなのだ。
生きて帰りたいと願うのと同じくらい、この人に生きていてほしい。
それはもう、尊敬だけでは説明できなかった。
*
夜、部隊は崩れかけた農家を仮の宿営地にした。
伊織は冬馬の左腕に血が滲んでいるのを見つけた。
「軍曹、怪我を」
「擦っただけだ」
「見せてください」
「必要ねえ」
「僕には生き残れと言うくせに、ご自分はどうでもいいんですか」
冬馬が黙った。
伊織はその隙に袖を捲った。
裂けた皮膚から血が滲んでいる。深くはないが、放置できる傷でもない。
「……馬鹿ですね」
「上官に向かって言う言葉か」
「命令違反なら、あとで罰を受けます」
伊織は手持ちの清潔な布で傷を覆った。
冬馬は、その伏せた睫毛を見ていた。
戦場に来てから、伊織は少し痩せた。頬の柔らかさが失われ、指には筆胼胝のほかに銃を握る傷が増えた。
それでも、誰かを心配するときの顔だけは変わらない。
冬馬には、それが恐ろしかった。
守りたいものができると、人は判断を誤る。
日清戦争で、嫌というほど知ったはずだった。
「……水無瀬」
「はい」
「お前、俺に構いすぎだ」
伊織の指が止まる。
「……嫌ですか」
冬馬は答えなかった。
その沈黙に、伊織は小さく笑った。
「僕は、嫌じゃありません」
*
深夜、伊織は眠れずにいた。
懐には、まだ渡せていない手紙がある。
『あなたが帰る場所を、僕は知りません』
あの日、書いた言葉。
その続きを、何度も考えた。
僕の故郷へ来てください。
一緒に桜を見ませんか。
けれど、そこには静江がいる。
伊織を待つと約束した人がいる。
彼女への情を嘘にしたくなかった。
それでも、冬馬の隣にいたい。
その矛盾が、胸を締めつけた。
「……起きてるのか」
戸口に冬馬が立っていた。
「軍曹こそ」
「見回りだ」
「怪我人なのに?」
「口が減らねえな」
伊織は笑い、少し迷ってから尋ねた。
「……軍曹は、誰かを好きになったことがありますか」
冬馬は眉を寄せた。
「こんなところでする話か」
「こんなところだから、聞きたいんです」
しばらく沈黙が続いた。
やがて冬馬は、伊織の隣へ腰を下ろした。
「……ある」
伊織の胸が痛んだ。
「その人は、今どこに?」
「知らねえ」
「……会いたくないんですか」
冬馬は伊織を見た。
「会いたいと思ったら、困る相手だ」
伊織は息を止めた。
冬馬の視線が、逃げ道を塞ぐようにまっすぐだった。
「……それは」
「聞くな」
低い声。
けれど、拒絶ではなかった。
伊織は震える手を伸ばし、冬馬の袖を掴んだ。
「……僕だったら、困りますか」
冬馬の喉が動いた。
「……困る」
「どうして」
「お前には、帰る場所がある」
「軍曹にも、あっていいでしょう」
「水無瀬」
「伊織です」
冬馬が目を見開いた。
伊織は泣きそうな顔で笑った。
「今だけ、名前で呼んでください」
長い沈黙のあと、冬馬が呟いた。
「……伊織」
その一言だけで、胸がいっぱいになった。
*
先に口づけたのは、伊織だった。
ほんの一瞬、唇が触れただけ。
けれど離れようとすると、冬馬の手が頬に添えられた。
「……後悔するぞ」
「もう、しています」
伊織は小さく笑った。
「あなたを好きになったことじゃありません。もっと早く、好きだと言わなかったことを」
冬馬の表情が崩れた。
次の口づけは、冬馬からだった。
強く、苦しいほど切実に。
伊織は冬馬の軍服を掴み、震える息をこぼした。
冬馬はすぐに唇を離した。
「……怖くねえのか」
「怖いです」
伊織は正直に答えた。
「でも、あなたが死ぬほうが、ずっと怖い」
冬馬は額を寄せた。
「……俺もだ」
その言葉は、ほとんど祈りだった。
*
二人は、その夜、同じ毛布の下で眠った。
冬馬は伊織を抱き締めながら、何度も髪に口づけた。
伊織はその胸に耳を当てた。
心臓が動いている。
ただ、それだけのことが、泣きたくなるほど嬉しかった。
「……軍曹」
「冬馬でいい」
「……冬馬さん」
冬馬の腕に、少しだけ力がこもった。
「僕、帰ります」
「ああ」
「静江にも、ちゃんと話します」
冬馬は目を閉じた。
「……そうしろ」
「でも、あなたのことも、忘れません」
冬馬は答えなかった。
ただ、伊織の手を取り、自分の胸元へ押し当てた。
「……忘れてもいい」
「嫌です」
「お前は頑固だな」
「軍曹ほどじゃありません」
二人は小さく笑った。
外では、遠い砲声が続いていた。
*
夜明け前。
冬馬は眠る伊織の傍らで、懐から古い紙片を取り出した。
『生きて帰ったら、桜を見に行こう』
かつて戦友が残した約束。
冬馬はそれを静かに畳み、伊織の寝顔を見つめた。
今度こそ、誰かと春を迎えたい。
そう願ってしまった自分が、ひどく愚かに思えた。
そのとき、伊織が寝言のように呟いた。
「……冬馬さん」
冬馬は息を止めた。
「……帰りましょうね」
冬馬は目を閉じた。
そして、誰にも聞こえない声で答えた。
「……ああ。帰ろうな」
それが叶わない約束になるかもしれないと、二人とも知っていた。
それでも、約束せずにはいられなかった。
戦場で恋をした。
明日があると信じるために、今日、愛していると言った。




